おねんぶつ

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木村無相さんの詩

にょらいさんが
わたしを
おもって おもって
おもって おもって
くださるのが
おねんぶつ…

にょらいさんのおもいが
わたしに
とおって とおって
とおって とおって
くだされたのが
おねんぶつ…

浮遊する虚しい道具としての言葉と、
言葉の世界を超えたところから届けられる言葉もある。

なんまんだぶつが出来たから、我が案ずることはないんだよな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

聞くままに…

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慈海さんの日記に触発されて過去ブログから転載

聞くままに また心なき 身にしあれば
おのれなりけり 軒の玉水  道元禅師

だいぶ昔の春先の夜中のことであった。
ふと夜半に目が覚めたところ、屋根の淡雪がしずくとなって軒下の水溜りにポトン・ポチャンと落ちる微妙(みみょう)な音が耳に聞こえてきた。

何気なく聞いているうちに、聞いている私が主体なのか聞こえてくる音が主体なのかが判らなくなり、世界が音だけになってしまうという経験をした。

後年、冒頭の道元禅師の歌を知り多分道元禅師も越前の山奥での心象風景をこのような歌にされたのだろうなあと勝手な感慨にふけったものだ。

ある和上が、我々は花を見る、というが本当の花を見ているのではなく、花という我々の脳内でこしらえた概念の虚像を見ているのですよ。
一本の花が、花が花を見るように花を見た時初めて花を見たということが言えるのです、といわれた事があったが「天地と我と同根」という言葉の意味が少しだけ解った気がしたものだ。

ご法義に「経験」という個人的感覚を持ち込む事は小生の最も唾棄すべきことではあるが、論理や感情を媒介することなくモノを直接的に把握/認識するという事もあるのかも知れないと思っていたりもする。

しかし、当流には「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」(註釈版81P)、という、一念/一声の南無阿弥陀仏がある。

称える者の経験や知識などには何の関係なく、仏の名号を聞いて喜び南無阿弥陀仏と一声のお念仏を称える事がこの上ない功徳をもつ行であるとのお勧めである。称える側には意味がなくとも、称えさせようとする側に意味があるのがなんまんだぶつである。

なんまんだぶつという声になって悟りへ至らしめようという名号は、如来の慈悲の極まり(十七願:大悲の願)であり無上の功徳である。浄土門仏教徒にとっての究極の言葉はなんまんだぶつである。自らの知識経験が何の役にも立たない時、絶望の極みの奥底(おうてい)に届く言葉は南無阿弥陀仏である。その名号に呼応しようと思い立つ心の発るとき御開山や蓮如上人が見ておられた世界の消息が窺がえるのである。

大悲の願から出る南無阿弥陀仏がこちら側の一声となって、また大悲へ還っていく世界があるのですよ、と先人はお勧めである。ともすれば私が称える念仏と思いがちだが、御開山は、南旡阿弥陀仏を讃嘆するという大行の出所は私の口ではありません。「しかるにこの行は大悲の願より出たり」(141p)との仰せである。出るところが違うのである。

このようなお念仏の世界を「わたしゃつまらん、聞くばかり」と仰った先人がいたが、自らの行為に意義を見出そうとする立場ではつまらんご法義である。しかし、それが本当の仏道でしたねと肯(うけが)ふ時に拓ける世界もまたあるのである。
「至心信楽おのれを忘れてすみやかに無行不成の願海に帰」(1069p)すと、なんまんだぶつという誰でも実践できる行があるのはありがたいこっちゃ。

PS:
なお、水の音を聞き味合うものに水琴窟(すいきんくつ)というものがあるそうである。地中に甕を埋め蹲(つくばい)を通した水が甕の中に落ちて甕に反響する音を楽しむものだそうである。
「梵声悟深遠 微妙聞十方」(浄土論)には及ぶべきもないが、確かに水の音は不思議な音色を聞かせてくれるものである。
水琴窟の音の例:
http://www.eikando.or.jp/Suikinkutsu.mp3

知識帰命

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宗教において教祖に絶対服従してしまうことを「知識帰命」という。
真宗においては阿弥陀如来に帰依することを帰命というのであるが、その教説を説く者を絶対化し崇拝する対象としてしまう異義である。
古来から浄土真宗では阿弥陀如来を人格化して、親さまなどと呼称して来たので対人関係のみでしか関係性を構築できない人はこのような異義に陥りやすい面もあるのだろう。
信という言葉は、人+言(ことば)という意味もあるから、法を説く人を絶対化しその言葉を受け入れ従うことが信であると誤解するのである。

釈尊が涅槃にお入りになるとき、偉大な人格を失う恐怖におびえる弟子達に「今日からは、自らを灯明とし法を灯明とすべし」といわれ自灯明・法灯明ということをお示しであった。

これを『大智度論』に、四つの依りどころの法四依として、

釈尊がまさにこの世から去ろうとなさるとき、比丘たちに仰せになった。
①今日からは、教えを依りどころとし、説く人に依ってはならない。(依法不依人)
②教えの内容を依りどころとし、言葉に依ってはならない。(依義不依語)
③真実の智慧を依りどころとし、人間の分別に依ってはならない。(依智不依識)
④仏のおこころが完全に説き示された経典を依りどころとし、仏のおこころが十分に説き示されていない経典に依ってはならない。(依了義経不依不了義)(『註釈版聖典』p.414)

このように、説く人に依ってはならないという意で、以下のような話を聞いたことがある。

和上のお寺で、近隣の坊さんの法話があった。
その法話に参っていたばあちゃんが、和上の部屋の前をぶつぶつ言いながら通ったそうである。
聞くとはなしに聴くと、

今日の布教使は若い頃はろくでもない奴じゃったなぁ。
酒は飲むしケンカ腰で物をいうし、ほんまに近郷近在のロクデナシじゃった。
ほんでもなあ、今日の説教はありがたかったな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

人の人格や生き方や知識や人生観や見てくれや矜持や態度には、何の用事もないのである。
我々に用事があるのは、阿弥陀さまのご法義である。

そんな話を和上にお聞かせに預かったものだった。
爾来、知識帰命というようなモノからは無縁で、たとえ新発意(新米の坊主)の、本を読むような法話でもあり難いものは有り難く、熟練した布教使の法話でもつまらんものはつまらんと駄目だしができるようになったものだ。

お聴聞は法を聞く耳を育てるというが、熟練してくると猫のちょっとしたしぐさや一杯の酒にでも法を聴けるものではある。
それにしても、最近の法話は人間の話ばっかりで、阿弥陀さまの話をなんまんだぶの話を出きる坊主が減ったのは困ったものだな。

ここに知識の御化導あり

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あさましや、さいちこころわ、あさましや。
妄念がいちどに出るぞ、にがにがしい。
悪のまぜりた火がもゑる、
悪のまぜりた波がたつ、あさましや。愚癡のまぜりた火がもゑる、
邪険もの、あさましや、
とどめられんか、さいちがこころ、
くよくよと起こるこころを、たする(尋ねて)みれば、
天にぬり(乗り)こすさいちのこころ、
ここに知識の御化導あり、
「これさいち、ここがそなたの聞き場ぞよ。」
「ありがとうございます」
「みだの本願、なむあみだぶが、できてから、
われ(汝)が案ずることはない、
きけよ、きけよ、なむあみだぶを、
ききぬれば、われが往生これにある。
なむあみだぶは、われ(汝)がもの。」

ごおん(御恩)うれしや、なむあみだぶつ。
妄念の置き場をきけば、
機法一体、なむあみだぶつ。

このこころで、十方微塵世界を、
佛や菩薩や親さまと、
遊んで居るか、このこころ。

なむあみだぶをた(食)べて遊んで、
なむあみだぶと共に日暮し。

ご恩うれしや、なむあみだぶつ。

ここの知識とは梅田謙敬和上であるが、他者を悲泣雨涙のどんぞこに叩き込み、必堕無間と脅すような人は悪知識だな。
本物の善知識とは、罪の深さに泣いているひとに、なんまんだぶができたから、あなたの案じることではないのですよと、弥陀の救いを告げるのだ。

十方微塵世界
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、我が案ずることではない。

一実円満之真教

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TS会の教義の根幹であろうか、それとも高森氏が剽窃した伊藤、大沼両師の著書からであろうかこの語をもって浄土真宗を語る。(この場合の語るは騙るではないのかと思ふのは特に秘す)。

この語は『教行証文類』の『信文類(末)』の、横超釈からの引文であろう。

この横超釈では、

横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超はに対しに対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。『信文類』p.254

と、『観経疏』玄義分の偈文「横に四流を超断すべし」を引文して、親鸞聖人が教判をなされている文言である。
高森会では断章するから意味が判りにくいのだが、親鸞聖人がこの文で言おうとされているのは教判である。以下にその教判を」図示す。
何処かで見た図である。二双四重の教判で論じた親鸞聖人の教判である。

要門・真門という高森会のいう横出の道を捨てて、横超の御本願に帰すのですという道を示すのが「一実円満之真教」の教えである。
浄土真宗は「本願力回向」の、向こうから来るご法義である。この如より来るご法義を、会員が求めるべき道であるとして教えるのが高森会である。そして、その対価として善のすすめという名の寄付という金銭を収奪し、人集めという時間を浪費させてきたのが高森会の歴史であろう。

一切衆生 悉有仏性」と、あらゆる存在が、真理に目覚めたものになる本性をもっているというのが大乗仏教の究極の思想である。
我に救われたいなら、わが名を称えよというのが浄土真宗である。子が親の名を呼ぶことによって安心するように、言葉と声になって救済を告げるという慈悲の至極が、なんまんだぶのご法義である。安心とか信心という暇つぶしの論義は、この原則を受け容れた後に展開される報謝である。

なんまんだぶ なんまんだぶ、やったね。

大悲の必然としての救済論

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自業自得の救済論」で、TS会の自業自得の因果論による真宗理解の違いを述べたのだが、それに対する本願力回向の救済論について、梯實圓勧学和上の著書から窺ってみる。

大悲の必然としての救済論

親鸞聖人は、万人の救済を願い立たれた仏心を

如来の作願をたづぬれは
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり 『正像末和讃』p.606

と讃詠されている。大悲とは、すべての有情の痛みを共に痛み、苦悩を共感し、わがこととして、それを除こうと願う心である。また大慈とは、すべての悩めるものに真実の安らぎ(涅繋の楽)を与えようと願う心であった。
このように有情の苦を抜いて、真実の安楽を与えようとする大慈大悲は、自他一如、怨親平等とさとる真実の智慧の自然の流露であった。『観経』に「仏心とは大慈悲これなり」といい、仏心を大慈悲で言い表されているように、浄土教とは大智を全うじた大悲の活動に、阿弥陀如来の如来たる所以を見ようとする仏教であった。
大悲をもって苦悩の衆生と連帯していく阿弥陀如来は、衆生の要請を待たず、大悲の自然として本願の名号を救いの法として選択し、衆生に回向して救済を達成していかれる。その有様が往還二種の回向であった。『正像末和讃』には、

南無阿弥陀仏の回向の
恩徳広大不思議にて
往相匝向の利益には
還相回向に回入せり 『正像末和讃』p.609

と讃詠されている。如来が悲智の徳のすべてを名号にこめて十方の衆生に回向されるということは、むしろ、如来はみ名となって衆生のうえに顕現してくるというべきであろう。そのみ名は真実の教となり、行となり、信となり、証となって衆生の往相を成就し、また還相をあらしめていくのである。

こうした大悲の自然としての救済活動は、医療行為に似ている。治療は、患者に功績があるから行うのではない。病苦があるからである。薬は褒賞として与えられるものではなく、病苦に共感する医師自らの悲心にうながされて投薬するのである。それゆえ病苦が重ければ重いほど、医者は患者に緊密にかかわっていく。「信文類」に、

ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。 『信文類』p.297

といい、大悲の必然としての救済を医療に喩えられた所以である。このような救済論は、必然的に悪人正機説になっていくことも了解できよう。

聖人はこのような救済論をまた自然(自ずから然らしめる)と呼び、法爾(法則として然らしめる)と仰せられた。それが真実一如の必然の活動であり、法則であるとみていかれたのである。

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀(仏)とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。 『御消息』p.768

と言われているのがそれである。人間の善悪によって救いの有無が決るのではない。南無阿弥陀仏とたのませ、迎えようとはからいたまう本願力の自然のはたらきによって決まるのである。私どもは、わたくしのはからいをまじえず、如来の不可思議の御はからいに身をゆだねて、おおせのままに念仏していくとき、是非、善悪を超えてはたらく本願力の自然のはたらきによって、無上仏にならしめられるのである。

こうした如来の自然法爾の救いの前に差別のあるはずがない。「信文類」には、

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。『信文類』p.254

といわれている。自他の隔てを超えて、生仏一如の領域である無上涅槃に至らせようとする本願力回向のはたらく頷域に、九品の階位はない。
無上涅槃は生仏の隔てさえも超えた一如の領域であるからである。自然の真実を知らないということは、行者のはからいによって描き出している九品の浄土を真実と誤解している証拠である。
いいかえれば真仮を知らないということは、本願力回向という自然の道理に気づかず、如来の大悲を迷失していることであった。「大経讃」には、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえそしらぬ 『大経和讃』p.569

と讃詠されている。一切の虚妄分別による限定を超えた生仏一如の「自然の浄土」は、本願の念仏を与えて成仏せしめるという願力自然のはたらきによってのみ開かれていく領域である。
それは行者のはからいによって行ずる万行諸善の届く世界ではない。聖道門、要門、真門といった権仮方便の教えと、弘願真実の教えとの違いを明確に信知して、自力のはからいを離れて本願他力に帰する人にのみ無上涅槃といわれる「自然の浄土」は開けていくのである。

自業自得の因果を信じて廃悪修善を行う主体はどこまでも行者であったが、自然法爾の領域にあっては、行も信も真の主体は如来であり本願力である。したがって三願真仮論、すなわち真実と権仮方便の問題は、ただ教学上の意見の違いというようなレベルでの問題ではなく、明らかに主体の転換という回心を迫る厳しい教説だったことが分かる。
聖人が「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」といわれた所以である。

TS会では『真仏土巻』末の「真仮対弁」で説かれる「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、仮を知らなければ真は判らないと教えているそうだ。真を信知することによって第19願、第20願の仮の法門が判るのだが、いやはや何をかいわんやである。

親探し

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1980年代だと思うが中国残留孤児の親探しというニュースが連日TVに登場した事があった。

いわゆる日本の敗戦後に、満州地方に残された日本人の子供が日本で親探しをするというニュースである。山崎豊子の「大地の子」という残留孤児に材を取った小説でも紹介されていたが、中国残留孤児について知っている人も多いだろう。

そんな頃に話されたであろう和上の法話テープを聴いたのは17(19)年ほど前である。

マスコミで中国残留孤児の「親探し、親探し」というが、あれは間違いではないか。
親を探しに来たのなら、さっさと日本中を駆け回って親を探せばいいのではないか。

あれは、親を探しに来たのではない。親に探されに日本へ来たのだ。
当時赤ちゃんであり、親の顔さえ知らない者がどうして親を探せる筈があるか。

お父さん、お母さん、私はここに居ます。どうか私を見つけてください、と親に探されに来日したのであって、親を探しに来たのではない。
親に探される為に、親に見つけて貰うための「親探され」なのだ。

そんな法話であった。

浄土真宗では阿弥陀如来の事を「親様」というが、親様に対する求道の向きが違っていた事に気付かされた法話であった。
私が仏さまを探すのではない。仏さまが私を探し続け呼び喚け続けていて下さった事に驚愕した夏であった。
私を大切にするよりも、私を大切にしてきて下さった仏さまを大切にするようにとのお示しであった。

真宗では、口先で称えられるなんまんだぶつは讃嘆行といい御恩報謝という。
よかったな、このご法義には讃嘆/報謝の行為まで用意してあったとはありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

初稿2008年07月26日

念仏禁止

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『念仏禁止』

うらの仏法は念仏やめよ
うらが称えりゃ名聞利養
人に見せかけ、世間をだまし
己が己に、ごまかされ
うらが称える念仏やめて
うらがの心に、念仏禁止の札かけりゃ
知らずに始まる、なむあみだぶつ
念仏往生さかんなり

うらの仏法は餓鬼根性
自分が仏を引き寄せて
うらが仏を摂取して
ご恩報謝の念仏称え
こんな念仏、やめねばあかん
うらが称える念仏止まりゃ
ここへ飛び出る親がある
親から噴き出る念仏は
尊い香りのするものじゃ

うらの仏法は闇夜に鉄砲
的は分からず、無茶苦茶念仏
弥陀の本願利用して
安心決定、自分できめて
ほんとにあぶない決定心
ああなさけなや、お気の毒

うらの仏法は玉手箱
弥陀から賜る玉手箱
如来他力のなむあみだぶつ
あけずにおけばよいものを
あければ驚く玉手箱
中の品物、化けものばかり
うらがあけたら、化けものじゃ
おけずに居られん、この爺々は
うらはそのまま、ままのまま

うらの仏法は分限ちがえ
諸仏は称名、衆生は聞名
ちゃんと分限があるそうな
うらが違えて称名するで
毒気・殺気で人さま逃げる
こらっ、念仏やめんかい
うらが称えるで、なかったわ

うらの仏法は四十九願
どこで一願ふえたのか
よくよく自分に、たずねたら
成ろう、成れるの一願寝とる
これで四十八願、まるつぶれ
うらの仏法は割り切れん
割り切りたいのが、うらの自性
割り切らさんのが、な む あ み だ ぶ つ

明治二十三年に越前に生まれた前川五郎松翁のうたです。
小生の母親に翁が下さった「一息が仏力さま」という自費出版の本に載っているもの。

自分で我が機を開けてみれば、出てくるものは化け物ばかりだなぁ。

うらの仏法は四十九願
どこで一願ふえたのか
よくよく自分に、たずねたら
成ろう、成れるの一願寝とる
これで四十八願、まるつぶれ

TS会では、信心獲得とか信心決定とか、成ろう成れると思っているから、四十八願まるつぶれなんだよね。
迷いだらけの自分の心に着目するよりも、これで大丈夫と称えられ聞こえてくださる、なんまんだぶつに何の不足があるるんだろうな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

俵山夏安居

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僧侶主体の安居(於 西念寺)は6月だが、一般の門徒を対象とした安居。

信心の欲しい人は、ぜひぜひ参詣するとよいですよ。
光摂坊(本寺 西念寺の支坊)の周りには、なんまんだぶのご法義にあって、捨てられた信心がいっぱい落ちていますから、自分の機に合わせてよりどりみどり、あおみどりで拾えます(笑

深川倫雄和上は、古いタイプの感覚(航空士官学校卒)をお持ちですから、安易に気安く話しかけるとどえらい雷が落ちますから注意(笑

宿は、
http://www.tawarayama-onsen.com/
で、案内されていますが、そもそも俵山温泉は湯治客主体で、自炊しながら一ヶ月くらい泊まって治療する温泉なのですが、夏安居の時はなぜか高い。

日本にまだこんな風情が残っていたんだとか、なんまんだぶという救済法に関心があるなら、行く価値はあるな。

残念ながら、林遊は参加できないけど、インターネットで林遊から和上様の話を聞きましたと言えば、怒られないかもね(笑い

願海真仮

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TS会最後の砦「要門」であるが、判りやすく図にしてみた。

要門・真門・弘願という言葉は善導大師が使われた用語である。
この用語を三願・三経に配当し、真仮を分判されたのが親鸞聖人の願海真仮論であり、『無量寿経』の三願を三願・三経・三門・三藏・三機・三往生の六種に分けて六三法門と呼ぶ。
六三法門

この六三法門を見れば三願転入などという発想は起きない筈なのだが、TS会では時間の方向の捉え方がおかしいので盛んにこれをいう。

宿善とは現在から過去を振り返る時に使う用語なのだが、TS会ではこれを未来へ使おうとする。
同じように、御開山が過去を振り返って、この道は行くのではないですよ、と仰っている三願転入を未来を示す求道用語として使うから論理が無茶苦茶になるのである。

浄土真宗というご法義は、求道も修行も全て因位の法蔵菩薩がなされ「弥陀如来は如より来生して」下さる如・来するご法義である。

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
浄土和讃

この御和讃にもあるように浄土真宗は、今・いま・今の、今現在に無明煩悩の衆生に名号法となって届けられているご法義である。この今現在の救済を三願転入などといって拒否し/拒否させているのがTS会である。

三願転入派は、本物を知るためには偽者(仮)を知らなければならないという発想なのだろうが、贋物は100万年たっても偽物である。本物を知ることによって贋物が偽物であることが判るのである。

これが本物であると第十八願の弘願を示されてあるのに何故偽者である「仮」を選ぶのかMCとは怖いものである。

なお、善導大師は、すでに要門と弘願の二門の違いを判定されている。

たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。 ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。 「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。

弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
『観経疏』要弘二門

これによれば、『観経』には、釈尊の要門の教えと阿弥陀如来の弘願による救済が述べられていることが判る。
『観経』には、

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。『観無量寿経

と、世福(世俗の善)・戒福(戒善)・行福(行善)の三福を挙げられて、全ての仏教をこの観経一巻に納められていることが判る。

釈尊は八万四千の仏教を小乗仏教も含めて『観経』一巻に納めて要門として説かれ、安楽世界の救主である阿弥陀如来は、特別のお心で別意の弘願を 顕彰して下さっているのが『観経』という経典である。

つまり、要弘二門釈で、この『観経』に代表される聖道門の教えを要門とし凝集し、この教えと阿弥陀如来の弘願(第十八願)とを対判されているのである。
仏教では「行は願によって転ず」というように、行ないというものは願いによってその意味を変えるものである。本来此土入聖の聖道門の行をもって往生浄土をせしめようというのが『観経』であり、これを聖道門から浄土門へ入らしめる肝要の法門であるから要門というのである。

ちなみに最後の経典を後世に伝える流通分には、釈尊も『観経』の結論として、阿弥陀如来と同じに、なんまんだぶをお勧めになる。

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語 を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。
『観無量寿経』「流通分

このように一見すれば、聖道門の発菩提心と修諸功徳が説かれているように見える『観経』は、聖道門仏教から浄土門仏教へという異の方便、欣慕浄土の仮の法門であるというのが親鸞聖人のお心である。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如 来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導 生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
「化身土巻」「要門釈、第十九願開説、観経の意

浄土門仏教は阿弥陀如来が救い主であって、釈尊はその道を教えて下さった教え主なのだが、救主と教主を混同するからTS会のように聖道と浄土を混雑させたわけの判らない思考になるのだろう。