無量寿仏観経

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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『教行証文類』を読んでいると、時々意味が判らない文に出会う。
例せば「化巻」冒頭で、「つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり」とある。
いわゆる『観無量寿経』を御開山は『無量寿仏観経』と呼ばれるのだが、このように呼ぶ必然性があったのであろう。その意を少しく窺うためにWikiArcに「無量寿仏観経」の項目を追記し、その意を窺ってみた。
なお、無量寿仏とは、行業としては、なんまんだぶということである。
ちなみに林遊が、南無阿弥陀仏とか南无阿弥陀仏としないのは、口に称えられ耳に聞こえる称名の意であるから為念。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
WikiArcの無量寿仏観経へのリンク

引用と引文

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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註釈版聖典の『教行証文類』には、何故か七祖聖教への参照ページの表記はあるのだが、浄土三部経の引文への参照ページが記されていない。
たぶん、浄土真宗の坊さんは、浄土三部経は頭に入っているという前提なのかしらん。
ともあれ、引文の場所をマークするスクリプトがあるので『無量寿経』でマーキングできるようにしてみた。ページトップの[inmon]をクリックすれば御開山が『教行証文類』で引文しておられる文が判るようになっている。
梯實圓和上は、『教行証文類』は経論釋の引文によって成り立っているが、あれは引用ではなく引文ですと仰っていた。引用なら自説の権威づけであろうが引文することによって、前人未到の全く新しい世界を切り開いて見せて下さるのであった。

つまり引文によって、元の文にない意味付けをして創作されているのであった。だから『教行証文類』は死ぬほど難しい書物なのである。しかし基底に流れているのは、法然聖人からお聞きした、なんまんだぶという本願に選択されている行業であるから、あほの林遊にも少しくわかるのであろう。意味はわからないが、なんまんだぶと称えることは、あほの林遊にも可能である。
御開山の肖像画を拝見すれば、どれも珠数をつまぐっておられるが、なんまんだぶ、なんまんだぶと自己の上に顕現している証(さとり)の世界を実感しておられたのであろうと思ふ。浄土真宗は、なんまんだぶを称えるご法義であり、それが願作仏心という阿弥陀如来から回向されて仏心がわたくしの上で顕現しているのであった。
「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ」の、念仏衆生摂取不捨であった。ありがたいこっちゃなあ

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→註釈版無量寿経へのリンク

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土三部経の一である『観経』の流通分には、
若念仏者 当知此人。是人中分陀利華

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり

と、ある。
分陀利華とは、梵語プンダリーカ(puņđarīka)の音写で、白蓮華(びゃくれんげ)のこと。蓮の花の中でもっとも高貴なものとされる。なんまんだぶを称える者は、この分陀利華に譬えられるような者であるというのが『観経』の結論であった。
現代語訳では、

もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。

である。浄土真宗では安心とか信心とががうるさいのだが、ようするに、なんまんだぶの上で論ずる安心や信心であり、行なき信もなければ信なき行もないのであった。なんまんだぶを称える行が本願名号正定業なのであり、これを信じるのが正当な浄土真宗の法義なのである。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(*)

なのである。

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造悪無碍

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WikiArcに「造悪無碍」の項目を追加。

「悪を作ることに(さまたげ)無し」ということ。悪を犯しても往生浄土のさまたげにはならないという領解をいう。念仏一発、または信心一発の後は、すでに往生浄土の業因が決定したのだから、その後に犯す悪事は往生のさまたげにはならないと主張する。これは極端な一念義の系統から発生した領解であろう。
法然聖人は、比叡山延暦寺からの専修念仏停止の訴えに対し、門弟が言行を正すことを誓って連署し、比叡山に送った『七箇条の御起請文』の四条に、

念仏門において戒行無しと号して、もっぱら婬・酒・食肉をすすめ、たまたま律儀を守るものを雑行と名づけて、弥陀の本願を憑む者、造悪を恐るることなかれというを停止すべき事。

右、戒はこれ仏法の大地なり。衆行まちまちなりといえども同じくこれを専らにす。これをもって善導和尚目をあげて女人を見ず。この行状のおもむき本律の制にも過ぎたり。浄業のたぐい、これに順ぜずは総じて如来の遺教を失し、別しては祖師の旧跡に背けり。(かたがた)、よるところ無き者か。

とあり、悪を造ることはははばかることはないという主張は、法然聖人在世の頃からあった異義と思われる。すでに造ってしまった悪の束縛といまだ造っていない悪とを混同するところからうまれる発想である。ただ、当時の世間の視点からみれば悪を為すことでしか生きられない一般民衆にとって、悪は往生浄土にさわりとはならない、唯ゞなんまんだぶを称えよという、全く新しい往生浄土の宗義の教説は、絶大な人気を得て燎原の火のように日本中に広がったのであった。
一念義についてより深く知りたい知的好奇心のある方は、一念と多念について考察されておられる『一念多念証文』等を参照されたし。

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本願ぼこり

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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WikiArc 「本願ぼこり」の項に追記した。

悪人を救う阿弥陀仏の本願力が強いことをほこること。また、それにあまえて、自らの悪を慎むことのない造悪無碍の者のこと。現代では、戒を用いない浄土真宗の僧侶・門徒への倫理的批判に、どうせわたしは凡夫ですからと開きなおることも本願ぼこりの一種である。凡夫とは「汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)」(*)と、汝は凡夫であるという仏の側からの教戒である。このような凡夫という表現は、わたしの側でいう、どうせわたしは凡夫ですという開き直りの言葉とは違うのであった。「慚愧なき真宗は外道に堕する」といわれる所以である。
浄土宗清浄華院第五世、向阿証賢(1265~1345)の『歸命本願抄』には、

本願にほこりてつみを心やすくおもはん人は、はじめは信心のあるににたりとも、のちにはたすけ給への心もなくなるべし。 よくよくよういあるべき事をや。

などの用例があり、本願にほこって罪を軽く思うような者は、後には無帰命になるといわれている。ちなみに、蓮如上人の次女である見玉尼(1448-1472)は、口べらしのため禅院の喝食として外へ出され、成人しては浄華院にいたが蓮如上人の吉崎建立の頃に本願寺に戻る(*)。他力回向の信心を「たすけたまへと弥陀をたのむ」と表現した蓮如上人のご教化は、見玉尼を通しての浄華院流からの示唆があったのであろう。(*)
なお、『歎異抄』第13条では、造悪無碍のすがたとともに、「 本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。」(*) と、本願を信じる正しいすがたとしても表現されている。この場合は自分では手がつけられない犯した罪の深さを内省するところから、他力をたのむ信心に言及したのであろう。「称仏六字 即嘆仏即懺悔(仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり)」(*)である。

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サーバを復活してみた

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hongwan.net  wikidharma.org を運営していたサーバーがクラッシュした。
御開山は敬愛する曇鸞大師の入滅を
(29)
六十有七ときいたり
浄土の往生とげたまふ

と、されてられるので、林遊は自分の齢(よわい)に重ねて、サーバーのクラッシュもむべなるかなとしばらく抛っておいた。9年間文句も言わすに日夜浄土真宗のお聖教のデータを配信するために動いていたサーバーであった。OSは適宜バージョンアップしていたのだが、WikiPediaで使われていると同等のMediaWikiのソフトのバージョンは古いままであった。

そんなこんなの中で、ドメインの更新案内が来たのだが、家内が旦那様は誰の助けも得ないで在家の一門徒として自分の好き勝手にやってたのだし、自分のネット上の勉強部屋が無くなったらさみしいでしょというので、今一度、データーをサルベージしようと思いたった。
しかしのかかし、9年も使っていたボロボロのサーバーマシンなので劣化が激しく新しいサーバーマシンを買ってデーターを移行しようと思い立つ。で、新しいMediaWikiのソースを眺めたのだが浦島太郎状態で、構成に必要なプログラム群や自前のフリガナなどのExtension(Mediawikiの拡張機能)のプログラムの作成方法が変わっているので、老いを自覚した。
で、懐かしい「鶴田浩二 傷だらけの人生 」の昭和のフレーズ(笑

♪古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか。(*)

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七輪

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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七輪とは、木炭を使用する調理用器具である。
昔はどこの家庭にもあったのだが、最近はほとんど見ないので知らない人も多いだろう。燃料には木炭を使うのだが火つきが悪い。そこで木炭の着火用に七輪の底に丸めた新聞紙などを入れ、その上に消し炭(薪や炭の火を途中で消して作った軟質の炭)や乾いた木片などを敷いて、その上に木炭を載せて下の火付け口を開けて火を点ける。
木炭は着火しにくいので、このような手順で火を点ける。そして酸素補給の為に火付け口を団扇などで扇いでやるのである。

この七輪をお譬えの法話を深川倫雄和上から聴いた事がある。

ある日、大勢の男達が道を歩いていた。

ふと見ると、道端で一人の男が一所懸命団扇(うちわ)で七輪を扇いでいる。

「あんた、見ればさっきから一所懸命扇いでいるけど一体何をしてるんや。」

「へぇ、火ぃを発そうと思て朝から扇いでいるんですが火がつきません。」

ひょいと見ると七輪の中に火種がない。

「馬鹿じゃなかろか、いくらなんでも火種がないのにどれだけ扇いでも火が付くもんか。」

こう言って行ってしまわれたのが三世十方の諸仏。

次に阿弥陀さまが通りかかった。

命がけでうちわで扇いでいる七輪を覗くとやっぱり火種がない。

「そうか、火種がないか。そりゃあ辛いなぁ悲しいよなぁ。
お前に火種が無いのなら、この弥陀が、お前の心の中にとび込んで、
火種となってともに燃えていこう」

こうして往生成仏の火種となって出来上がったのが、なんまんだぶつの名号である。

こういう趣旨の法話であったが、まるで「仏願の生起」という真宗の術語の淵源を知らせてもらうようで有りがたい法話であった。

『無量寿経』では、四十八願の根本願である第十八願の大行を「欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚(わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)」(*)とする。この乃至十念のなんまんだぶ(名声)を十方に超えしめんという意を、以下のように重ねて誓われてある(重誓偈)

我至成仏道 名声超十方
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟靡所聞 誓不成正覚
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。(*)

御開山は、この文がうれしくて「正信念仏偈」で「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方(五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えん)」と、されたのであった。
浄土真宗は、なんまんだぶを称え聞き、浄土へ往生する往生浄土のご法義なのである。往相の結果(往生成仏)という存在のゼロポイントは、また還相という利他教化地という豊饒な大乗菩薩道の出発のゼロポイントでもあるのだが、信心獲得という個の自覚を追及する「知愚の毒」に侵された近代という名のもとでの教育の洗礼を受けた真宗の坊さんにはワカランのでした。彼らは善導大師が示された指方立相である、西に沈む夕日の彼方にある、さとりの界である浄土が理解できないのでした。
ともあれ、成仏の火種もない我に火種となって必ず往生成仏せしめると、本願の「欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」の乃至十念の行を、

我、名号となりて衆生に到り
衆生とともに浄土へ往生せん
若(も)し衆生 生まれずば我も帰らじ

と、讃詠なさった善知識がおられた。成仏の火種の無い我に、本願成就の、なんまんだぶという火種となって称えられるのであった。

我、名号となりて衆生に到り
衆生かえらずんば、我もまた還らじ

の、火種となって燃えている名号法なのであった。
浄土真宗は、本願に選択された、なんまんだぶを称えて往生成仏するご法義なのでした。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……称名相続

因なくして他の因のあるには非ざるなり

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因なくして他の因のあるには非ざるなり

他力のご法義に対する非難の一が、「無因有果論」である。衆生の往生の因が全く無いのに、何故に無上涅槃のさとりの浄土へ生まれることができるのか、あり得ないではないかという論難である。
仏教で説く自因自果の「因果の道理」に背いている邪説であるというのが、他力の浄土門に加えられ/加えられていた非難である。いわゆる御開山の説く本願力回向という仏教は「修因感果」因となる行を修めて、それにふさわしい果を得ることという因果の道理に背いているというのである。
それに対して、衆生が阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえる報土に往生するには、阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえる信をもってのみ往生が可能であるというのが御開山の本願力回向論であった。衆生の起こす信は、たとえ頭に付いた火を払いのけるほど一所懸命になっても真実ではないからである。至上心釈の「たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく」p.217だからである。

御開山は「信文類」で曇鸞大師と善導大師の釈、源信和尚の釈を引き「総決」して、

爾者 若行 若信 無有一事 非阿弥陀如来 清浄願心之所回向成就。
:しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。
非無因 他因有也 可知
:因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。p.229

と、されている所以である。
「証文類」では、『論註』の「願心荘厳を明かす」釈を引いて、

説 観察荘厳仏土功徳成就 荘厳仏功徳成就 荘厳菩薩功徳成就。此三種成就 願心荘厳 応知。
:観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと、知るべし〉(浄土論)といへり。
応知者 応知此三種荘厳 成就由 本四十八願等 清浄願心之所荘厳 因浄故 果浄。非無因 他因有也。可知
:〈応知〉とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。p.321

と、されておられるのであった。本願力回向のご法義は、いわゆる外道の「無因有果論」ではなく、阿弥陀如来の四十八願の清浄の願心を因とするとされたのである。
なお、『論註』の当面は、「無因と他因の有にはあらざるを知るべしとなり」(七祖p.139) であり、無因有果と邪因邪果の説を否定しているのだが、御開山は「因なくして他の因のあるにはあらざるなり」 と阿弥陀如来の本願力回向を強調されたのであった。

そもそも、浄土真宗は、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」p.135という往相も還相も本願力回向のご法義なのである。
いわゆる衆生の因果の道理と全く異なる、阿弥陀如来の救済の因果の道理が浄土真宗というご法義であった。
梯実円和上は「真仮論の救済論的意義」で、「自業自得の救済論」と「大悲の必然としての救済論」を論じておられるが、それはまた浄土真宗の真仮論でもあった。
浄土真宗の真実の信心とは、御開山が至心・信楽・欲生の三信を結釈して「真実の信心はかならず名号を具す」p.245とあるように、自己の拵えた信を解体し、選択本願の、なんまんだぶを称えることであった。もちろん、信なき行は、「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」であるのは言うまでもない。

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→「真仮論の救済論的意義」

伝統と伝説の地吉崎。

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伝統と伝説の地吉崎。

宗教には、不思議な伝承や奇瑞譚が生まれることがあり、ある意味では法味の味わいとしての意味もある。
吉崎の地には『嫁おどし伝説』の『肉付き面』という伝承があり、『肉付き面』を見せる寺がある。あわら市の柿原地区には嫁威という地名も残っていたりする。
家の爺さんは20数年間、4月の蓮如さんの御忌の時期には別院で蓮如さんの「お絵説き」をしていた。そして、「吉崎よいとこ一度はおいで、寺の数ほど面がある」という枕で、「ほんまもんの鬼の面は、ここにあるぞ」と言って、「お絵説き」の場の柱に懸けた鏡を覗かせていたものであった。営業妨害だな(笑
さて、伝説や奇瑞譚への関心が信仰の入り口になることもあるのだろう。しかし、現代では史料批判を通しての考察は重要である。宗教という形而上に関することがらであるから資料の真偽を検討することは大事なことである。
吉崎のお山(丘)の上には、本向坊了顕の墓がある。文明6年(1474)に吉崎の御堂が燃えた時に、本向坊は『教行証文類』中の一巻を火事から守るために腹をかっさばいて腹中に納めたという伝承がある。この逸話の初出は、明和年間(1764~1771)に著された『真宗懐古鈔』である。現存する蓮如さんの言行録にはなく、約300年を経て出てきた話であるから少しく?である。御開山の言行の伝承である『御因縁』や『正統伝』、『正明伝』が最近脚光を浴びていたりもするのだが、真偽の判断は厳密な史料批判を通して考察すべきであろう。

ともあれ、本向坊了顕のエピソードに関しては、蓮如上人の手になる資料が第一級資料であると思ふので、文明六年の吉崎焼失について書かれている帖外御文をUPしてみた。
この文明六年九月の日付が記されたお文では、本向坊了顕については全く論じておられない。蓮如さんの行跡を記した書物(浄土真宗聖典全書五 相伝篇下)にも、本向坊了顕の「腹ごもりのお聖教」に関する記述は見つけられなかった。無いことの証明は「悪魔の証明」だし、本光坊の「腹ごもりのお聖教」に関する一次資料があるなら提示してもらえれば幸いである。

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吉崎焼失時のお文

四箇条問答から

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御開山の著された『西方指南抄』に「四箇条問答」という法然聖人の法語がある。御開山は「行巻」(*) と「証巻」(*)、「真仏土巻」(*) 等で、『浄土論註』の「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」の、同一念仏無別道故の文を引いておられる。よほどこの語に関心がおありであったのだろう。
御開山と法然聖人の法門の立て方の差異は、『教行証文類』の行から信を別開したところに特長がある。もちろん御開山は、法然聖人の忠実な弟子であり、法然聖人の示して下さった浄土教の真意はこれだという意で『顕浄土真実教行証文類』を著されたのであり、浄土宗(鎮西派)の学者たちのいう背師自立(師匠に背いて勝手に自分の義を立てた異端者)ではない。
梯實圓和上は、『法然教学の研究』のはしがきで、「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、 法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由 は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』(*)や醍醐本『法然聖人伝記』(*)『三部経大意』(*)などをみずに法然教学を理解したた めに、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである」とされておられる。深川倫雄和上は、安心とか信心という形而上の林遊の疑問に対して、なんまんだぶを称えるという浄土真宗のご法義を示して下さった。ありがたいことである。
まさに、御開山が「大経讃」に、

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

とあるごとく、念仏成仏これ真宗の、なんまんだぶを称えて往生成仏するご法義であった。衆生の心の作用を往生成仏の因(信心)とすれば、識揚神飛(心はうわつき、精神はつねに動揺する)ので、口に称えられる、なんまんだぶを「本願名号正定業」とし、これを受けいれることを「至心信楽願為因」とされたのであった。
ともあれ、以下、「四箇条問答」の問答の一文をウェブのログとして保存しておく。

問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。

答。無沙汰なる人は、かくのごとくおもひて、因位の願を縁じて念仏おも申せは、これをしえたるここちして、願を縁ぜざる時の念仏おば、ものならずおもふて、念仏に善悪をあらするなり。これは無按内のことなり。法蔵菩薩の五劫の思惟は、衆生の意念を本とせば、識揚神飛の ゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせ ざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。

意訳

問い。法蔵菩薩が本願で約束なされたのは、十声でも一声でも称えた者はということですが、一声 称えた後は法蔵菩薩と申されたときのお誓いのお心によってそれ以上に名号を称えなくてもよいのでしょうか。

答え。関心をもっていない人は、このように、法蔵菩薩と申した当時誓った念仏を称えれば往生するのだという気持ちで、本願を信じないで称えても往生することはできないと思うのです。念仏には、よしあしがあるのだと考えるのは何も知らないからです。法蔵菩薩は五劫という長いあいだ思いをめぐらし、人びとが仏のみ名を口に称えないで、心の中で仏を念ずることを本(もと)とすれば、こころがあらく乱れがちで、落ち着きがないから往生することはおぼつかないと考えられて、なんまんだぶ(名号)を称えることを本願とされたのです。
なんまんだぶは、どのように心が乱れていてもよいから称えなさい。称えさえすれば、法蔵菩薩と申された昔、本願に誓ったものだと心のうちに思われないでも、自然に本願だと思い出すのが、このなんまんだぶ(名号)なのです。それ故、昔誓われた本願だと、ことさらに思わなくてもよいのです。

もうすぐ吉崎での「蓮如さんお帰り」の時期なのだが、吉崎の地で東西の別院での門徒の行業の違いは、大谷派では、なんまんだぶを称えないということである。左巻きの大谷派では、あの浄土から名号(なんまんだぶ)となって届く、さとりの世界を見失っているのだろうな、どうでもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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