大悲のまなざし

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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ネタ切れで、過去のSNSでの日記から転載。

記憶の底にある東井義雄先生の著作からうろ覚えで書いてみる。文中の校長先生とは東井先生のことである。

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ある中学で夏休みに水泳大会が開かれた。種目にクラス対抗リレーがあり、各クラスから選ばれた代表が出場した。
その中に小児マヒで足が不自由なA子さんの姿があった。からかい半分で選ばれたのである。だが、A子さんはクラス代表の役を降りず、水泳大会に出場し、懸命に自分のコースを泳いだ。その泳ぎ方がぎこちないと、プールサイドの生徒たちは笑い、野次った。

その時、背広姿のままプールに飛び込んだ人がいた。
校長先生である。 校長先生は懸命に泳ぐA子さんのそばで、「頑張れ」「頑張れ」と声援を送った。その姿にいつしか、生徒たちも粛然となった。
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これを原案にして中学生日記というNHKのドラマで放映され事があった。全員ゴールしているのに、アンカーになった障害者であるA子さんが、一人だけパタン、パタンと変な泳ぎ方でプールを泳ぐ。

いじめた奴を殴り倒し糾弾するのは簡単だ。
水泳のレースを即座に中止する事も簡単だ。
でも、A子さんはA子さんの境遇の中で生きていくしか道はないのだ。誰も代わることの出来ない生を生きているのだから代わりはない。
頑張ってくれ、お前に与えられた人生を生きてくれ、仏さまは、そう言いながら私の人生を泣きながら荘厳して下さっているのかも知れん。

なんまんだぶつは、仏さまを讃嘆すると同時に、仏様が林遊を、なんまんだぶつと荘厳して下さる言葉かも知れんな、ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

信と覚り

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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仏教の目的は成仏であって覚りを得る事である。仏教とは、

仏説教(仏が説く教え)
説仏教(仏を説く教え)
成仏教(仏に成る教え)

まとめれば、仏教とは、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えである。
「正像末浄土和讃」の冒頭にあるように、

弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
夢告讃

である。
この上ない、無上の正覚をさとる、仏になる教えが浄土真宗である。
ともすれば、浄土教では救済の面が強調され、信の重要であることを語るが、このご法義の究極の目的は「無上覚をばさとるなり」である。
浄土真宗の救済とは、如来がまるで「金魚すくい」をするように衆生を網で掬うような救いではないのである。夜店の金魚すくいの屋台で、口をパクパクしている金魚を、網で掬うようなものとして「他力」を誤解している輩が多いのだが、これは大きな錯覚である。

善導大師は、救われたいという「願い」が、どれだけ真剣であっても、「行」がなければ覚りの世界へは往生できないと示されている。いわゆる、十願十行ありて具足する六字釈である。「六字釈
ただ、善導大師の六字釈と御開山の六字釈は少しく違い、御開山は、かなり複雑な六字釈をされるから面白い。
帰命(南無)を釈される結論は「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と、されるのだが、これは覚りの世界から届けられる呼び声であると言われる。
愛憎を超え自他の対立を超えた仏の覚りの世界は窺う術(すべ)もないのだが、その世界から届けられる言葉が、なんまんだぶであると、御開山は仰せである。
そして、なんまんだぶを称える者を、その名義にしたがって摂取して不捨と言われるのである。
なんまんだぶは、阿弥陀如来の覚りが、声と言葉になって念仏の行者に顕現しているのである。
念仏衆生摂取不捨であるがゆえに現生正定聚であり、「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」(本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰入した人は、阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。)との仰せである。
眷属とは仲間ということであり、大会衆数とは阿弥陀如来の本願の法を聞く法座の会衆であるという意味である。本願を信ずるとは、自己の描く妄想や救われたいという欲望の世界ではなく、浄土という真実の世界を目指して生きる生き方をいうのである。貪瞋痴に覆われた生き方しか出来ないが、それでも浄土を目指して生きようという生き方には、もう既に生死(しょうじ)を超えた覚りの世界が味わえるのである。

「還相の利益は利他の正意を顕すなり。」
「証巻」総結

林遊を仏にしようという、他力(利他力)の正意は、林遊をして還相させようという下心であった。
ありがたいこっちゃな

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

称名破満

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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称名破満とは、なんまんだぶを称えるという行為に、衆生の無明を破ることと、往生の願いを満足するという徳用があるということ。
『教行証文類』「行巻」で、御開山が論じられているいることを、詳細に解説して下さってある梯和上の解説をUPした。
「称名破満の釈義」

読んでると頭がクラクラするかも知れないが、浄土真宗は、なんまんだぶを称えるご法義であるということがよく判ると思ふ。いわゆる行に信を納めた行中摂信の表現になっているが、行を離れた信もなければ信を離れた行もないという「行信不離」の意味が判るかも知れないですね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ←これが信です。

学問(疑いの奨め)

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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昔は学文といったそうだが、これは文(漢字)の概念や多義性、漢文の用例を学ぶ事から学文といわれたのであろう。

学問を辞書で引くと、
(1)一定の原理によって説明し体系化した知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語。
(2)勉強をすること。知識を得るために学ぶこと。また、それによって得た知識。
と、ある。

(2)の、勉強をすること、と言う意味では小・中・高・大学と勉強するのだが、ほとんどが知識を受け入れる行為であって、問いを発させる為のものではない。
一方的に知識を受け入れる、という受動状態に慣れきってしまって、問うという行為が錆付いてしまう。
学べば学ぶほど疑いが出てくるのが、本当の学びなのだが、現代社会では学ぶ事が増えすぎて疑問を起こしている暇もないようだ。
学問という言葉は「学びて後に疑うあり、疑いありて後に問いあり」、と聞いたことがあるが、正鵠を射たものだ。

よく禅宗などでは「大疑団」(人生に対する根本的疑問)を発して来い、などといわれるが 宗教を理解するにはこの疑いというものは大切なものだ。

時々、社会的理性のある人が、おかしな宗教にのめりこんで熱狂的になる例をみるに、ある意味でこのような人は疑うという事を知らずに育ってきたのだなという感を深くする。
知識を詰め込まれる受動行為に慣れきってしまい、その延長線上で属する教団の教義を疑うという作業無しで受け入れてしまっているのだろう。

宗教に嵌ったり、インチキ商法に嵌められたり、簡単に異性に騙されたりする人達は、疑う事を知らない、自己による問いという訓練をしてこなかったのであろう。

知識の上に知識を積み重ね、疑う事を知らない人ほどおかしな事に巻き込まれるというのはまさに学問のアイロニーである。

浄土真宗は「信」の宗教だといわれるが、
「私が疑っても疑っても、疑いきれない、真実なるものとの出遇い。それが信心です」
と、いわれるごとく、「疑い」があるからこそ真実との出遇いもまたあるのだ。

[20091203]

池と鯉

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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ある法事の席でのお坊さんと門徒の会話

法事にはどんな絵がふさわしいかのぉ

そうやねえ

これなんか、どうやろのぉ

見ると池に鯉が泳いでいる絵である

なんで、これが法事に向いているかね。

釈迦は往(い)けという  弥陀は来いという

 

和上からお聞きしたエピソードだが、

よく聴聞した真宗門徒はちょっと油断がならない(笑

よくある、松林に囲まれた池で鯉が泳いでいる絵なら、

釈迦はいけという 弥陀はこいという ご開山はまつという、になるのだが。

この話は、釈尊の発遣と阿弥陀仏の召喚の二河白道の譬喩のはなしである。この譬喩は本願力の大道の話しであって求道を意味するのではない。
しかし、素直に、なんまんだぶを称えて我が国に来たれという如来の召喚を聞けない輩は、白道という語に眩惑されてしまうのかもな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

おっぱいの話

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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言葉には流行りすたりがあって、生きて来た時代が違うと意味の通じないものになってしまう。
おっぱいという幼児語の語源探索はさておき、’70年代に流行った歌謡に、
「ボインはぁ~赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」 (月亭可朝:嘆きのボイン
と、いうのがあった。今では擬態語から派生した、このボインという言葉は死語であろうと思ふ。

さて、ボインの方のおっぱいではなく、母乳の方のおっぱいの話である。

最近はどうであるか知らないのだが、昔は赤ちゃんに母親が母乳を飲ませる風景は一般的であり、ほほえましく、かつ崇高な行為であった。赤ちゃんは、時・所を考えずに、お腹が空いたことを訴え、その要求を、泣き声で母親に知らせたものである。初めてお母さんになった女性は、そんな赤ちゃんの泣き声に応じて、恥じらいながらも胸元を開き、赤ちゃんのために授乳したものである。ほほえましくも崇高な姿である。

この母親の全面的な赤ちゃんへの無償の行為を題材にし、全分他力のお喩えとして浄土教では母の慈愛としての法話が語られて来た。もちろん譬喩であるから一分(物事の一部分を表わすこと)であり、阿弥陀如来の救済と比較にならない喩えではある。

おっぱい(母乳)は、母親によって造られるものでありながら、母親には何の用事もないものである。おっぱい(母乳)は、初っめから赤ちゃんのために造られるものであり、母親には必要のないものである。まるで、要求もないのに一方的に衆生の為に建立して下さった阿弥陀如来の本願のようである。浄土教では、このような無私なる母の慈悲を題材として阿弥陀如来の全分他力の救済を喩えて法話してきた。参考までに『往生要集』の「礼拝門」には極大慈悲母という表現がある。御開山も「行文類」で引用なさっておられるのだが、衆生をを包摂する阿弥陀如来の慈悲に母性にを感じられたのであろう。

さて、浄土真宗の教えに近いといわれる浄土宗西山派でも全分他力を説く。
隣の部屋で赤ちゃんが泣いている。母親がよしよし、お腹すいたね、と言って赤ちゃんの泣き声を聞いて立ち上がり、部屋の襖を開けて授乳するのが西山派の言う全分他力説である。赤ちゃんの助命という泣くという声に応じて、立ち上がって下さるのが阿弥陀様である、と表現するのが西山派の教えである。これはもちろん全分他力であって赤ちゃんの造作は無用であるといえる。(浄土宗鎮西派は半自力半他力説であるから、このような喩えは使わない)

ところが、御開山の全分他力説の浄土真宗との違いは、赤ちゃんが泣く必要があるという点である。泣くことすらも知らない赤ちゃんはどうなるのか。
その泣く力も無い赤ちゃんに視点を合わせた大悲のまなざしが、御開山のお示しになる本願力回向の浄土真宗である。南無と泣く手を差し出すことも出来ない衆生を抱いて抱えて摂取するというのが、御開山の仰る浄土真宗であった。
大河のど真ん中で、溺れている者にロープを投げて、このロープに掴まれ掴まれ、南無の手を出して掴まれというのが、西山派の教説である。我が浄土真宗は、ロープを掴まえる力もない溺れた者を、大河の中に飛び込んで抱いて抱えて摂取するという阿弥陀さまのご法義である。

若い頃は、「悪人正機」などという教えは、世間の道理に合わないと思っていたものだが、南無と差し出す手もない林遊の為に、元来は南無とタノム機の側の行為である南無を、阿弥陀如来の本願招喚の勅命(呼び声)であると、南無の機までも成就して下さったご法義が、なんまんだぶというご法義である。

正像末和讃」に、
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
と、あるが、まさに世間にあって、苦悩の有情の為に成就されたのが、阿弥陀如来の救済の本願であった。
この、苦悩の有情を首(はじめ、第一、中心の意)とするのが、慈悲の至極であると、御開山の仰せであった。
これを、聞いた上からは、限りなき御恩報謝の道が用意されているのだが、林遊の場合は煩悩の林の中で遊び、往生浄土までの御恩報謝の暇つぶしで遊んでいたりするのである。

御恩報謝の論理については、暇があったら書いてみようと思うのだが、覚如上人の言われる「信心正因・称名報恩説」が、今ひとつしっくり来ないのでパス(笑

大人の宗教

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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高森会という、似非真宗団体の会員のブログをウォッチしてるのだが、宗教的深みがないというか、まるで中高生の宗教ゴッコのようである。
学生時代に偽装勧誘で入会し、社会経験ゼロで教祖のねじまげた似て非なる教義を刷り込まれてしまったためだろう。
時々、社会経験の浅い浄土真宗の坊さんにもこのような輩がいるのだが、煩悩という心の闇を見つめる力が不足しているのではないかと思ふ。浄土真宗のご法義は、浅ましい生活をしているなあという、自らの煩悩の中に、阿弥陀如来から回向された他力(利他力)を仰いでいくご法義である。

以下、梯和上の『親鸞聖人の教え問答集』から、引用。

Q.わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。

A.その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは自分の力をたのみしして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。

それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛憎や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始るのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称えるものは、必ず往生させましょう。もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし五逆罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます)

馬鹿は死ななきゃ治らない、とかいうが、死ななければならないほどの、自分でもてあますどうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きていかざるを得ないのが林遊のような存在である。生きている限りは、煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということである。

これを慚愧し、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」というのが浄土真宗のご法義である。若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自己の覚りと林遊の往生を不二と誓われたのが本願である。愛憎の煩悩に苦しむ者にとって、煩悩の寂滅した世界があり、その世界を目指して生きよというのが本願の言葉である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

気持ちのいい言葉ほど危ないものはない

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 仏教SNSからリモート
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真宗教団で、「生かされているいのち」とか、「尊いいのち」とか「いのちがあなたを生きている」など耳障りのよい言葉が多すぎる。

未来の見えない派遣労働で働く兄ちゃんや、リストカットを繰り返すお姉ちゃんや、病院のベッドにくくられているボケ老人にも命はあるのである。

悪人という語が、世間倫理の枠から外れ、聖道門仏教からも相手にされない者を指すならば、悪人正機を標榜する浄土真宗に、気持ちのいい言葉は似合わない。
正機とは傍機に対する言葉である。阿弥陀仏の慈悲の眼(まなこ)が、誰に焦点を結んでいるかが正機という表現である。

美しい耳障りのよい言葉を使い続けることは、本当にご法義をお伝えしなければならない方たちとの交渉を絶つ事だと思ふ。

「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。心偏に常没の衆生を愍念す」「玄義分」なのだから。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

[20080803]

後悔と懺悔

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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人は後悔をする。あの時ああすればとか、こうしておいたらという後悔の念を抱いたことのない人はいないであろう。
しかし、後悔というものに沈潜している限り、救いのない状態が続いているだけであって、本当の解決にはならない。

西田幾多郎は、わが子を亡くしたことを綴って以下のように言う。

最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。『我が子の死』西田幾多郎

西田幾多郎は、後悔の思いが起こるのは自らを信じているからだという。後悔することは自らの心の中での、逡巡でありそのような行為には救いがないということであろう。
仏教では「懺悔」という行為がある。

懺悔
懺は梵語クシャマ(kşama 懺摩)の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、悔過の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・大衆に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。

仏に対して懺悔することにより、仏がその懺悔を摂受して下さることにより、為した行為が許されるというのが懺悔である。自らで始末のつかない後悔を、自らの力で乗り越えていくことは出来ない。自らを超えたものによってこそ許しがあり救いがあるのであろう。

親鸞聖人は、『尊号真像銘文』で「称仏六字 即嘆仏即懺悔」を釈し、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。『唐朝光明寺善導和尚真像銘文

と、仰せである。
一声、ひとこえのなんまんだぶつが、如来の徳を讃嘆することになり、そして自らの行為を懺悔することになると仰るのである。自らが自らを裁き許しを乞うのではなく、仏のみ名を称えることにより阿弥陀如来が懺悔を摂受して下さるのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝

[20100727]過去日記より

度断学成 (どだんがくじょう)

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
あらゆる生き物をすべて救済するという誓願

煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願

法門無量誓願学(ほうもんむじんせいががく)
法門は無尽だが、すべて学び尽くそうという誓願

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願

大乗仏教の全ての菩薩が発すという総願の四弘誓願である。

♪しゅ~じょぉむへんせいがんだ~ん♪等とお寺などで唱和する機会もあるので知っている人も多いと思ふ。

衆生無辺誓願度、とあらゆる生きとし生ける者(衆生)を済度(救う)するという一番目の願がメインで、後の三願はそれを実行しようという菩薩の決意の願である。

ある和上が、この四弘誓願について、本当にこの願を発そうとしたら人間は死んでいる暇は無い。ありとあらゆる迷いの世界(此岸)の衆生を、さとりの世界(彼岸)に渡すことを発願するというような言葉は人間の世界から生まれて来るような言葉ではない、と仰った事がある。

ちょっとビックリした。言葉と言葉が指し示す意味内容を何も判らずに唱和していた事に恥ずかしさを覚えた事であった。
同時に、そのような誓願の中に願われ、重ねて『本当に疑いなく私の国に生まれるのだと欲(おも)え、そして私の名を称えながら生きていけ』という、なんまんだぶつの御本願がたのもしかった。

私が願(菩提心)を発すのではない。菩薩の発した願に包まれ、願の意味を聴かせて下さる仏教がある事の再発見ではあったな、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……
[20080804] SNS