某ブログへの投稿が「本文に含まれるURLの数が超過しています」 と撥ねられたので、自前のブログにしてみた。
浄土真宗は他力(利他力)のご法義ですから、阿弥陀仏の信心というのがあります。→(*)
阿弥陀仏が、他(衆生)を摂受することに、一点の疑いも無くハッキリしている阿弥陀仏の信心です。阿弥陀仏の信がハッキリしているので、浄土真宗ではわたくしの側でのハッキリした信を論ずることはしません。
阿弥陀仏がハッキリしているのにわたくしのハッキリをプラスするなら半他力ですね。
高森親鸞会の影響を受けている方は、高森親鸞会の教義の認知バイアスがかかっているので理解しがたいのでしょうけど、御開山のご著書を読むときには「約仏」で読まれると判るかもです。→(*)
なお、浄土真宗には「聞即信の一念」という表現はありません。
「聞即信」とは、聞いていることが即ち信心であることを意味する言葉です。阿弥陀仏の、これで必ず済度されるという信を聞信していることを聞即信というのでした。→(*)
一念とは、御開山によれば「行の一念」と「信の一念」があるのですが、お尋ねの一念は文脈からして信の一念と仮定するならば、信の一念には「時剋」の一念と「信相」の一念があります。こういう言葉の使い方の意味を辞書などを使って学んでみましょう。→(*)
自覚という語を使われてますが、本来自覚という語は仏教語であり「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」とあるように自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する言葉でした。→(*)
ともあれ、浄土真宗の全分他力のご法義では、わたくしが変わるではなく、曠劫以来変わらないわたくしに、なんまんだぶという言葉になって阿弥陀仏の可聞可称のご法義なのでした。→(*)
ほとんど理解できないと思ひますが、高森親鸞会で学んだハッキリする自覚の信と全く違う世界が、なんまんだぶと称えるご法義が、御開山の示して下さった信心の世界でした。要するにわたくしの信を離したときに、少しく窺えるのが、御開山が説かれた「信の世界」なのでしょうや。
「三品の懺悔」云云は、専である〔なんまんだぶ〕以外の雑行に固執する、高森親鸞会の専雑得失の雑行の十三失を誡める言葉でした。→(*)
『往生礼讃』の、
懺悔に三品あり。
上・中・下なり。「上品の懺悔」とは、身の毛孔のなかより血流れ、眼のなかより血出づるものを上品の懺悔と名づく。 「中品の懺悔」とは、遍身に熱き汗毛孔より出で、眼のなかより血流るるものを中品の懺悔と名づく。 「下品の懺悔」とは、遍身徹りて熱く、眼のなかより涙出づるものを下品の懺悔と名づく。→(*)
の文から御開山は、
真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまへり
と、和讃されたのだが、真実の懺悔は「称仏六字 即嘆仏即懺悔」の〔なんまんだぶ〕を称えることでした。
また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。→(*)
浄土真宗の信は〔なんまんだぶ〕と称える所から立つのですが、あほみたいな高森親鸞会の信を捨てたところから、真の求道があるのかもでした。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ