他力の他は私です

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言葉は長い間使われているうちに意味の拡散が起こり、本来の意味とはかけ離れた意味で使用されることがあります。浄土真宗で阿弥陀如来の救済力をあ らわす他力本願という用語もこのような言葉の一つです。

他力とは利他力のこと

本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から衆生を他とした言葉で す。

である阿弥陀如来の救済力が、如来からみてである衆生を救済し続ける本願力を他力と表現したのです。阿弥 陀如来を中心とした秩序のある世界観を表わす言葉だったわけです。

他力の他は私なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は 「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。

これは親鸞聖人の「本願力=利他力=他力」という思想の根幹である『浄土論註』覈求其本釈によっています。

参照:今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

縦の線と横の線

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高森親鸞会のいう縦の線と横の線について考えてみました。

まさに高森親鸞会の廃刊になった「会報」にあるごとく
「一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に見あたるか。どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。真宗の道俗はさもいと易く「あれはまだ十九願だ」「あれは二十願の人だ」といっているが願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない人達ばかりだから本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗にはないといってもよいのだ。」
であって、19願(要門)、20願(真門)は名前だけあって修する人がいない道ですね(笑

浄土真宗は第十八願の本願力回向のご法義です。
では、『正信念仏偈』から、その思し召しを少しく窺ってみましょう。

まず、龍樹菩薩は「易行道」と「難行道」との二つに分けて、

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

龍樹菩薩は、この土での修行は、険しい陸路をたどるように難行道であり、 念仏往生の道は、大船に乗って安らかに目的地へ往くような易行道であると教えられた。
そして、阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく聞き受ければ、  本願力によって、即時に必ず仏になる位に入れしめられる。
と、仰せになりました。

これは、『十住毘婆沙論』「易行品」の

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あ り。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるい は勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。 『十住毘婆沙論』p.5
人よくこの仏の無量力威徳を念ずれ ば、即時に必定に入る。この ゆゑにわれつねに念じたてまつる。 『十住毘婆沙論』16

に、依られたものである。

天親菩薩は、この本願力回向の阿弥陀仏の本願を憶念することを一心の信心であると仰いました。

広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数

本願力の回向によって、普く衆生が救われることを知らせるために、 それを受けいれる一心(信心)が往生の因であると彰された。
本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰人した人は、阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。

これは、以下の『浄土論』の内容である。

世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。
阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得。

この二菩薩のお心を受けられた曇鸞大師は、

往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃

往相も還相も、すべて本願力によって回向されるから、 往生の正因は疑いなく受けいれる信心一つである。
愛憎の煩悩に染まった凡夫も、信心が発るならば、生死する身でありながら、生死を超えた涅槃をさとるべき身となる。

つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品・意)を案ずるに、いはく、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」と。「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多途あり。ほぼ五三をいひて、もつて義の意を示さん。{中略}五にはただこれ自力にして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。 『浄土論』

と、本願力の一心による易行道を「他力」と表現して下さいました。

さて、ここで注意が必要なのですが、ここまでの信心という表現は、「易行道」、それを受け容れる「一心」、他力(本願力)に随順するということ、つまり阿弥陀如来の本願力を信じるということが「信心」という言葉の意味だということです。

そして、これをコペルニクス的展開で仏教を二分されたのが道綽禅師でした。自分が中心であるという天動説の世界観から、如来が中心であるという地動説の世界観を提唱されたのです。これを、「聖浄二門判」といい、仏教には「聖道門」と「浄土門」いう二種類の仏教があり、末法では「浄土門仏教」でなければ証(さとり)することが出来ないと仏教をひっくり返してしまったのです。

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

道綽禅師は、自力聖道の修行によってこの土でさとることは不可能であり、 ただ浄土に往生することのみが、さとりを得る道であると決択された。
この世でさまざまな修行をしても、かならず挫折すると自力修道を退け、あらゆる功徳が円かに具わった名号をひたすら称えることを勧められた。

これが、法然聖人の立教開宗の根拠となった「聖浄二門判」である。

大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。 このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。
当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。 このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。 『聖浄二門』

ところで、TS会の会員って、『正信念仏偈』を読誦してるのかな。真面目に読誦してれば「三願転入」などという高森氏の詭弁に騙されるはずはないのだが、ひょっとして『正信念仏偈』を意味も判らずに唱えていたのかな、謎だな。

一心不乱の事

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醍醐本という法然聖人の語録がある。
漢文(日本漢文)なのでよく判らないのだが、適当に意訳してみた。

原文:
一、阿弥陀経一心不乱事
一心者、何事心一スルソト云、一向念仏申阿弥陀仏心我心一成也。
如天台十疑論云。如世間慕人能受慕者機念相投必成其事。
慕人者阿弥陀仏也、恋ラルル者我等也。
既心発一向阿弥陀、早仏心一成也。
故云一心不乱。
上少善根福徳因縁念ウツサヌ也云々。

意訳:
『阿弥陀経』の一心不乱ということ。

一心とは何に心を一つにするかといえば、
ひとむきに念仏を申せば阿弥陀仏の心と私の心が一つになるのである。

天台の『十疑論』に、
世間で人が慕うように、
人が慕うことを受け入れる者は、
お互いの思いがあい通じ合って必ず成就するようなものである。

慕う人とは阿弥陀仏である。恋せられる者は私たちである。
すでにひとむきに阿弥陀仏はそのような心を発されたのであるから、
はやく仏のお心と一つになるべきである。
そのようなわけで、一心不乱というのである。

これはまた、自力で行うわずかな善根功徳の諸行に、心をうつさないということである。

これは、以下の『阿弥陀経』にある「一心不乱」という経文について法然聖人が述べられたものである。

>>
舎利弗若有善男子善女人聞説阿弥陀仏
執持名号若一日若二日若三日若四日若
五日若六日若七日一心不乱其人臨命終
時阿弥陀仏与諸聖衆現在其前是人終時
心不顛倒即得往生阿弥陀仏極楽国土舎
利弗我見是利故説此言若有衆生聞是説
者応当発願生彼国土

舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。舎利弗、われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。
>>

一心とは、阿弥陀如来の我を思う心と、阿弥陀仏如来を念ずる我の心が一つに成ることであるといわれる。
そして、不乱とは少善根としての善根功徳の諸行に心を移して乱さないことであるとされている。
もちろん浄土門の善とは、執持名号としてのなんまんだぶを称えることであり、これが善本(善の根本)であり徳本(徳の根本)であることは当然のことである。

それにしても、阿弥陀如来が林遊を恋慕して下さるという表現は、清僧とされていた法然聖人にしては面白い表現ではある。
「われ称え、われ聞くなれど なんまんだぶつ 連れていくぞの 弥陀の呼び声」という句があったが、阿弥陀さまに恋せらるるなら、浄土へ往かにゃぁなるまいなあ、ありがたいこっちゃ。

この阿弥陀経の一段だが、じいさんの阿弥陀経のおっとめの助音をしながらばあさんが、
「なあオメ、ここ有難いな。我見是利故説此言(がけんぜりこせつしごん)、われこの利を見るがゆえに、この言を説く、と言うてなさるんやなあ。仏さまは嘘つきなさらんからなあ」
と言っていたものだった。

当時はなんのこっちゃと想っていたが、林遊が阿弥陀経を拝読するとき、この「我見是利故説此言」の八文字をゆっくり丁寧にとなえるようになったのは、ばあさんのおかげだったな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

おねんぶつの勧め

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『教行証文類』「行巻」には、念仏と諸善(TS会のいう善)とを比挍対論されておられる。いわゆる一乗の機教という、機と教えの対論で、どちらが勝れているかの釋である。

(98)
しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。
教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

(99)  また機について、念仏の機と諸善の機とを比較し、対論すると、次のようになります。
信疑対、念仏者は本願を信じているが、諸善の人は疑っている。
善悪対、念仏者は名号の大善を領受しているから善人であり、諸善の人は雑毒の善しかないから悪人と貶称される。
正邪対、念仏者は正定聚の機であり、諸善の人は邪定聚の機である。
是非村、念仏者は仏意にかなうから是であり、諸善の人は仏意にかなわないから非である。
実虚対、念仏者は仏の真実心を得ているから実といい、諸善の人は自力虚偽の人であるから虚という。
真偽対、念仏者は真実、諸善の人は虚偽であるから、真といい、偽という。
浄穢対、念仏者は浄心を得ているから浄といい、諸善の人は疑濁の人であるから穢という。
利鈍対、念仏者は仏智を得ているから利根であり、諸善の人は仏智を得ていないから鈍根である。
奢促対、諸善の人の成仏はおそいから奢といい、念仏者の成仏はすみやかであるから促という。
豪賤対、念仏者は名号の功徳を得ているから豪富であり、諸善の人は大功徳を失っているから貧賤である。
明闇対、念仏者は仏智を得て無明を破られているから明であり、諸善の人は無明の闇に閉ざされているから闇である。
このような十一対が成立します。以上のことから、本願一乗海である念仏を疑いなく受けいれている一乗海の機を考えてみると、その体が仏智であるような金剛の信心は比較を絶した絶対不二の機であることがわかります。
聖典セミナー『教行信証』梯實圓 著
http://wikidharma.org/4af8af1a97530

『無量寿経』では易往而無人とあるが、TS会の人は善に迷って念仏を称えないから、往きやすいのに無人なんだなろうなあ。
まあ、いくら言っても聞かないTS会の会員は、もう一回りしてくるこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、これ最強

葉書の法語

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葉書の法話

深川和上は毎月、朝日歌壇で採取した短歌に託したご法語を送って下さる。

今月は、

みどり児(ご)を 光背のごと 背に負いて
寒のひと日 ほのぼの 温し

に、材を採った法語であった。
この法語で思い出した和上の法話がある。

我々は48願を聞いたのはどこであったか。
それは、法蔵菩薩の背中におんぶされ、師仏である世自在王のみもとで、
この子をを仏にします、この子を必ず仏にしますと、せつせつと訴えられて建立されたのが48願であるとの仰せであった。

よくお寺で門徒が称える「讃仏偈」には、
仮令身止 諸苦毒中
我行精進 忍終不悔
(たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ)
現代語:
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。

と、ある。
『無量寿経』に説かれる因位の阿弥陀如来は、初めっから林遊へ回向するために48願を建立されたのである。
生きる意味も目的も絶対の幸福も知らない林遊のために、お前の死の「帰」する処は浄土である、お前の「依」って立つところも浄土であると、生と死の帰依すべき真実というものを告げて下さる。

私の誓願に間違いがないと私が安心しているのだから、お前は不安なままでいいではないか。お前の不安なままが、私が建立した浄土へ迎え取るという誓願なのだと、『無量寿経』の教説は告げて下さる。
生きることに意味があるように、死ぬ事にも意味があるとの教説である。

林遊がしっかりしているから阿弥陀如来がしっかりするのではない。阿弥陀如来がしっかりしているから、不安におののき、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒煩悩の中で、なんまんだぶと阿弥陀如来のみ名を呼び、これさえあったらなあと不安の中で安心出来る世界があるのである。

私を背負うて本願となす。如来さまの仕事だ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

田んぼでへをこく

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いね

ひえ

ひえの穂

これは越前の方言であるが、田んぼで屁をこく(する)という意味ではない。
画像をUPしたが、田の雑草に稗(ヒエ)というものがある。
このヒエを訛って「へ」と言い、田んぼへ行って稗を扱(こ)く、(抜く)という意味で、田んぼでへをこくと言う。

さて、この稗であるが、稲と同じイネ科の植物であるから画像にあるように、苗の状態では百姓であっては見分け方が難しい。
しかし、成長して大きくなれば稗は独特の穂を付けるので、見分けることが素人でも可能になる。

閑話休題

『大無量寿経』には生因三願として、18、19、20の願がある。
この願の中で阿弥陀如来のご本意の願は18願であることは曇鸞大師の『往生論註』の三願的証を見るまでもなく、浄土真宗では当たり前の事実である。

しかるに、TS会では、18願に入る為には19願に誓われた菩提心を発して、もろもろの功徳(修諸功徳=善)を修さなければならないと説く。
親鸞聖人の顕わされた『教行証文類』は、18願の真のご法義を「教行信証」という体系で説かれ、邪と仮の宗教は「化身土文類」で表しておられる。

いわゆる、教→行→信→証と、真仏土への過程を阿弥陀如来の回向法として顕わしておられるのが18願の、阿弥陀如来の本意の御法義である。
「化身土文類」では仮の宗教を説くのであるが、この化身土文類では最初に、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
http://wikidharma.org/4b8e7059ea86f

と、最初に往生すべき果である化身土を出されている。

親鸞聖人が、何故このような果を先にする表現をなされたかといえば、結果を先に出すことによって、この化身土文類で説かれている19願20願の道を行くのではありませんよ、とのご注意である。

19願を修している人、20願を修している人には18願の全分他力の道は見えないのである。

[無量寿仏観経の意なり]
至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}
[阿弥陀経の意なり]
至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}、
http://wikidharma.org/4b8e79842b38d

と、標挙されて、19願(観経)、20願(阿弥陀経)は『大無量寿経』の教えではないとされている。
至心信楽の願  18願
至心発願の願  19願
至心回向の願  20願
と、三願の<信>を出されて、獲る結果を先に出されているのは、信は似ているようだが結果において違うのですよと、最初に往生すべき果である化身土を出されているのである。

これは、稗の話のように、因である信はよく似ているように見えるが、結果(稗の穂)を見れば違いが歴然とするのですよという、御開山の思し召しである。
化土という結果を先に出されて、この道は行くのではありませんよと仰るのが、「化身土文類」存置の理由なのだが、この仮の本願を利用して人集め金集めをする人間が現れるとは、親鸞聖人の想定外の事であろう。

仮とは、疑いによって如来の真意を領解出来ない人を、真実へ誘引するという意味も、もちろんあるのだが、所詮は偽物であるという事だ。この偽物の稲に似た稗を簡非(えらび捨てる)するのが、結果を先に示す化の浄土である「化身土文類」の説相である。

藤原正遠師のご法話

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親のこころ、子のこころ
 
私は親のこころを教えて貰い、また子のこころを教えてもらって、救済されました。
親はいつも私たちに詫びつづけていらっしゃるのです。次に親はいつも私たちに頼みつづけていられるのです。また親は、いつも私たちに力づけつづけておられるのです。では親は何を私たちに詫びつづけておられるか。親は私たちに申し訳ないとおっしゃるのです。
 
貪る心のおこるのも、腹の立つのも、愚痴の心のおこるのも無理はない。
みんな私に責任のある事だから相済まぬと、頭を低うして手をついて、あやまりつづけておられるのです。
蛇は青竹で子どもになぶり殺される。無始曠劫からそうである。老猫は首をしめられて川に流され、子猫は余り多く生まれると、野辺にすてられる。
生まれ出てやっと飛べるようになった蛙は、恐ろしい蛇ににらみつけられ、その先の割れたへらへらの舌に巻き込まれ、そのまま蛇の舌に溶けてゆく。
 
私が生み出したからこそ、こんな苦労をお前らにかけるのだ。本当にお侘びの仕様もないとおろおろになって、親は私たちに侘びつづけていられるのです。そうしてまた私たちにお頼みになっているのです。
しかし苦しかろう、やるせなかろう、しかしお前に与わった道を歩いてくれ。その道を歩いてくれないと、私の国がこわれてしまうのだとおっしゃるのです。
足の裏もひどかろう。いつも土だけ踏んで、しばらくも大空に向かって大気を呼吸するひまもない。地上から一足上がったかと思うと、また次には塵芥の土の上に、すでに足の面をすりつけられている。
 
しかし足の裏よ、お前はその大地を踏みつけてくれないと、私の国が毀れるとおっしゃるのです。
松の木よ、お前も動きたかろう。しかし雨の日も嵐の日も、そのままそこに何百年も立ってもらっていないと、私の国が毀れるとおっしゃるのである。
暗い夜。星もささやいてくれない夜、心細くて夜の明けるのがどんなに待ち遠しいことだろう。
しかしその暗さの中に、じっと辛抱してくれ、頼む、とおっしゃるのです。私だけではありません。有情非情、新羅万象に向かって、親は詫びつづけまた頼みつづけていられるのです。
 
そうして今度は私たちを力づけて下さるのです。それでいいのだ、あやまちでない。罪ではない。
みんな私が頼んでしてもらった仕事だから、一切気にしないでそのままやってくれ、そのまま誰が何といっても、すべて私の仕事をしてもらっているのだから、今日までのこともまた明日のことも、何が起ころうと明るく進んでもらいたい。気にせずに行ってもらいたいと力をつけて下さるのが、親のこころであります。
 
私は殺生罪を犯しました。偸盗をいたしました。まったく五戒の破れ通しです。戒どころか一切が悪、一切が非、極重悪人です。
いやいや、そうでない。みんな私の方に責任があることだ。
ほんとうにお前にそんなに心を痛めさせて申し訳ない。みんなそのままお前の一切、悪と思っていることが、私の仕事をしてくれているのだ。
 
罪をおかせば報いが必ずくる。その報いの中で、さぞかしひどかろうが、それも私の仕事だ。
どうかそのまま、その報いの中に歩いてくれとおっしゃるのです。
そうして最後に、さびしかったら私の名前、親の名前「南無阿弥陀仏」と呼んでくれと、お頼みになるのです。
 
南無阿弥陀仏の中に、いつも私はいる。
 
南無阿弥陀仏がお前の親のふところだから、いつも私のふところに帰ってきておくれ、そうして私のふところで泣いてくれ、私のふところの中で怒ってくれ、愚痴を言ってくれ、貪瞋痴のまん中で、三毒の煩悩のくるくる舞いのまん中で私の名を呼んでくれ。
私はいつもお前を両の手で迎える、抱いてあげるとおっしゃるのであります。
 
私の親は、まあ前述のような親様であります。私はこの親の告白をきかされて、白然に親から子のこころをいただいたのであります。「わかりました。」よく親様のおっしゃることがわかりました。私はあなたからいただいたお与えのままに歩かせてもらいます。その道が蛇の道であろうが、蛙の道であろうが、松の木であろうが、もう私は文句は申しませぬ。
お与えのまま歩かせてもらいます。この決意が私の子ごころの心であります。
しかしその決意はまことに立派であったが、しかし実際の生活にぶつかると、一歩も私は私で歩けないのです。
 
しかし幸いなるかな、行き詰まり、ころび、暗闇のところには、親様の方から私の口を割って「南無阿弥陀仏」と流れて下さいまして、そうして私を摂取して下さいます。
私の胸にほのぼのと、やわらかい光、あたたかい光を与えて下さいます。障りが多ければ多いほど、み親の慈光は、私を包んで体のしこりを溶かして下さいます。心の闇を明るくして下さいます。
私の称える念仏なら取りおとすかもしれませぬ。苦しまぎれに忘れるかもしれませぬ。親から廻向のお念仏です。暗いほど灯(ともしび)は明るくなるように、私は孤独になればなるほど、お念仏はしげくあらわれてくださいます。
 
病魔が襲えば襲うほど、清水のわくようにこんこんと大悲の浄水で、体も心も洗って下さいます。
愛欲の広海に沈没して、名利の太山に迷惑し、貪愛瞑憎の雲霧、つねに私の心を閉ざします。
一秒一刻もとどまりませぬ。それにつけても、大悲心の親ごころは、影に形の添うがごとくしばらくも離れられませぬ。
 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 
ほんとうに私は、この親さまのこころにふれて、三世の業障から一時に解放されました。また閉ざされるが、いつもご廻向の念仏によって解放していただきます。
私は全く救済されたと言わねばなりませぬ。また念々救済され通しと言わねばなりませぬ。また明日も、未来永劫に救済されることに間違いないと言わねばなりませぬ。いや、救済されるもされぬもありませぬ。親心に遇い、親が私であり、私が親である。
有限が即無限、無限が即有限である。ここまで知らされますところに、言うことはなくなります。
いや、言うことはなくなりませぬ。言うことだらけであります。苦悩の有情はさらに苦悩の深まるばかりです。だから南無阿弥陀仏の名号が与えられている。
 
障り多きに徳多し。
南無阿弥陀仏。
 
煩悩を断じて言うことがなくなったのでない。
「障り多きに徳多し」の妙薬に遇って、私は言うことがなくなったのであります。
 
「おやのこころこのこころ」藤原正遠師より

白道のこと

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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浄土門の門徒にとっておなじみの二河譬白道がある。善導大師の『観経疏』に説かれる火の河と水の河の間の細くて一筋の白い道を歩む念仏の行者の話である。
これは釈尊の発遣と阿弥陀如来の招喚を喩えた話であるが、この譬喩に全分他力の本願力の道と、雑行雑種の自らの善を回向しなければならない二種があると見られたのが法然聖人の醍醐本『三心料簡事』であった。
この書は大正6年に京都醍醐三宝院で発見された書である。

さて、『教行証文類』で引文されるこの譬喩を求道のプロセスとして説く善を奨める団体があるらしい。この団体の教祖は『観経疏』も『教行証文類』も読んだ事がないとネットで揶揄されているのだが、この教団からの脱会者が語る教義を仄聞するに三願転入というプロセスを説くとのことだ。
このプロセスを説くことは、ある意味で理解できるのであるが、この教団では「一切衆生 必落無間」と死後の恐怖を煽り、その恐怖から逃れる為に信心決定という絶対の幸福なるものの獲得を煽動するのである。その絶対の幸福という妄想を彼の教団では「善のすすめ」と称して金銭を集め、教団維持と教祖一族の栄耀栄華の資としている。本物を知らない人は偽物に騙されるのは古今東西にあることだが、「真仏土文類」の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、仮から真に入ると教えているに至っては噴飯物である。仮はどれだけ経っても仮である。

そのようなわけで、仮の白道の譬喩と真のご法義による譬喩の領解の違いを、『三心料簡事』を元に梯實圓和上のお示しに窺ってみる。

回向発願心釈

第一釈

「三には回向発願心」と。 「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。(化巻で引文)

第二釈

また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。 この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。 ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進み、かの人の語を聞きて、すなはち進退あり、心に怯弱を生ずることを得ざれ。 回顧すれば道より落ちて、すなはち往生の大益を失するなり。(信巻で回向の主体を如来として引文)

{中略}

二河白道譬喩

二河白道

また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。
何者かこれなるや。 たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するがごとし。 忽然として中路に二の河あるを見る。 一にはこれ火の河、南にあり。 二にはこれ水の河、北にあり。 二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし。 南北辺なし。
まさしく水火の中間に一の白道あり。 闊さ四五寸ばかりなるべし。 この道東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿し、その火炎また来りて道を焼く。 水火あひ交はりて、つねにして休息することなし。 この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。 多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。 この人死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言す。
「この河は南北に辺畔を見ず。 中間に一の白道を見るも、きはめてこれ狭小なり。 二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。 今日さだめて死すること疑はず。 まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。 まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。 まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せん」と。 時に当りて惶怖することまたいふべからず。
すなはちみづから思念す。 「われいま回らばまた死せん。 住まらばまた死せん。 去かばまた死せん。 一種として死を勉れずは、われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去かん。 すでにこの道あり。 かならず度るべし」と。
この念をなす時、東の岸にたちまち人の勧むる声を聞く。
「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん」と。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。
この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。
あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。 この道嶮悪にして過ぐることを得ず。 かならず死すること疑はず。 われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。 一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。 善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。 これはこれ喩へなり。

「合喩」
次に喩へを合せば、「東の岸」といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。
「西の岸」といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。 「群賊・悪獣詐り親しむ」といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。 「無人空迥の沢」といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。 「水火二河」といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとく、瞋憎は火のごとくなるに喩ふ。

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。 すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。 善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。 また「水波つねに道を湿す」といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。
また「火炎つねに道を焼く」といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。 「人道の上を行きてただちに西に向かふ」といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

「東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む」といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。 すなはちこれを声のごとしと喩ふ。
「あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚ばひ回す」といふは、すなはち別解・別行・悪見人等妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。 「須臾に西の岸に到りて善友あひ見えて喜ぶ」といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。
仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。
http://wikidharma.org/4b9b14cfc63c0


醍醐本『法然上人伝記』三心料簡事に「白道事」という一節がある。

白道事、雑行中願往生心、白道 為貪瞋水火披損、以何得知、釈云 廻諸行業直向西方也云云。諸行往生願生心白道聞。次専修正行願生心名願力道、以何得知、仰蒙釈迦発遺指南(向?)、西方、又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不願水火二河、念々無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国文、已下文是也。
正行者、乗願力道故、念不貪瞋水火損害、是以譬喩中云、西岸上有人喚言、汝一心正念直来、我能護汝、衆不畏堕於水火難云云。合喩中云、言西岸上有人喚者、即喩弥陀願意也云云。専修正行人不可恐貪瞋煩悩也。乗本願力白道、豈容被損火焔水波哉云云。

読下(林遊):
白道の事、雑行の中の願往生心は、白道なれども貪瞋水火のために損(ソコナイ)を披る。
何を以って知ることを得る。釈に「諸(モロモロ)の行業を回(向)して直ちに西方へ向かう」と釈すなりと云々。諸行往生の願生の心の白道と聞きたり。
次に専修正行の願生心のことをば願力の道と名づく。何を以って知ることを得る。
「仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得」已下(以下)の文是なり。
正行の者は願力の道に乗ずるゆえに、貪瞋水火の損ずる害を受けず。是を以って譬喩の中に云う。
西岸の上に人ありて喚ばひて言はく、汝一心正念にしてただちに来れ。 我能く汝を護らん。 衆(スベテ)水火の難に堕することを畏れざれと云々。
合喩の中に云く、西岸上に人有りて喚ひて言くとは、すなわち弥陀の願意に喩う也と云々。
専修正行の人は貪瞋煩悩を恐るべからず也。本願力の白道に乗ぜり。
豈に(ドウシテ)火焔水波に損ぜられべけんやと云々

これによれば、法然は『観経疏』の廻向発願心釈に、雑行と組みあった諸行往生の願生心と、専修正行の願生心とが釈されているとみられていたことがわかる。すなわち二河譬のなかに白道を合法して「喩衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心也」(衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふなり)といわれているが、この白道たる願生心のなかに、貪瞋水火のために損ぜられるものと、損ぜられないものとがある。

疏に「水波常湿道者、即喩愛心常起能染汚善心也、又火焔常焼道者、即喩瞋嫌之心能焼功徳之法財也」(水波つねに道を湿すといふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また火炎つねに道を焼くといふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふなりなり)といわれたものが前者である。この善心、功徳の法財を廻向して浄土に往生しようと願うことを、以下に「喩廻諸行業直向西方也」(もろもろの行業を廻してただちに西方に向かふに喩ふなり)といわれたのであって、これは、諸行往生の願生心をあらわしたものである。そしてこれは明らかに前述の廻向発願心の第一釈の善根廻向の願生心と対応しているといえよう。

次に疏に「仰蒙釈迦発遺指向西方、又藉弥陀悲心招喚、今信順二尊之意、不願水火二河念々無遺、乗彼願力之道、捨命已後得生彼国」(仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得)といわれたものは、後者、すなわち専修正行の願生心をあらわしている。

ここでは白道を彼願力之道といわれている。すなわち願力の道が、清浄願往生心であるようなものが専修正行、すなわち本願念仏の願生心なのである。けだし釈尊の発遺と、「汝一心正念直来、我能護汝、衆不畏堕於水火之難」(なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ)という本願の招喚に信順して、本願力の白道に乗じて願生するものは、如来の本願が、行者の願往生心となっていくいわれがあるのである。

衆生の貪瞋煩悩中に、煩悩に汚されざる清浄なる願往生心が生じたといい、火焔にも水波にも損われざる白道であるといわれる所以である。それゆえ専修正行の人は、貪瞋煩悩を恐れることがないといわれるのである。

このようにみていけば、諸行往生の願生心は破損するが、専修正行の願往生心は破損することなく金剛堅固であるといわねばならない。疏の廻願心の第二釈において作得生想の願生心を「此心深信由若金剛、不為一切異見異学別解別行人等之所動乱破壊」(この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず)といわれたのも、この心が、如来の本願を体としているものだからである。

親鸞が第二釈の文を「又廻向発願(願)生者、必須決定真実心中廻向願、作得生想」(また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ)と訓読し、如来廻向の願生心とみられたのも、法然のこの釈意を展開されたものといえよう。
『法然教学の研究』(梯實圓)P.304~


ここから本文
二河白道の譬喩は、『観経疏』回向発願心釈にある有名な譬喩である。

この回向発願心は二重構造をしていると見られたのが法然聖人と親鸞聖人であった。

回向発願心釈の第一釈では、過去現在のあらゆる善根を回向せよとある。
そして、その所修の善根をを、ことごとくみな真実の深信の心中に回向することで浄土へ生まれると願えとある。

第二釈には、決定真実心をもって回向し、「作得生想」(得生の想をなすべし)とあり、この金剛のような信を持つことによって、他力の教えと異なる人たちによって信心が乱されることはないとある。

この回向する決定真実心を阿弥陀如来の真実の心と解し、如来より回向される真実の心をもちいて往生できると思えという意味に取られたのが親鸞聖人であった。
ゆえに、回向しなければならない善を説く回向発願心釈の第一釈は『教行証文類』の真実の信を顕す「信巻」では引文されておられない。浄土真宗は行者からは不回向の法であるからである。

そして、第二釈の漢字の訓点を、「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須(もち)ゐて得生の想をなせ。」と、阿弥陀如来から回向された真実心をもちいるとされている。
須という漢字を「すべからく~すべし」と読まずに、必須と熟されるように「須いる」と読まれたのである。

このように引文されたことから窺えることは、親鸞聖人は三心料簡事の「白道事」にあるように、白道の譬喩には自力の諸行と弘願他力の二種類の法門が説かれていると領解されたからであろう。
ゆえに、火焔や水波に破壊される自力諸行の回向発願心を顕わす第一釈は、真実を表す「信巻」ではなく、「化身土巻」で引文されておられるのである。

このことは『二巻鈔』の、

「白道四五寸」といふは、
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。
二巻鈔

で、白道中に、「六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり」があると示されていることから窺えるのである。

なお、釈尊の発遣を順とされ阿弥陀如来の招喚を信とされ、これを「信順」とされていることは、『二巻鈔』の

【83】 「仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、順なり。「また弥陀の悲心招喚したまふによる」といふは、信なり。「いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。
二巻鈔

から判る。このことから、

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

という「清浄の願往生心」は、「かの願力の道に乗」じた願生心であって、火焔にも水波にも損われない信順であるといわれるのである。これが「衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。」といわれる、本願力に信順する願往生の信心である。
このように「かの願力の道」の本願力が行者に届いている姿が願往生心の信心であるから、信心の体は本願力なのである。
それゆえ正行のなんまんだぶの行者は、貪瞋煩悩を恐れることがないといわれるのである。

それを端的に『一念多念証文』で、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
[一念多念証文]

と、述べておられるのがそれである。

二河譬の白道を、まるで求道のプロセスであるかのように説く人がいるが、『教行証文類』で説かれる白道の譬喩は本願力回向を顕わしているのであって、求道のプロセスを顕わしているのではないことが、これでよく判るであろう。
真実の求道は因位の阿弥陀如来がなされたのであって、末世の愚劣な凡夫が口にするような言葉ではないのである。

18願の教えさえ説いておれば良いのです。

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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なんのこっちゃという事で、ちょっと書いておく。

> 結論からいえば、仏教は「対機説法」ですから、誰に対しても同じように18願の教えさえ説いておれば良いという考えは間違いです。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-355.html

これは仏の説法について語っているのか清森氏自身について言っているのか不明だが、ご当流は「18願の教えさえ説いておれば良い」のである。
浄土真宗の「真」とは仮に対し偽に対する言葉であることが分からないから、上記のような発想になるのであろうか。
それとも自らが仏と同じように「対機説法」が出来ると思いあがっているのであろうか。

『正信念仏偈』に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。)とあるように、本願を以って宗と為(本願為宗)すのが浄土真宗である。そして、その体は名号である(名号為体)。「教文類」
http://wikidharma.org/4abd9e917a5df

『正信念仏偈』の「唯説弥陀本願海」とは、阿弥陀仏の四十八願海のことであり、別しては生因三願のことである。究極的には十八願のご法義の事である。
さて、生因三願とは、十八願・十九願・二十願をいうが、その願海に真・仮があると親鸞聖人は言われる。

「真仮対弁」
「しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。{中略}すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」
http://wikidharma.org/4aeed4d670688
真実の教・行・信・証を説かれ、その淵源である真仏土巻の末尾で、願海に真・仮ありと対弁されておられる。
そして、「化身土」を説くのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」ることがないよう「仮の仏土とは、下にありて知るべし」と化身土を顕わす理由を述べておられる。

真とは真実のことで、真実は、偽と仮に対しているといわれる。
「真仏弟子釈」
「真の言は偽に対し仮に対するなり」
http://wikidharma.org/4b7b6f3fcbcaf
ただ単に「真実」を真実とするのではなく、真実とは、偽と仮に対しているから真実ということが言えるのだとされる。

「仮」とは方便という意味であり、第十九願・第二十願がそれである。
ここでの方便は善巧方便ではなく、権仮方便であって簡非(真仮廃立)するものである。

『浄土和讃』
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
http://wikidharma.org/4ad5c0bab8f33

「仮門」とは、
『愚禿鈔』に依れば、
「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。 」
http://wikidharma.org/4b90b7e2ca00b
阿弥陀如来の選択本願(十八願)以外の、浄土門の教(十九願・二十願)は浄土「回向」「発願」自力方便であり、仮門であるとされる。(回向は二十願の至心回向、発願は十九願の至心発願のこと)
なお、この「選択本願」という標挙は「大信釈」、
「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。」
http://wikidharma.org/4b90be0cb120a
にあり、第十八願のことであるのは言うまでもない。

「権実真仮」とは、
『六要鈔』には、「真実というは、これ仮権に対す」とある。
権は実に対し、真は仮に対する語であるから、仮と権は真実の反対という言葉である。
権←→実・真←→仮のように相反する概念なのである。
つまり、権を廃して実を取り、仮を棄てて真を選び、第十八願だけが真であり実ということである。

浄土真宗のご法義を聴く人は教学や論理を聞きたいのではなく、自らが救われる<真実の法>を聞きたいのである。
救いの法が自己に先行して、名号法として届けられており、それを受け入れ称えることが「念仏成仏これ真宗」という阿弥陀如来の第十八願の真実のご法義である。

これ以外の何を説き、何を「対機説法」として語ろうとしているのか。
謎である(笑

この記事のみ反論用にTBのみ受け付けておこう。

二双四重の教判

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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二双四重

仏教にはすべからく「教相判釈」といって、経典をその形式・内容などによって分類・体系化し、価値を判定して仏の究極の教えがどれであるかを解釈することが最重要である。「教相判釈」がなければ、何を信じ何を行ずるかが解からないからである。

親鸞聖人には別掲の「二双四重」の教判がある。全仏教を竪と横に分け、それぞれに出(権教)と超(実教)を組み合わせた教判である。
竪の聖道門に成仏の遅速に応じて漸教と頓教を分けられ、竪出、竪超とされる。

横の浄土門も、漸次に修行して長時間の後に仏果を得る自力の漸教と、すみやかに仏果を得る他力の頓教に分類し、横出、横超とし、二双四重の判釈をされたのである。

この二双四重の教判は、諸所で説いておられる。

「信巻末」横超釈

【73】 横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b

「化身土巻」三経通顕(真仮分判)

【35】 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
http://wikidharma.org/4b936885c5865

信巻本」菩提心釈(菩提心=信)

【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
http://wikidharma.org/4b93a105abf98

愚禿鈔(上)

聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、      二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
一には頓教、        二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
http://wikidharma.org/4b93a35c8a81a

「行文類」一乗釈では、

大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
http://wikidharma.org/4b9399ba7bf3a

と、横超・弘願・頓教・実教である第十八願の誓願一仏乗こそが真実の仏道であるとされるのである。
しかるに、TS会では、歴劫迂回の要門・漸教(権教)の辺地・懈慢の往生を会員に勧めている。
これは、会長が『教行証文類』を読んだことがなく、他者の解説書か何かを剽窃して利己心から「教相判釈」をしているのであろうか。

親鸞聖人が畢生の力を込めて顕わされた「二双四重」の教判を歪め、利己心から勝手に教判をし悪用して会員を騙し、あまつさえ会員に真実の浄土真宗の教えである第十八願への道を遮蔽して来たのであれば、その罪は重いと言わざるを得ない。

また、昨今TS会の歪んだ教義解釈に対する批判が行われているにも関わらず、脱会せずに歪(いびつ)な教えを説く事に協力している人々も同罪であるといえよう。

外典の「論語」にも、過(あやま)ちて改めざる是(これ)を過ちという、とある。
過ちは誰でも犯しやすいものだが、過ちを過ちと知っていながら悔い改めないならば、まさに本当の過ちを犯しているのである。