「おのおのの十余箇国のさかひをこえて」で、始る歎異抄二条では不思議な言葉使いがされている。
「身命をかへりみずして」と命懸けではるばる訪ねてきた関東の門弟に、まずいろいろな門弟の問いを整理をされ、結局あなたたちは「往生極楽のみちを問」いにいらしたのですね、とキチンと問いを限定されるところから始る。
以下、その歎異抄の解釈を『歎異抄』梯實圓著によって窺ってみる。
>>引用開始
■「人間の常識を超える」
『歎異抄』には、切れ味のいい逆説的な表現がしばしば使われています。第二条でいえば、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。*
と念仏の信を表明されたあと、一転して、
念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
といわれていますが、これが親鸞聖人の念仏の信をあらわすぎりぎりのことばだったのでしょう。
こういう逆説でしかあらわせないところに、人間の常識をこえた念仏の世界の超常性があるのだというべきかもしれません。
「念仏はまことに浄土に生まれるたねである」というのが、『大無量寿経』にはじまり、法然聖人にいたるまでの、二千余年にわたる仏祖の教説でした。そして、この仏祖の説かれたみことばこそ、一点の虚偽もまじわらない真実であると、信じきっておられるのが親鸞聖人でした。虚偽は人間の側にある、ただ虚妄なき仏語に信順して、わが身の往生を一定と思い定めよ、とつねづね聖人も仰せられていました。
それゆえ、異端邪説に惑わされて、歩むべき道を見失った関東の門弟たちは、「念仏すれば必ず浄土に生まれることができる、決して地獄におちることはない」という、確信にあふれた聖人の証言を期待してたずねてきたにちがいありません。
しかし、その期待にひそむ危険性を、だれよりも聖人はよく知っておられたのでした。
人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたまう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人間の論難によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。
人のまどわしを受けない信は、ただ仏語によってのみ確立するのです。また、救いの証言を行う人は、しらずしらずのうちに、自己を救済者の側に置く傲慢の罪をおかすことになりましょう。
■「愚にかえる」
法然聖人は、つねに「浄土宗の人は愚者になりて往生す」(『註釈版聖典』七七一頁)と仰せられていたと、親鸞聖人は記されています。
ここでいわれる愚者とは、教法の是非をみきわめる能力もなく、善悪のけじめを知りとおす判断力ももたず、まして生死を超える道の真偽をみきわめるような智力などかけらほどもない、どうしようもないものということです。
親鸞聖人は、つねに、
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。
とか、
是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり*
といい、自身を「愚禿」と名のっていかれたのでした。
私はものごとの是非の判断もつかず、邪と正の見きわめもできない愚かものです。小さな慈悲の心さえ起こしきれず、自分の家族さえ救い切れない無力なものであるくせに、名誉欲・財欲といった欲望だけは強くて、指導者面をしたがる恥ずかしい自分であるというのです。こんな言葉で自己を語った宗教者はほかに例をみません。
「法然聖人の教えにしたがって専修念仏を信じるものは、地獄におちるといいおどす人がいますが、ほんとうに念仏すれば極楽へ往生できるのでしょうか」と問いかけられたとき、聖人は「念仏が、ほんとうに浄土に生まれる因(たね)であるのか、それとも地獄におちる業(因)であるのか、私はまったく知りません。それをたしかめる能力も知力も本来備えていないのがこの私です。
こんな愚かな親鸞のために、如来は本願をたて、我にまかせて念仏せよと、仰せられているとうけたまわり、その慈愛あふれる仰せに身をゆだねて念仏しているばかりです」といわずにおれなかったのです。
聖典セミナー『歎異抄』梯實圓P.91~
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さて、ここで、
弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。
と、「おはしまさば」と仮定法で語られている。
一部では、この仮定法を断定であると主張する人がいるようだが、文法的にも合わないし宗祖のお心を知らない解釈である。
梯實圓和上の「歎異抄二条」の法話によれば、人師(善知識)の証言を求めに来られた関東の門弟に、人(善知識)の言葉に従うのではない、如来の仰せに従うのである事を示す為の仮定法である。
親鸞聖人の証言を頼りとし、その言葉を指針とし生きがいとして生きて行こうと思っている門弟に、親鸞聖人は人(善知識)の言葉に従う危険性を示されたのである。
親鸞会HP http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic05.htm
仮定法を断定であると主張する人は、以下のように言いたいのであろう。
<弥陀の本願まことであり、釈尊の説教虚言ではない。仏説まことであり、善導の御釈虚言にあらず。善導の御釈まことであるから、法然の仰せも真実である。法然の仰せまことであるから、親鸞が申すむね、絶対に間違いがないのである。>、と。
そして、それを告げる私(善知識)もまた間違いのない大導師であると、自らが善知識として他者に君臨したいのであろう。
しかし、これでは人師(善知識)の言葉によって、往生極楽の道が証明される事になってしまう。
臨済録には莫受人惑(人惑を受けず)とある。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって生き方を右往左往する事を戒めた語である。
そのような善知識頼みの危険性を避けるために、親鸞聖人は、あえて断定を避け仮定法の「おはしまさば」を用いられたのである。
同書からもう一度引用する。
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人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたまう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人間の論難によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。
人のまどわしを受けない信は、ただ仏語によってのみ確立するのです。また、救いの証言を行う人は、しらずしらずのうちに、自己を救済者の側に置く傲慢の罪をおかすことになりましょう。
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仮定法を文法を無視してまで無理やり断定と言換える人は、自己を絶対の善知識であるとし、救いの証言者としての立場に立とうとするのであろうか。まさに恐るべし恐るべしである。
「歎異抄二条」の法話」url
http://blog.wikidharma.org/blogs/%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E6%B3%95%E8%A9%B1/