↑ 丸岡城
城の石垣
小生の住む在所の近くに丸岡城という日本で一番古い天守閣をもつ城があります。
子供の頃に遠足に行った時、友達と競いあって天守閣に登り景色を楽しんだものでした。
遠くに自分の家が見えないかと眼をこらして景色を眺めたものでした。
やがて景色を見るのに飽き天守閣から降りて、城の石垣を登ったり石垣の大きさを両手で測ったりして遊んだものです。
小生に、教学は城の石垣のようなものだと教えて下さった勧学和上様がありました。
なんまんだぶつの城の天守閣に登って阿弥陀様のお慈悲を眺め、なんまんだぶつのいわれを聞けばそれで十分ではないか。何の不足があるのかとのお示しでした。
そして今少し暇があるなら、なんまんだぶつの城の石垣の組み方を勉強するのは御恩報謝です、とのお言葉でした。
そうでした。石垣の組み方を学んでから信じる宗教ではありませんでした。大丈夫だろうかと石垣の構造をひねくり回して安心するご法義ではありません。
なんまんだぶつとたのませて(憑)なんまんだぶつと称えさせ、なんまんだぶつと迎え取るのが浄土真宗のご法義です。
後は暇にまかせてお聖教を拝読し、うまく組んであるなあと先達の釈を讃嘆し楽しむのは、こちら側の目的のない遊びです。
遊びですから自分の解釈にあまり一生懸命になってはいけないのです。一生懸命になって説いて伝えて下さった、内容・目的を聞信するだけなのでしょう。
聴聞雑記から転載
旧HPからの転載
10数年前に書いたHPの文章から転送。
私ひとりの五劫
夕飯の時じいさんと話をしていて、何で阿弥陀様は五劫もかかんなさったんにゃろ。一劫くらいで解からんかったんにゃろか、という話になった時の事。
ひょっとして法蔵菩薩は一人ひとりの人生を、隈(くま)無く一回やんなさったに違いないと言うことになりました。
人が悩み苦しんでいるときには辛く悲しいものです。そして誰か私のこの苦しい気持ちを解って欲しいと思っても、誰も当人のようには解ってくれません。
かえって他者がこの気持ちを解ってくれない事に苦悩が倍増する事もあります。あなたの気持ちは解るなどと口でいくら言ってくれても、現に経験している苦悩は、経験しているその人にしか解りません。
その経験すらもそれぞれの境遇や生きてきた道のりなど、一人として同じものはないのですから、共感にはなりえても苦悩を共有することはできません。
そりゃそうです。自分自身が他者の苦悩を、自己の苦悩のように苦しみ悲しみそして解ってさしあげた事など、未だかってないのですから。
法蔵菩薩、五劫兆載永劫の時あらゆるいのちを一度経験し、あらゆる衆生の苦悩をつぶさに経験して下さって、仕上げて下さったなんまんだぶつです。
小生のいのちを、人生を、苦悩を一通り経験して下さったからこそ、これで間違いないと建てられたご本願でした。
何をしでかすか危ぶまれてならない、このいのちを目当てに、苦悩を材料としてのなんまんだぶつです。
この人生は、法蔵菩薩の経験して下さった人生を、苦悩を、悲しみをもう一度なぞっていく人生なのかも知れません。
腹がねじ切れるような煩悩に襲われた時、法蔵菩薩さんもこの想いを経験なさったのだなあ。この悲しみ、寂しさ、怒り、そして喜びも。あらゆる想いを経験して下さったから、そのままでいいんだよ、間違いないよと催促してまで聞こえて下さる喚び声なのだ。
胸をたたき、おなかをさすり、ここがあなたのお宿りの場所。よぉかったなぁ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ。あまり阿弥陀様に心配かけんようにしょうっと。
なんまんだぶ、なんまんだぶ 、なんまんだぶ、称名相続 ...
仏教における善悪
講義録から引文
仏教で善悪と言うのはどういう事かと言うと、善悪というのは行為の倫理的な価値判断の言葉です。
その行為が良い行為であるか悪い行為であるかというので善悪という言葉を使う訳です。
行いの倫理的な価値判断を善悪と言う訳です。行いの事を仏教ではカルマンとかカルマという言葉を使います。翻訳して業と言います。それは行いという事です。自らの自由な意志によって決断をして身体で口で心である行為を行う。そういう行為を業という言葉で顕わしております。
その行為の倫理的な価値判断の言葉が善悪という言葉です。精密に言いますともう一つあります。善・悪・無記というのです。無記というのは善とも悪とも判定できない行為の事を無記という言葉で言います。そこで正確に言いますと善・悪・無記という三つの倫理的な性質というので、これを三性という言葉で顕わします。行為の倫理的性質の事です。
善というのは何かと言ったら、その行いによって自他の上に安らかな状況を作り上げていくような行いを善と言うのだ。善というのは安穏なる結果をもたらす行為です。安穏というのは安らかな穏やかなという事で、その行為の結果、自分も人も安らかな穏やかな生き方ができるような行為の事を善と呼ぶのです。
それに対して悪というのは非安穏なる結果です。この非安穏なる結果とは何かと言ったら苦悩です。安穏なる結果というのは苦悩に対して楽です。だから非安穏なる結果、つまり苦悩を生み出していくような行為を悪と呼ぶ訳です。だから悪というのは苦果を招くもの、善というのは楽果を招くものと昔から言うのです。
苦とか楽というのは結果なのです。行いによってもたらされる結果なのです。苦とか楽というのは善でも悪でもないのです。苦楽は善でも悪でもありません。苦は悪ではありません。楽は善ではありません。善・悪というのはそういう状況を造り出していく行いの事に名付けるのです。これは非常に精密な言葉です。
例えば地獄というのは苦しみの一番最たるものですが、地獄は悪ではないのです。あれは悪によって造り出していく結果であって地獄そのものは無記なのです。善でも悪でもない。幸せな状況というものも善でも悪でもない。それも無記な状況です。
だから地獄においては善を造る事もできる。天上界という楽なる所において悪を造る事もできる訳です。ですから善悪というのは私達の行為に対して倫理的に判断した言葉が善悪という言葉で、これは精密に言葉を使わないと意味をなしません。
この行為の事を仏教では業と言います、業という言葉はどうも誤解がありますので使いません。誤解する言葉は使わない方が良いのです。だから行為としておきます。それで良いのです。カルマという事は行為という事です。行為というのは何かと言うと、先ず行為の主体は自由な意志を持った者です。自由な意志を持った者でなかったら行為はできません。物が動いてるという事と行為とは別です。行為というのは必ず自由な意志によって決断して行っていく事です。意志によって決断して行っていく事を行為と言う訳です。意志的なはたらきの事です。従ってそういう意志的な決断によって行った行為の結果についての責任は自分が持たねばならないという事です。反対に自分の行為によって行った結果でないものに対しては責任を持つ必要はありません。これはハッキリしております。何に対して責任を持つか、何に対して責任を持たなくて良いのか、これは仏教はハッキリさせています。郵便ポストが赤いのも私のせいでございます。そんな事を言いはしません。
自分が自由なる意志の決断によって行った結果、その結果に対して自分が責任を持つのです。ただし自分が決断すべき事を決断しなかったという事も勿論自分の責任になります。だけど責任というのは意志的な決断によって行為をし、それによって受ける結果に対して責任を持つという事です。全く自由な意志がはたらかない状況において生み出していった結果に対しては責任を持つ必要はないのです。だから例えば心身喪失の状態で行った犯罪に対しては、その責任は問わないという事です。これは当然です。それは自由なる意志によって決断した行為ではないのですから。逆に意志的に決断して行った行為に対する責任は絶対逃れてはいけない、逃げようとしてはいけないという事です。そういう点が非常にキッチリした事を語る訳です。
・・善=安穏なる結果(楽)をもたらす行為
三性・・悪=非安穏なる結果(苦悩)をもたらす行為
・・無記=善とも悪とも判定できない行為
そこで話を元へ戻しますが、善と悪と無記というのはこういう事です。自分と及び人に対して安穏なる結果をもたらすような行為を善と言い、自分と人に対して非安穏なる結果をもたらすような、苦しみの結果をもたらすような行為を悪と言うのだという風に定義をしております。
そうしますと悪い事をするという事は何かと言うと、自分と人と苦しめるという事です。自他を苦しめていく、そういう状況を悪と言う訳です。だから悪をなす者というのは一番惨めな者だという事です。憐れむべき存在であるという事です。善なる行為を行っておるという事は、それは称讃されるべき者である。自分自身ものびのびとした安らかな生き方ができるし、また称讃に値する人である。
だけど自ら悪を造って苦しみの中に沈んでいく人は当然非難されるべき存在です。これは当然の事です。これが善悪という言葉の持つ意味です。だから仏様が悪人を救うと言ったら。この悪人をどうする事なのかと言いますと、ちょうどお医者さんが病人の病気を治して健康にしていくように、もう悪に染まる事のない者に仕上げていくという事が救いなのです。
ダンマパタ
67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
お月さんいくつ
を月(讃?) 幾ツ 十三七ツ
画像は仙厓和尚の手であるが全く関係の無い話。
宗教は科学や論理の所産ではない。
人が生きるという事はどういう事なのかを追求するものである。
(尤も、煩悩と言う欲望を刺激する邪教もあるので、本物と偽者を見分けることは難しい)
さて、お月さんに人を送ろうという計画を実行に移したのは、米国のケネディ大統領だった。
いわゆる科学の粋を集めたアポロ計画というものがそれである。
お月さんには兎が住んでいるとか、月の光りを月光菩薩と呼んでいた宗教という蒙昧迷信に一大鉄槌を下す科学の勝利の目論見である。
しかし、国の命令でアポロ宇宙船に搭乗する事になった乗組員や家族の思いは違う。
どれだけNASAの科学者が口を酸っぱくして安全だと言っても、宇宙船に乗るのは人間である。
ひょっとしたら、ロケットの打ち上げが失敗して宇宙船が爆発するのではなかろうか。
俺が死んだらワイフは新しい男と一緒になって俺のことを忘れてしまうのではないか。
政府や科学者は宇宙船は安全で大丈夫だというが、ひょっとしたら夫は帰らない人になるのではなかろうか。
あなた、死んじゃ駄目よ。どれだけ補償金を貰っても、あなたの子供の父親はあなたしかいないのよ。
などなど、科学の粋を集めたアポロには、煩悩一杯の男を載せて宇宙船は打ち上げられるのだった。
科学を否定するのではない、しかし科学という名によって消され抹殺された人の思いを忘れないで欲しい。そしてそれが宗教という人の生きる道なのである。
タバコを吸えば肺癌になる可能性が高くなるという医学的見地は百も承知である。酒という名のキチガイ水を飲めば正常な人間でいられないという事も合点している。
それでもタバコを止められず、旨しの酒に浮世の憂さを晴らす人がいる事を忘れないで欲しいと思ふ。
私という存在は、科学の論理の世界には居ないのである。悩んで苦しんで、どうしようもない現場に生きているのが私であった。
これはこれ、酔っ払いの戯言である。
を月さんいくつ、十三ななつ…
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キリスト教の笑い話
日本のクリスマス
ある日本人がクリスマスの時期に教会の前を通りかかった。教会の門のわきにクリスマス礼拝の案内が出ているのを見て、言った。
「へー、最近じゃあ教会でもクリスマスをやるのか」
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/joke/index.htm
宗教関係の薀蓄がなくても味わえる面白いページかな。
仏教関係は落語に面白いネタがいっぱいある。ちなみに落語は法話(お説教)から生まれたというのは定説。
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慈悲は罪悪機中に味わう
今日の言の葉で思い出した講義録をUP
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「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへるなり」ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。
これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。
ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相を信というのです。だから信というのは法が機にある相(すがた)です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。
だから信を得るといいますが、信に体はありません。信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。
「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。
必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心っというもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。
だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。
これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。
「如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまえるなり」これは不思議な表現です。これはギリギリこうしか言えないのです。「如来の心に疑いがないのですか。それとも私の方に疑いがないのですか」この文章読んだらちょっと解らないでしょう。「如来の誓願に疑いがないのですか。私の心に疑いがないと言うのですか」と聞いたら「それは一つの事ではないか」と親鸞聖人は仰います。それは一つの事なのです。
如来に疑いがないという事は、私に疑いがないという事だし、私に疑いがないという事は、如来に疑いがないという事です。それが一つの事である様に法は聞けという事なのです。それが真宗の信心というものです。親鸞聖人の表現は相当に難しい。これは実に凄いギリギリの表現なのです。
私が「疑い無くなろう」なんて幾ら考えてもそれは無理です。人間の心は疑いの塊みたいなものですから、だからそんな人間の心を疑い無くしようと思ったって、それは無理というものです。死ぬまでその心の性は無くならないのです。それが人間の心の持ち前なのです。ですからどうしようもない。その自分の心をチャンと疑いのない綺麗な心にしろなんて仰ってはないのです。ですから疑いのない心というのは自分の方に見たらダメです。
それを「信は仏辺に仰げ」と言うのです。信心は仏様の側に仰ぐのだと。信心は自分の方にありながら仏のものだから信は仏辺に仰げというのです。そして反対に「慈悲は仏様の側に見るのではない」というのです。如来のお慈悲といったら仏様の方を見ようとする。だから解らなくなるのです。
よく「仏様が解りません」といいます。仏様が解らないというのは仏様の側にお慈悲を見ようとするから解らなくなるのです。お慈悲は罪悪機中に味わうのです。お慈悲を味わうのは何処で味わうのかと言うと煩悩具足の相であり、死ぬまで煩悩具足の凡夫であるという所に如来のお慈悲を味わうのです。
自分の心を見れば煩悩がよく解ります。煩悩があるという事は解るでしょう。その煩悩こそが如来様の大悲の救済の目当てなのですから、その煩悩が見えたらそれで如来の慈悲がそこに味わえる筈です。だから如来の慈悲は煩悩の中に見ていくのです。
そして信は煩悩の心の中に見ないで如来の側に仰ぐのです。これは反対なのです。普通は信心を自分の方に見て、そして慈悲を仏様の方に見ようとするでしょう。だから解らなくなるのです。昔の和上方というのは随分ご親切に仰っておられます。
断鎧師の詩だったと思うのですが「久しく妄心をせめて真心を求む」自分の迷いの心の中に信心をたずねる。しかしいつまでたっても見つからなかった。
それは丁度「断弦をせめて」この断弦というのは弦の切れたという事です。例えば弦の切れた琴を弾こうとしても弾かれません。弦の切れたバイオリンを弾いても音は出ない。ちょうど自分の妄念の心に信心をたずねてみても何の音も出て来ないという有名な詩があります。詩の正確な言葉は忘れましたがそういう内容です。
だから信心というのは自分の心にたずねるものではなくて如来の本願を聞く事です。本願には「お前を疑いなく救う」と仰っている。間違いなく救うと仰っている。その摂取決定の心を聞いたら「そうしたら私はこのまま参らせて頂く」という事になりますから、それが疑蓋雑わる事なしという事なのです。
その「疑蓋雑わる事なし」という事を信と名付けるのだ。信というのは疑蓋間雑なしという事を信というのです。疑いという蓋を機と法との間に雑えないという事を信というのだ。だから信というのは疑いのない状態です。では積極的に何があるのだというと法があるのです。本願の言葉だけがあるのです。それを信というのだ。だから信心の徳というのは何かというと本願の徳なのです。本願の徳を信心の徳というのです。
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今が目的
深川和上はよく、今が目的と仰る。
阿弥陀様は私になんまんだぶつを称えさせて浄土へ迎えようと誓われました。
それならば、こちらは訳が解からずとも念仏を称えることが私の仏道です。今はもう弥陀の目的を生きているだけなのです。
「我々の宗教の目的は何か」ではなく、今が目的なのです。すでに弥陀の目的の中だった、これが大切です。すぐ「何のために…」と問う人がいるけれど、それは下の下です。
子供が砂場で遊んでいます。砂山をこしらえたりトンネルを作ったり壊したりして遊んでいます。
壊すなら作らなければ良いのに、意味が無いのにと思うのは傍観者の論理。砂場で遊んでいる子供にとっては砂山を作ったり壊したりするのが目的なのです。
今まさに私の五体の上に、名号功徳が合掌礼拝という姿であらわれ、称名という姿があらわれているのです。やがて息がとまったら西方極楽への往生という事実があらわれ、大般涅槃をさとるという事実があらわれ、還相の菩薩としてはたらく事があらわれます。そのことが「今」決まっているのです。
有難いお示しではある。
今現在、私が弥陀の目的の中に居るのならば、今この娑婆世界で悠然としてなんまんだぶつを称えて遊んでいれば良いのではないか。
煩憂悩乱に泣いたり笑ったり苦しんだりしながら、ちょっぴり他者を思いやり、ほんの少しだけ、お念仏なさいませんかと人にお奨めする道もあるのだろうな。
う~ん、何が言いたいのかサッパリわからんな、まあいいや遊煩悩林現神通とあわて者の林遊の心配する事じゃないわな (笑い
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
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みみず
家内が買い物から帰ってきて
ねえ、大きいミミズが死んでるよ、
というので玄関の外まで見に行った。
コンクリートの上でどばみみずが死んでいるので、何でこんな庭の土から離れた所でミミズが死んでいるのかとあれこれ。
昨日の雨でミミズが引越しの方向を間違えたとか、鳥が咥えていたのを落としたとかミミズを見ながらの雑談。(暇ですねえ 笑い)
ふと、お聴聞で聴いた
涅槃絵に みみずは嘆く 術(すべ)知らず
という句を思い出した。
涅槃絵とは世尊がお亡くなりになるところを描写した絵で、世尊の母親である摩耶夫人から天人、羅漢、あらゆる動物や鳥、手足の無い蛇やミミズまで参集して大聖世尊がお亡くなりになることを嘆いている。
しかしミミズは世尊が今お亡くなりになるというのに、地団太踏む足も合掌する手もない。
そんなミミズの為にも、阿弥陀様は、なんまんだぶつと声になって聞こえて下さる仏様になったのだ、という話だった。
異訳大経の「蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん」*のお示しだったな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
馬鹿は死ななきゃなおらない
馬鹿は死ななきゃ治らない、とか言いますが、煩悩は死なにゃあ消えん。
死なにゃあならんほどの、どうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きて行かざるを得ないのが林遊のような存在だ。
「生きている限りは煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということは、煩悩具足であるという事の慚愧です。
死んでからの話をして何になるかではない、死ななければ治らないほどの煩悩を持っていることを慚愧していくのが浄土の法門です。
それを離れたら浄土教ではありません。」と、聴かせて下さった和上様がおられた。
このような慚愧が、自らの内に「真/信」を求めず、浄土を「真/信」とする御法義だな。
死なにゃあ治らんほどの、どうしようもない煩悩を種として、至心 信楽 欲生我国と、摂取不捨のなんまんだぶつを称えながら生まれて来い、というのが浄土を真実とするこの御法義だ。
時々、我何をなすべきかと、我何を信ずべきかをごっちゃにして浄土真宗の御法義を語る僧俗がいるが、「信心決定後の生活が往生であり、その帰着点が成仏である」と言われる方に多そうだ (笑い
煩悩よ 何かつかまにゃ さみしいか
なんまんだぶつが出来たから、我があんずることはない。
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信心仏教
久しぶりに新聞を眺めていらた面白い記事を見つけた。
いわゆる平安仏教は「おがみ仏教」であり、鎌倉期の仏教は「信心仏教」だというのである。
つまり自分の外なる仏像を拝んだり祈ったりする仏教ではではなく、自己の内なる仏心/仏性に着目する「信」としての信心仏教という事を、禅門の人が書いているのである。
林遊は所謂「信心」という語が大嫌いなのであるが、仏教を自己の内面化していくという意味では何となく納得した文章だった。
浄土真宗では覚如上人以来の伝統として「信心正因 称名報恩」という枠組みで仏教を捉えるが、林遊はどうもこれが気に入らない。行のない仏教(宗教でもよい)がどこにあるのだと思うのである。
行という表現でなければ規範でもいが、規範の無い宗教などというものは存在しないのである。
規範という意味ではもう既に浄土真宗という宗教、特にご法義を「お取次ぎ」する真宗坊主の世界はアノミーの世界であると思ふ。阿弥陀様という存在は、クリスマスにプレゼントをくれる人の良いおじさんになってしまっているのが現状であろう。ご法義の世俗化ここに極まれりである。
念仏成仏 これ真宗。本願を信じ念仏すれば仏になる。なんまんだぶつのない真宗が何処にあるのかと、浄土真宗の僧侶に聞きたい気分ではある。
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