かえるの聴聞

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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三願転入云々ということで、古い記事をサルベージしてみた。
かえるを題材にして、本願の生因三願に対する衆生の姿勢を喩えた話である。

かえるの聴聞

最近は小生の住んでいる越前の田舎でも蛙が少なくなりました。結婚当初家内が蛙の鳴き声がうるさくて眠れないと言ったほど沢山蛙がいたのですが…..。家の爺さんは昔自分が聞いた聴聞をよく小生にしてくれるのですが以下の三願 転入のおたとえは蛙の話です。

手をついて、あたまの下がらん、かえるかな (一九願)

水にいて、雨を求める、かえるかな (二〇願)

釣瓶(つるべ)にて、汲み上げられたる、かえるかな (一八願)

小生はいわゆる三願転入派ではありませんが先達は面白いおたとえで御法義を 伝える為に苦労なされたのですね。
子どもの頃に小さな池の中にいる蛙が外に出ようとしているので、棒切れで蛙を上に乗せて池の外に出してやろうとするのですが、乗ったかと思うとピョンと飛び降りてしまいます。何回やっても棒切れに乗ったかと思うとピョンと飛び出すので業を煮やしてバケツで蛙を汲み出したことがありました。でも翌日になるとまたちゃんと池の中に戻って外へ出ようと跳ねていました。

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなわで流転せり

ガンジス河の砂の数ほどの仏様が南無阿弥陀仏とお示しにも関わらず逃げてき たのがお前の歴史だよと宗祖はお示しです。「いずれにも ゆくべき道の 絶えたれば 口割りたもう 南無阿弥陀仏」ですと 自力無効を教示された善知識がおられます。 浄土真宗は阿弥陀様の本願他力回向のご宗旨でありました。

四十八願中、十方の衆生と呼びかけられる願に三願ある。いわゆる、第十八、第十九、第二十の願である。(*)
この三願に対する領解が、かえるの聴聞の喩えである。第十九願は聖道門から浄土門に入ったが、聖道門の行業(諸善)をもって浄土を欣う者への願であり、手をついて阿弥陀如来の本願に帰依しているのだが、自力の頭が下がらないという誡めである。
第二十願は、名号の功徳性に着目し、聖道門の行を捨て、なんまんだぶを称えながらも名号を自己の修する行と勘違いしている者への願である。法の中にいながら法を求める様相を、水にいて雨を求める蛙に喩えている。
浄土真宗は、本願力回向のご法義であるから、全分他力(利他力)である。「本当に疑いなく私の国に生まれるとおもって、たとえ十声でも、なんまんだぶという私の名をを称えよ」というのが第十八願である。このなんまんだぶは、如来が本願に選択摂取して下さった行であるから、わたしが称えるのではなく本願の行がわたしに来ているということである。行も信も如来の側で成就して、こちら側ではなにもすることがない、まるで釣瓶で汲み上げられたかえるのようだと喩えるのである。我に手のなし南無阿弥陀仏である。

 

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

常に虎の説法

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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朝鮮民画 朝鮮民画(ちょうせんみんが)は、朝鮮の庶民の実用的な民俗絵画である。結婚還暦などの儀礼、装飾、魔よけ、開運などの実用的な目的のために、屏風掛軸にしたり、壁に貼ったりして用いられる。表現は稚拙ではあるが、滑稽味があり、素朴で大胆なところが、独特の味わいを出しているものが多い。{中略}
民画という言葉は、民芸運動の創始者である日本人の柳宗悦が、日本の大津絵などの民俗絵画を指して使い始めたものである。柳は、日本統治時代の朝鮮でも美術品を収集研究し、朝鮮民画の収集研究も始めた。柳によって、それまでは収集研究の対象とは考えられていなかった朝鮮民画が、注目され収集研究の対象となった。
以上、「Wikipediaの朝鮮民画の項より引用

上掲の図は、朝鮮民画の虎の絵である。素朴なタッチには惹かれるところも、ままあるのだが、美的センスのない林遊にはどうしても虎には見えず猫に見えてしまう。写実画がしっかり出来てこそ抽象画が描けるのだと聞いたことがあったが、何事も基本がしっかりしていれば派生するディティールもはっきり伝えられるのであろう。

さて、三願転入などに迷っている人に対する、浄土真宗ご法義の基本の話である。知人から貰ったTEXTだが、以下に、三願転入というプロセスに迷い如来の真実義を見失っている人に対する、某氏の古い著述を引用する。

虎の説法

信前の人に、称名念仏をはげみなさい、そうすれば早く助かると勧めなさるのは、二十願のすゝめで浄土宗の教えである。即ち『浄土和讃』に、
定散自力の称名は、
果遂のちかひに帰してこそ、
おしへざれども自然に
真如の門に転入する。
と説かれているように、一声でも念仏称えた者は一度は晴れて満足の明信仏智の第十八願の世界まで転入させずにはおかぬというのが二十願で果遂の誓というのだが、この果遂について一生の果遂、二生の果遂等があり、自力念仏の人が此の世で他力に入るのは一生の果遂であり、次生で他力に入るのは二生の果遂である。このように無窮に果遂を味うことが出来るが一度は他力の信に入らねば報土の往生は絶対に出来ないのだ。
然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。

未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

驚くべきことに、これは現在、三願転入という名目で、仮である『観経』の定善・散善の善という語に立脚して「善の勧め」を勧励している会の会長の文章である。善と称し会員の財物と時間を搾取している会長の過去の著述である。法の前では聞信するということを知らないため、自らを「教家」に擬しているのは若さゆえの過ちであろう。もちろん、彼の資質がそのようなものを内包していたのであろうが、浄土真宗史上、未だかってないような異義・異端・異安心を輩出したのみならず、多くの若者を宗教の名の下で塗炭の苦しみを味あわせてきたのである。
寺の次男坊として生まれ、参詣の老婆が称える行具の三心のなんまんだぶを知らず、若さゆえの性的リピドー の爆発を、浄土真宗のご信心と錯覚・誤解したのが若き氏であったのだろう。浄土真宗は、なんまんだぶを称えることによって往生して、証(仏の覚り)を得る宗旨である。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ 『正像末和讃

自らには、有る事のない信心を求め他者に強制し、阿弥陀如来から回向される行信を知らなかった氏は、なんまんだぶという回向されたお念仏を誹謗し遮蔽した罪によって、阿鼻地獄に堕在するのかも知れない。林遊がいうのではなく、御開山が和讃しておられるのである、為念。

ちなみに、『観経」の下中品では、不浄説法とか邪命説法を戒められている。不浄説法とあるから当然、法を説くものへの教戒である。

仏告阿難及韋提希 下品中生者 或有衆生毀 犯五戒八戒及具足戒 如此愚人 偸僧祇物 盗現前僧物 不浄説法無有慙愧 以諸悪業而自荘厳 如此罪人以 悪業故応堕地獄命欲 終時地獄 衆火一時倶至
意訳:釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。 「 次に下品中生について説こう。五戒や八斎戒や具足戒などを犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物を奪い、僧侶に施されたものをも盗み、さらに私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。 この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいにその人の前に押し寄せてくる。」

命終わる時に火の車に載せらて動転し、嘆き悲しむときの臨終説法には、なんまんだぶを称える人を招きなさいよ。これが本当の善知識だから……
そうそう「阿鼻の炎も毘盧の依正」というから、心を入れ換えて本物のご法義を説けば、阿鼻地獄に堕ちても、なんまんだぶの救いが聴けるかもですね(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

 

 

おきそ同行の話

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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ネットでは言葉だけの世界だから、コミュニケーションにおける言葉による誤解や錯覚も多い。
林遊の場合は、攻撃的な性格からか、つい、あほとか莫迦という罵倒語を多用するので、より誤解されやすい。言っている当人が一番愚かである事を知っているから、つい相手も同じであろうとキーボードを叩いてしまう。
『涅槃経』には、畢竟軟語畢竟呵責軟語呵責 とあるが、本当の意味での言葉を使われるのは、菩薩・諸仏だけなのであろう。

さて、阿弥陀さまの法の前で、誰が愚かかという話である。

稲城和上から聞いた法話。

山口におきそという三十路(みそじ)を過ぎてなお嫁(とつ)がない浄土真宗の門徒がいた。

おきそ同行は心の変調からか少し頭が足りないと世間で言われている。

そんな、おきそ同行は、毎朝自宅の前を役場へ向かう人力車の村長に声をかけるのが日課だった。両腕を頭の後ろで組んで、

「村長さんは気の毒やなあ」

毎日の事であるから、村長さんも慣れていたのだが、ある日の事少し虫の居所が悪かったのだろう、

「コラッ、おきそ、世間ではお前の事を馬鹿の天保銭のおきそと言っているのを知っているのか、この八文め」

と、人力車を止めておきそ同行を詰問した。

おきそ曰く、

「村長さんは一円銀貨じゃから先が見えん、おきそは穴開き銭(天保銭)の八文じゃから先の後生が見える」

と、言ったそうな。

蓮如上人の御文章には、

「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」(八万の法蔵章

と仰せだが、生死を超えた浄土の世界を後世と定めたおきそ同行の言葉に、村長さんもビックリしただろうな。

以下、この法話の時代背景。




明治4年12月19日発令の新貨条令では天保銭10枚を以て八銭となり1枚が八厘(八文)となる。当百が八文通用で、一人前に百文で通用しないので、囃子言葉で馬鹿の八文天保銭と呼んだ。
林遊の子供の頃には、何回同じ事をさせても出来ない林遊に「お前は八文かぁ」と言われた記憶がある。
言葉は歴史的な背景の中で語るものであり、権利とか人権という翻訳語の上でご法義を語るのは、歴史を時間というカンニングペーパーの上で語るような虚しさがあるな。

三恒河沙の諸仏の

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
正像末和讃

このご和讃は、『安楽集』「発心の久近」から材を採られたものである。

『安楽集』では、『涅槃経』の意を引いて、今、お念仏を称えこの教えを聞くようになったのは、ただ事ではない。実は三恒河沙のガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏にお会いしたから、この『無量寿経』の第十八願を聞き、お念仏する者になったという意味である。

しかし、御開山は、この『安楽集』の意味を転じていらっしゃる。
ガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏の前で菩提心を発して善行に励んで来たのに、何故いまも煩悩具足の凡夫でいるのかという問いである。
それは、諸仏の前で菩提心を発したが、それは自力の菩提心であったからというのが前掲の和讃の意味である。もちろん仏道において菩提心は大切であって、御開山も「大菩提心おこせども」と大の字を使っておられる。それは、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に、世自在王仏の前で発した大菩提心であって、末世の凡夫が発すようなものではないからである。

菩提心については「度断学成 (どだんがくじょう)」でも触れたが、全ての菩薩が発すという四弘誓願が基本である。この四弘誓願については『往生要集』の作願門に説明がある。(*)

御開山は、『無量寿経』に説かれる生因三願を分別(ぶんべつ)され、仮を捨て真に帰せよとの意から真仮を分判して下さった。それが「願海真仮論」である。

三 願 三 経 三 門 三 藏 三 機 三往生
第十八願 仏説無量寿経 弘願 福智蔵 正定聚 難思議往生
第十九願 仏説観無量寿経 要門 福徳蔵 邪定聚 双樹林下往生
第二十願 仏説阿弥陀経 真門 功徳蔵 不定聚 難思往生

つまり、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を、それぞれ『無量寿経』の三願に配当し、第十九願や第二十願の道を行くのではないですよ、と懇ろにお勧めくださってある。また、下図のように二双四重の教判によって、浄土真宗では、横超、弘願、頓教のご法義であって、今晩聞いて今晩助かる頓教の第十八願を示して下さってある。これが本願力回向の浄土真宗というご法義である。御開山は、自力の要門や真門に迷うのではないですよと懇切丁寧にお示しである。




さて、『無量寿経』の第十九願に、は、「十方衆生発菩提心修諸功徳」(十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修せ)とある。御開山のお心を窺えば、これは『観無量寿経』に説かれた仮の教説であり、邪定聚への道であって捨てるべきものである。

しかるに、第十九願の菩提心を発して往生を欣求せよと教える輩がいる。汝らは菩提心とはどういうものか知っているのかと問いたいのだが、彼の輩は「善のすすめ」といって行じて修するということを説き人々を騙している。

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり

と、御開山が自力の菩提心や回向する善を否定しているのも関わらず、第十九願の菩提心を勧め「修諸功徳」という名での善を勧励し、自らの名聞利養を図るのである。
菩提心は我々が発すのではなく、阿弥陀如来の菩提心に感動し、それに包まれて生と死を越えて行くのが浄土真宗のご法義である。

昔の布教使は、このような修善に迷う人には「あんたぁ、果遂の願があるからもう一回りしてくるこっちゃ」などと言っていたが、彼の善を奨める団体では、なんまんだぶを称えないから一回りではなく、御開山の仰るように「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」「真門決釈」ではある。
仮のご法義を示す「化身土巻」で説かれる三願転入の文は、私はこのような経過をたどりましたが、皆さんは決してこのような道に迷うのではないですよと、簡非して下さっている文である。某団体の教祖は、私もゼロから出発してこのような御殿を建てたのだから、あなた達もその道を歩みなさいと言っているそうだが、御開山のお心と比較対照にならない言葉ではある。

そもそも蓮師の言われる、後生ほどの一大事を自らが判断して学ぶこともなく、ただ一人の妄説を吐く一個の人格に委ねることが間違いなのだが、最初の刷り込みによって本物と偽者の区別がつかなくなったのであろう。悲しむことではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

気持ちのいい言葉ほど危ないものはない

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 仏教SNSからリモート
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真宗教団で、「生かされているいのち」とか、「尊いいのち」とか「いのちがあなたを生きている」など耳障りのよい言葉が多すぎる。

未来の見えない派遣労働で働く兄ちゃんや、リストカットを繰り返すお姉ちゃんや、病院のベッドにくくられているボケ老人にも命はあるのである。

悪人という語が、世間倫理の枠から外れ、聖道門仏教からも相手にされない者を指すならば、悪人正機を標榜する浄土真宗に、気持ちのいい言葉は似合わない。
正機とは傍機に対する言葉である。阿弥陀仏の慈悲の眼(まなこ)が、誰に焦点を結んでいるかが正機という表現である。

美しい耳障りのよい言葉を使い続けることは、本当にご法義をお伝えしなければならない方たちとの交渉を絶つ事だと思ふ。

「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。心偏に常没の衆生を愍念す」「玄義分」なのだから。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

[20080803]

暑い夏、熱い夏

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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     火葬場の少年


少年はけなげに弟の骸(むくろ)を背負い、そして歯を食いしばって何を見ているのだろう。

8月6日
広島平和記念日,広島原爆忌

1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空で世界初の原子爆弾リトルボーイを投下した。市街は壊滅し約14万人の死者を出した。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、辛いよなあ

其仏本願力

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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『教行証文類』行巻 大行釈引文に、『無量寿経』を引文し、

其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自致不退転
(その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に至る)(*)

と、ある。
この文から、ふと法然聖人の仰った以下のエピソードを思い出した。

其仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自致不退転
といふ文あり。漢朝の玄通律師というものあり、小乗戒をたもつものなり。遠行して野に宿したりけるに隣坊に人ありて此文を誦しけり。玄通これをきゝて、一両遍誦してのちに、おもいいづることもなくしてわすれにき。
そのゝち玄通律師戒をやぶりて、そのつみによりて閻魔の庭にいたれる。
そのときに閻魔法王ののたまわく、なむぢ仏法流布のところにむまれたりき。所学の法あらば、すみやかにとくべしと高座においのほせられしきときに、玄通高座にのほりておもひまわすに、すべてこころにおほゆることなし。
むかし野宿にてきゝし文ありき。これを誦してむとおもひいでて、「其仏本願力」と云ふ文を誦したりしかば、閻魔王たまのかぶりをかたぶけて、こは西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて礼拝したまふと云々。
願力不思議なること、この文にみえたり。

仏語弥勒、其有得聞、彼仏名号、歓喜踊躍、乃至一念、当知、此人為得大利、則是具足無上功徳といへり。
弥勒菩薩にこの経を付属したまふには、乃至一念するをもちて大利旡上の功徳とのたまえり経の大意この文にあきらかなるものか。『三部経大意』

「往覲偈」(東方偈)(*)中の文と、釈尊が『無量寿経』流通分(*)で、弥勒に、大利無常の功徳である、なんまんだぶの一念(一声)を付属される文である。
其仏本願力の文は、昔は「破地獄の文」といい納棺の時に棺桶に入れてたものだが、最近は納棺勤行そのものを見る機会がないな。なんまんだぶが無上の功徳であるという事の意味を知らない人が増えたせいかもなあ。

こんなこと書いてると、谷派の近代教学の曽我至上主義者や、本派の現代教学の信楽一辺倒の坊さんから苛められるかもな(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

仏教の因果論

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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因果の道理と称し、さかんに悪因悪果 善因善果を標榜する人がいる。
因果の道理 認めたくない人たち

正しい仏教の因果論では、単純に原因があって結果が生じるというのではなく、その間に「縁」というものがある。
種があって芽が出るというが、そもそも発芽条件という「縁」がなければ種から芽は出ない。
種が播かれた土や適度な水や空気という、縁によって種は芽となるのである。

ましてや、悪因悪果というように、悪が因となって悪が生じるのであれば、悪を行うものは永遠に悪を行い続けることになり、悪を転じて善となすということは無くなってしまう。善因善果という表現もまた、善を行うものは永遠に善を行うということになってしまう。これでは仏教で排斥する決定論であり運命論に陥ってしまう。
仏教では、このような過ちを犯さないために、善や悪の行為は因であって果ではないとする。
因・縁・果によって成立する果は、苦または楽であって善でも悪でもない「無記」であるというのである。

パーリ語のダンマパタ(真理の言葉)には、

67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。

と、あるように、苦を招く行為が悪であり、楽を招く行為が善であるとされている。
これを因と果の関係に置いた表現が、悪因果であり善因果である。
ここでいう、苦とか楽は「無記」といって、善とも悪とも記することの出来ない中間的な性質のことである。

つまり、善・悪とは、楽または苦なる果報を招来する因の名称であって、果の名ではない。
果報は無記であるから、苦の状況であっても善なる行為が出来るのであり、楽の状態で悪を行うことも出来るのである。このように苦の状況を脱するために、苦を転じて楽の果報を招来するために善を行えというのが、仏教における正しい因果論である。

もっとも浄土真宗においては、このような因果を阿弥陀如来の本願力によって「横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ」しめたもうご法義であって、救済においては自らの行為による因果を忖度しないのである。

このことは、当ブログで、「自業自得の救済論」および「大悲の必然としての救済論」で述べたことがあるので興味のある方は、リンク先を参照されたい。

そもそも仏教とは、我々の虚妄な概念を否定して覚りといわれる領域に導いていく教えであるのだが、このような思想の一端を知りたい方は「聖典による学び」を読まれることをお奨めする。

 

人生という学校

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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30代の頃、友人と話をしていた。30年ほど前の話だ。

友人いわく。
この間、嫁と話していて愕然としたわ。20代の頃に話していた事と同じようなことを自分が喋っていることに驚いた。
俺って10年間、いったい何をしていたんかなあって、進歩がない自分に自分でで驚いた云々。

と、いうわけで、人間のこころの深化という話になった。
結局、20代は30代を、30代は40代を生きていく為の、学びという事が必要だという結論に達したものだ。

孔子は、

「吾十有五にして学に志し、
三十にして立つ。
四十にして惑はず、
五十にして天命を知る。
六十にして耳順ひ、
七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず。」

と、いう。

裏読みすれば、15になっても目的を定められず(奇しくも高校選択の時期)、30になっても自らの生きる意味に立脚出来ずに自立できない、
そして40になって迷いの真っ只中にいる自分を自分自身が持て余している。そんな世俗で生きることに汲々としている人々の状況を皮肉ったものと取る事も可能である。
林遊は、「心の欲する所に従ひて矩を踰えず」が好きなのだが、たぶん、矩を踰えてしまいそうだ(笑

さて、僧侶であり教育者でもあった、東井義雄さんに「人生という学校」という詩がある。

 

「人生という学校」

人生という学校に
七十七年もおせわになって
結局
何になったか

醜い
汚れた
みすぼらしい
じじいになった

申しわけない はずかしい
じじいになった

でも
やっとおかげさまで
お念仏申す以外
何もない私に
していただいた

 

醜い、汚れた、みすぼらしい、じじいには、誰でもなれる。
林遊はすでになっておる。
しかし、申しわけない、恥ずかしい、と言えるじじいになれるだろうか。
御開山は、日本人に、何をよろこび、何を悲しむべきかを示して下さった方である。

岡本かの子は、

年々にわが 悲しみは深くして いよよ華やぐ命なりけり

という句を残したが、深い悲しみの中に、華やぐいのちの世界を示しているのであろう。

このご法義に出遇えてよかったなあ。
生きる意味も目的も、全部阿弥陀さまの方に用意があったというのが本願のご法義である。
阿弥陀さまが、私を目的として下さったのがこの、なんまんだぶのご法義である。
私に、なんまんだぶを称えさせることが阿弥陀さまの目的なのである。
なんまんだぶの、わたしは、もう既に阿弥陀さまの目的に中にいるのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、いよいよ華やぐわがいのちである

むこうがわ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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むこうがわ (中川静村)

わすれ とおしの
こちらを
おぼえ とおしの
むこう

おがんだ おぼえのない
こちらを
おがみ ぬいている
むこう

こちらの
かるい かたのに は
むこうの
なみだの おもいしょうこ

こぼれる ぐちは
こちらのもの
かえられた ねんぶつは
むこうのもの

こちらに
ゆだんが あろうとも
むこうに
ちりほどの ゆだんもない

なにもかも
むこうが しあげて
なにもかも
いただく こちら

やるせないのは
むこうがわ
やせて つらいは
むこうがわ
ただ せつないのは
むこうがわ

たのんで いるのは
むこうがわ
つかんで いるのは
むこうがわ
すてられ ないのは
むこうがわ

やっと しあげて いただいた
となえる だけの おねんぶつ
あわせる だけの この りょうて

はる三月の
ひだまりの
ツクシの ような
こちらがわ