ケムンパス

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こどもの頃に聞いたはなし。

いわゆる、竪出、横出、横超のご法話。

ちなみに親鸞聖人は、
真実信心の人は仏に成る直前の五十一段にいらっしゃる弥勒菩薩と同じだと仰います。

竪出
けむべーす

ある朝目が覚めたら、なんとケムンパスは、竹の節の中にいました。
不条理ですね。

外から「出してあげるからあなたはそのまま動かないで」という声が聴こえます。

自信家のケムンパスは、
ふん、何言ってるんだい、俺様をなめるな。
人の世話にはなりたかないやい。

たしかに竹の横側は硬くて俺さまでも歯が立たないけど、幸い天井は柔らかいじゃないか。

けむべーす

一段ずつ食い破っていけば、たとえ52段あってもへっちゃらだい。

こうしてケムンパスは一段また一段と竹の内側の柔らかい壁を食い破っていきましたとさ。

横出
けむべーす

ある朝目が覚めたら、なんとケムンパスは、竹の節の中にいました。
不条理ですね。
外から「出してあげるからあなたはそのまま動かないで」という声が聴こえます。
疑い深いケムンパスは、でも、そんなうまい話は信じられないよ、と思いました。
けむべーす

困ったなあと思ったケムンパスは、そうだ困ったときはお念仏をすればいいんだ。
こうして懸命にお念仏を称えていると、なんと固い竹の横に少しずつ穴があいていきます。
けむべーす

やったぞと、ケムンパスは1日、2日、3日~と、一心不乱にお念仏を称えました。

やがて7日目に竹の横っ腹に穴が空いて、ケムンパスはその穴から外へ出ることができましたとさ。

横超
けむべーす

ある朝目が覚めたら、なんとケムンパスは、竹の節の中にいました。
不条理ですね。

外から「出してあげるからあなたはそのまま動かないで」という声が聞こえます。

素直なケムンパスは、
そうか、僕をここから出してくれるって言うんだから、素直に信じてみようと思いました。

けむべーす

するとその時、なんと竹が横に真っ二つにされました。

やったぁと、うれしくて、おもわず、なんまんだぶっと叫んでケムンパスは飛び上がりました。

けむべーす

すると、どうでしょう。
52段もある竹の節の、51段目の高さにケムンパスは、いるではありませんか。

こうして、素直なケムンパスは、なんまんだぶを称えながら暮らしていきましたとさ。

歎異抄の仮定法

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「おのおのの十余箇国のさかひをこえて」で、始る歎異抄二条では不思議な言葉使いがされている。
「身命をかへりみずして」と命懸けではるばる訪ねてきた関東の門弟に、まずいろいろな門弟の問いを整理をされ、結局あなたたちは「往生極楽のみちを問」いにいらしたのですね、とキチンと問いを限定されるところから始る。

以下、その歎異抄の解釈を『歎異抄』梯實圓著によって窺ってみる。

>>引用開始

■「人間の常識を超える」

『歎異抄』には、切れ味のいい逆説的な表現がしばしば使われています。第二条でいえば、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。*

と念仏の信を表明されたあと、一転して、

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。

といわれていますが、これが親鸞聖人の念仏の信をあらわすぎりぎりのことばだったのでしょう。
こういう逆説でしかあらわせないところに、人間の常識をこえた念仏の世界の超常性があるのだというべきかもしれません。

「念仏はまことに浄土に生まれるたねである」というのが、『大無量寿経』にはじまり、法然聖人にいたるまでの、二千余年にわたる仏祖の教説でした。そして、この仏祖の説かれたみことばこそ、一点の虚偽もまじわらない真実であると、信じきっておられるのが親鸞聖人でした。虚偽は人間の側にある、ただ虚妄なき仏語に信順して、わが身の往生を一定と思い定めよ、とつねづね聖人も仰せられていました。

それゆえ、異端邪説に惑わされて、歩むべき道を見失った関東の門弟たちは、「念仏すれば必ず浄土に生まれることができる、決して地獄におちることはない」という、確信にあふれた聖人の証言を期待してたずねてきたにちがいありません。

しかし、その期待にひそむ危険性を、だれよりも聖人はよく知っておられたのでした。

人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたまう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人間の論難によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。

人のまどわしを受けない信は、ただ仏語によってのみ確立するのです。また、救いの証言を行う人は、しらずしらずのうちに、自己を救済者の側に置く傲慢の罪をおかすことになりましょう。

■「愚にかえる」

法然聖人は、つねに「浄土宗の人は愚者になりて往生す」(『註釈版聖典』七七一頁)と仰せられていたと、親鸞聖人は記されています。
ここでいわれる愚者とは、教法の是非をみきわめる能力もなく、善悪のけじめを知りとおす判断力ももたず、まして生死を超える道の真偽をみきわめるような智力などかけらほどもない、どうしようもないものということです。

親鸞聖人は、つねに、

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり

とか、

是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり*

といい、自身を「愚禿」と名のっていかれたのでした。

私はものごとの是非の判断もつかず、邪と正の見きわめもできない愚かものです。小さな慈悲の心さえ起こしきれず、自分の家族さえ救い切れない無力なものであるくせに、名誉欲・財欲といった欲望だけは強くて、指導者面をしたがる恥ずかしい自分であるというのです。こんな言葉で自己を語った宗教者はほかに例をみません。

「法然聖人の教えにしたがって専修念仏を信じるものは、地獄におちるといいおどす人がいますが、ほんとうに念仏すれば極楽へ往生できるのでしょうか」と問いかけられたとき、聖人は「念仏が、ほんとうに浄土に生まれる因(たね)であるのか、それとも地獄におちる業(因)であるのか、私はまったく知りません。それをたしかめる能力も知力も本来備えていないのがこの私です。
こんな愚かな親鸞のために、如来は本願をたて、我にまかせて念仏せよと、仰せられているとうけたまわり、その慈愛あふれる仰せに身をゆだねて念仏しているばかりです」といわずにおれなかったのです。

聖典セミナー『歎異抄』梯實圓P.91~
>>

さて、ここで、

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

と、「おはしまさば」と仮定法で語られている。
一部では、この仮定法を断定であると主張する人がいるようだが、文法的にも合わないし宗祖のお心を知らない解釈である。

梯實圓和上の「歎異抄二条」の法話によれば、人師(善知識)の証言を求めに来られた関東の門弟に、人(善知識)の言葉に従うのではない、如来の仰せに従うのである事を示す為の仮定法である。
親鸞聖人の証言を頼りとし、その言葉を指針とし生きがいとして生きて行こうと思っている門弟に、親鸞聖人は人(善知識)の言葉に従う危険性を示されたのである。

親鸞会HP http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic05.htm
仮定法を断定であると主張する人は、以下のように言いたいのであろう。

<弥陀の本願まことであり、釈尊の説教虚言ではない。仏説まことであり、善導の御釈虚言にあらず。善導の御釈まことであるから、法然の仰せも真実である。法然の仰せまことであるから、親鸞が申すむね、絶対に間違いがないのである。>、と。

そして、それを告げる私(善知識)もまた間違いのない大導師であると、自らが善知識として他者に君臨したいのであろう。
しかし、これでは人師(善知識)の言葉によって、往生極楽の道が証明される事になってしまう。

臨済録には莫受人惑(人惑を受けず)とある。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって生き方を右往左往する事を戒めた語である。

そのような善知識頼みの危険性を避けるために、親鸞聖人は、あえて断定を避け仮定法の「おはしまさば」を用いられたのである。

同書からもう一度引用する。
>>

人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたまう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人間の論難によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。
人のまどわしを受けない信は、ただ仏語によってのみ確立するのです。また、救いの証言を行う人は、しらずしらずのうちに、自己を救済者の側に置く傲慢の罪をおかすことになりましょう。

>>

仮定法を文法を無視してまで無理やり断定と言換える人は、自己を絶対の善知識であるとし、救いの証言者としての立場に立とうとするのであろうか。まさに恐るべし恐るべしである。

「歎異抄二条」の法話」url
http://blog.wikidharma.org/blogs/%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E6%B3%95%E8%A9%B1/

お浄土があってよかったね

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現代社会のこのような巨大な世俗化の出来事は、またそれ自身本質的には宗教的な性質をもっているのである。
人々がいろいろな擬似超越というものへ走るのも、超越という宗教的要求が、いつの世にも人間の心にあるという事実を物語っていると言えるだろう。

日本仏教の諸宗派のなかでは浄土真宗が、そういう世俗化の流れと今日でも闘っている珍しい例だとおもわれるが、その浄土真宗の現場においてさえ門信徒との法座の中で、
「<死にたくない>と繰り返す病人の前で、お念仏申せと言えなかった。言った方がよかったか」というような僧侶の意見があったことが報告されている(浄土真宗本願寺派『宗報』平成八年九月号)。
これが今日の浄土真宗の現場の正直な状況であるかもしれない。
しかし、これに対して浄土真宗が現代社会の中で実践されている極めて貴重な記録の一つとして、ある臨床医が書いたつぎのような文章がある。筆者は宮崎病院副院長の宮崎幸枝医師である。

●平成八年十二月十三日

病棟に入る。主任より報告を受け、真っ先にTさんのいる重症室へ。担当のAナースか「待っていました。早く指示を下さい」という目で私を見る。
耳介のチアノーゼだけが遠目にも鮮烈に視野に飛び込んでくる。Aさんが脈拍、呼吸、血圧、尿量と諳んじて言う数値はいずれも末期的な数ばかり。点滴へ、側管へと数種類を指示。

胃ガン摘出後四年を経てこの度肺へ転移。長いおつき合いのTさん。八四歳女性。
数日前のこと
「こんどは治らないかもしれないね」というと
「そう?」
と、か細いが、はっきりした声。そして
「やっぱり…」
という淋しげな表情。
「Tさん。たとえTさんがいま命終わったとしてもね、Tさんはこれでおしまいじゃないのよね。ビハーラで聞いたお話…」と仏様のお慈悲のお話をした。まだ症状は軽くゆっくりお話ができた。

今日、容態は一変した。厳しくせっぱつまった状況である。眉間の深い縦じわが苦痛を示し、不安そうな目を向ける。
「どこが苦しいですか?」
「ゼンブ!」
「何が一番不安ですか?」
「ゼンブ!」
聞くと即座にはね返すような返事。

先日の仏様のお話の続きが自然と私の口を動かしてはじまった。
「Tさん、お念仏はね。仏様が<私を頼りにしておくれ。必ずお浄土にあなたを迎えてお悟りの仏様にするよ>という仏様のお声なのよ。
お浄土があるよ。仏様と一緒にいるのだよって、今、仏様はTさんをだっこしてくださっているのよ。心配ないのよ」
「ウン」
「お浄土があってよかったね。私もTさんのあとから必ず往くからね。お念仏しましょう」

この時突然、Tさんの眉間のしわが消えた。そして満面の笑みがあらわれた。「ナマンダブツ」と称名。
「センセ、アリガトー」と言われる。よかった…と、その時傍らでびっくりすることが起こった。
今までベッドをはさんで向かい側Tさんの足許近くで聞いていたナースのAさんが突然大きい声で「Tさんよかったね」とTさんに近寄り言った。その目には涙が光っていた。彼女の感動が私にも伝わり、胸が熱くなる。

人間の、科学の限界である。三人三様の無力感の中に、知らず知らずのうちに仏語に頭が下がっていたのだろう。仏様の大きなお慈悲の前に、三人は裸のいのち三つをそこに並べていた。
『ようこそ』第9号、医療法人精光会宮崎病院、平成九年五月発行)
『蓮如のラディカリズム』大嶺顕著P45~


阿弥陀経には「倶会一処」とあるが、また倶(とも)に会える世界を持てるのはありがたいこっちゃな。
宮崎先生とは大昔に温泉津での深川和上の法話会の懇親会で一杯呑んだ事があったが、ありがたいお医者さんだな。

なんまんだだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ…

法然聖人の回心

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されば出離の志しいたりてふかかりしあひだ、もろもろの教法を信じて、もろもろの行業を修す。
およそ佛数おほしといへども、詮ずるところ戒定恵の三學をばすぎず。
いはゆる小乗の戒定恵、大乗の戒定恵、頓教の戒定恵、密数の戒定恵なり。
しかるにわがこの身は、戒行において一戒をもたもたず、禅定に於いて一もこれをえず、智恵に於いて断惑證果の正智をえず・・かなしきかなかなしきかな。いかがせんいかがせん。

ここにわがごときは、すでに戒定悪の三學のうつはものにあらず。この三學の外にわが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめもろもろの學者にとぶらひしに、をしゆる人もなく、しめすともがらもなし。

しかるあひだなげきなげき経蔵に入り、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづからみづからひらきてみしに、善導の『観経の疏』にいはく
「一心に専ら弥陀名号を念じ、行住座臥時節の久近を問はず、念々に捨てざる、是れを正定の業となづく、かの仏の願に順ずるが故に」
といふ文を見えて後、われらがごとき無知の身は、ひとへに此の文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念々不捨の称名を修して決定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかくたましいにそみ、心にとどめたる也 (和語灯録)

なんまんだぶは、かの仏願に順ずるが故なんだよなあ。
法然聖人は、めちゃくちゃうれしかっただろうな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ…

弥陀をたのむとは、向きをかえるなり

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一蓮院秀存につかえていた広部信次郎が、つぎのような逸話をつたえております。
あるとき四、五人の同行が、一蓮院の役宅をたずねてきて、御本山に参詣した思い出に、浄土真宗のかなめをお聞かせいただきたいとお願いしたとき、一蓮院は、一同に、

「浄土真宗のかなめとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」
といわれました。すると一人の同行が、

「それでは、このまんまでおたすけでござりまするか」
と念をおすと、師は、かぶりをふって、

「ちがう」
みなは驚いて、しばらく沈黙していましたが、また一人が顔をあげて、

「このまんまのおたすけでござりまするか」
とたずねました。しかし師は、またかぶりをふって、

「ちがう」
といったきり、お念仏をされます。皆はもうどう受けとっていいかわからなくなって、お互いに顔を見合わせていましたが、また一人が、

「おそれいりますが、もう一度お聞かせくださいませ.どうにも私どもにはわかりませぬ」
というと、師はまた一同に対して静かに、

「浄土真宗のおいわれとは、ほかでもない、そのままのおたすけぞ」

それを聞くなり、その人は、はっと頭をさげて、

「ありがとうござります。もったいのうござります」
といいながらお念仏いたしますと、一蓮院は、非常によろこばれて、

「お互いに、尊い御法縁にあわせてもらいましたのう。またお浄土であいましょうぞ」
といわれたそうです。

浄土真宗の法義を聞くというのは、ただ話を聞いて理解すればいいというものではありません。また、法話に感激して涙をながせばいいというものでもありません。
煩悩にまみれた日暮しのなかに、ただようている私に向って「そのままを助けるぞ」とおおせくださるみことばを、はからいなくうけいれて「私がおたすけにあずかる」と聞きひらかねば所詮がないのです。私のたすかることを聞くのが聴聞なのです。

梯實圓和上「妙好人のことば━わかりやすい名言名句」より。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

あるブログへの投稿 2(お節介だなあ)

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救いというものを勘違いなさってるのじゃないかな。
ひょっとして、仏教の救済を金魚掬いの金魚のように思っているから解からなくなる。
 
仏教の目的は成仏であって、浄土真宗で救済という意味は悟りを得て目覚めたブッダになるという事意外にはないです。
救済の済は斉(等しい)と言う意味であってブッダと等しい者にする/なるという事が救済という言葉の意味でしょう。
 
そして、その悟りが開覚するのは往生後(死んでから)である、というのが浄土を真実とする宗教なんだね。
今現在に、迷いを超えたブッダになる事が<確定していること>を真宗では救いと呼ぶわけだ。
決してある日突然私の身の上に奇跡が起きたり異常な体験をする事ではないんだ。
 
一時、自分探しという事が流行ったけど、真宗では自分を探して下さっていたのは阿弥陀様なんだね。
曠劫以来、阿弥陀様から<汝>と呼びかけられていた事に気付くのが信でしょ。
自分探しで言えば<汝としての自己の発見>が浄土真宗の信です。
 
二河白道で言えば、
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉
現代語:
また、西の岸の上に人がいて、<そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>
と呼び続けて下さっているのが阿弥陀様で、こちら側は<汝>として呼ばれている側です。
 
もっと具体的に行為で言えば、真宗の信は、なんまんだぶつを称える事です。
なんまんだぶつが私の口から称えられている事の驚きを信心という、と仰った方がおられましたが不安ならお念仏を称えてみましょう。
 
御開山は、
しかれば名(みな)を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
http://wikidharma.org/4aebda9c2f43e
現代語:
こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。
http://wikidharma.org/4aebdaeec1442
と、仰いましたが、一切の無明を破し、我々の往生成仏の志願を満たして下さる名号です。
 
御開山はまた、
果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。
とも仰ってますね。
なんまんだぶ、なんまんだぶと称えると、私の耳に、大丈夫、大丈夫と聞こえてきます。
半自力/半他力と人に言われてもいいじゃないですか。人はいざ知らず、私の後生、往生成仏の一大事じゃないですか。
 
このご法義は名号摂化の御法義です。光明名号 摂化十方 但使信心求念と、光明名号の摂化が先でそれを受領したのが信心ですね。
一声のお念仏も無くて、ご信心に至る人はあり得ません。もしいるなら信機秘事の異安心です。
もちろん、私が称えたなんまんだぶつの功で救われるご法義ではなく、なんまんだぶつの謂われが私の心に届いてそれを受容した時に往生成仏が定まり、摂取不捨の利益を恵まれるのです。これが浄土真宗のご信心です。
 
その時に、自力で称えていたと思ったなんまんだぶつが、実は阿弥陀如来の曠劫以来の呼び声であった事に気付くのかもしれませんね。本当は称えられるなんまんだぶつには自力も他力もないのですが、自分の機執によって自力の念仏にしてしまってるのです。
 
信心に惑わずに、お念仏しましょうよ。私に用事がなくても阿弥陀様が用事がある称名ですよね。
 
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ…

あるブログへの投稿

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信心について。
親鸞会では「信」を強調するあまりに、信心が目的になってしまって、会員の方は本来の仏教の目的が判らなくなっているのでしょうか。

仏教の目的は成仏であって悟りを得る事です。
仏教とは、
仏説教(仏が説く教え)
説仏教(仏を説く教え)
成仏教(仏に成る教え)
まとめれば、仏教とは、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えです。

通常の仏教では「信解行証」といって、信は仏教に入る一番最初の段階を信といいます。
仏の説いた法を、信じて、解(理解)して、その解した行(戒・定・慧)を行じて証(さとり)へ至るというプロセスが当たり前の仏教の考え方。
このような立場を「善をしなければ信仰は進まない」と言えるかもしれません。

この努力して目的に至るプロセスという概念は誰にでも判り受け容れられるから「易信」(信じやすい)といい、しかし行は行じ難いから「難行」という。いわゆる「易信難行」というのが聖道門の論理です。
此土入聖というこの世で悟りを得ようというのが聖道門。

これに対して、浄土門では「易行難信」といって、行は南無阿弥陀仏を称えるという「易行」だが、信ずる事が難しいから「難信」という。
無量寿経の流通分で釈尊が、
「諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法・諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。」
http://wikidharma.org/4ada97d64e3c8
現代語訳:
如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くことも難しい。菩薩のすぐれた教えや六波羅蜜の行について聞くのも難しく、善知識に会って教えを聞き、修行することもまた難しい。ましてこの教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。
http://wikidharma.org/4aebd5b0ebfa9
と、「難中之難無過此難」と仰り、阿弥陀経でも「難信之法」と、お前に信じる事はできないぞ、と仰せです。

何故信じる事が出来ないかと言えば、他力だからです。仏が行じて仏が仕上げた仏の不可思議の本願であるから信じる事が難しいと仰るのです。

しかし、浄土真宗では「信心正因」といって、信心が成仏の因であるという。
これって、おかしいですね。
なぜ信が正因であるかといえば信は真実であるからというのが御開山の解釈です。
「信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり」。
http://wikidharma.org/4ada9b663f394

では、その真実が我々にあるかといえば全く無い。
貪欲(とんよく)むさぼり、瞋恚(しんに)いかり、愚痴(ぐち)おろかさ、の三毒煩悩に苦悩しているのが、人が生きるという事の実体です。
この煩悩は死ぬまで無くならないし、死ななければ無くならない煩悩の中に、お前は仏に成るのだという阿弥陀如来の信心(真実)の言葉を聞いていくのが、浄土真宗でいう信でしょう。

利井鮮妙和上が、歎異抄の一条を、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」
で切って読め、と仰ったそうですが、この言葉が信心の中身だからでしょう。

「と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。」
本願によって浄土へ生まれさせて下さる事を、信じて(受け容れて)お念仏しよう、と思い立った時に摂取不捨の身にさせて頂くのです。

本願文に、
至心 信楽 欲生我国 乃至十念
本当に(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれると欲って(欲生我国)、たとえ十声でもお念仏を称えてくれ(乃至十念)、とあります。
どのように考えても死ぬとしか思えないことを、我が国に生まれるんだと欲(おも)え、というのですから信じられる訳がありません。
しかし、生と死を超えていく術(すべ)もない私が、阿弥陀さまの仰る事は解かりませんが、阿弥陀さまの仰る事に間違いはない、と受け取らせて頂きますというのが利他の信心です。

この信心は、阿弥陀如来の信心です。
「この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。」
http://wikidharma.org/4ad12a1bd5d4a
現代語訳:
この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の信心というのである。

阿弥陀如来の信心であるからこそ、往生成仏の正因であるというのが「信心正因」という事なのです。
昔から、大きな信心十六ぺん、ちょこちょこ安心数しれず、という言葉がありますが、自らの拵えた「行に迷ひ信に惑」うよりも、阿弥陀仏に向かって本願のお言葉を拝聴することこそが肝要ですね。

手を離せ

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浄土真宗の御法義は他力にうちまかせる御法義だが、なかなか判りにくい。で、ちょっといい話を読んだのでUP。
 
途中に宇曽川という川があって川上で夕立でもあったのか増水しています。
 
橋のある街道すじまで廻つて帰ると一里か、それ以上も廻りみちになります。
 
和上『これはアカン、仕方がない、廻り途をしよう。』
と云われますが、若者は承知しません。
和上も「それもそうだ」というわけで、着物をぬいでハダカになられました。
 
若者は和上の手をひいて、川を渡りはじめましたが、案外水は深く、川のマン中ほどまでくると、スネから腰、腰から胸と、次第に深くなって、どうかすると、年老りの和上は足をとられそうです。
 
和上「オイ、これはアカン、流されそうじやたすけてくれョ。』
と若者の腰にすがられる。

若者「老僧さん、アカンアカン。そんなに抱きつかれては私が歩けん、老僧さん離しておくれ。」
 
和上『無茶云うな、手を離したらワシは流されるやなないかー』
 
若者「でも、そんなにシガミつかれたんでは私も流される。手を離しておくれ。」
 
川の流のマン中で、大そうどうであります。しばらくたって、和上は、若者の腰から手を離されたが、和上が手を離されるなり、若者がしっかりと和上の手をつかんで、引きずるようにして向うの岸にわたりました。
 
引きずられながら、和上の口からはお念仏がとめどもなく流れ出てまいります。やがて、対岸につくと
 
和上『お前まあ、そこへすわれ。』
 
若者「もう日もくれますから、早く着物をきて帰りましよう。」
 
和上「イヤ、とにかくすわつてくれ、ワシはお前に礼を云わねはならぬ。是非ともお前に聞いてもらいたいことがある』
 
若者を無理に坐らせて、川の土手の上で、ハダカのままでのお話であります。
 
和上『お前、ようワシを渡してくれた。イヤそれよりも、ワシに大きな味わいをくれたでそのお礼を云わねばならぬ。さっき、お前が川のマン中でワシに手をはなせというた、あのときの、ワシの胸のうちはどうだったろう。
 
ふだんは和上さん、老僧さんといたわり、うやもうてくれるが、イヨイヨとなると、背に腹かえられぬ、自分だけ助かったらよいと思うて、ワシに手を離せという、ヒドイ奴じや」と思うと煮えかえるようだつた。
 
しかし考えて見れぱ、ワシは老さき短かい老僧、お前は元気な若者じや、連れて死んでもすまんと思うて手を離すやいなや、お前がしっかりワシの手をつかまえて渡してくれた。』
 
『ワシがいつも云うておるが、蓮如さまが仰せられる「雑行雑修自力のこころをふりすてよ」との御教化はここの味わいじゃ。よう聞いてくれよ』
 
『お名号をつかまえ、お名号につかまって 助かろうとする、そうしてお名号のおはたらきをさまたげて、自分は流れるのじゃ。わがハカライを離れたとき、阿彌陀如来はしっかりと、ワシをつかんでわたして下さるのじや。』
 
『お前はいま、身体にかけて、この味わいを見せてくれだが、 「雑行雑修のこころをふりすてよ」とは如来(おや)さまのお慈悲のありだけじやで、どうかここのところを頂いておくれや。」
 
宇曽川の土手の上で裸のま~の御教化であつたつたと伝えられております。
 
宏遠和上の裸のままの御教化。

業と輪廻

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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林遊は、業と輪廻の思想を抜きにして仏教を語っても、それは単なる世俗の生き方にしかならないと思うのだが、ちょっといい文章を紹介。
 
悪夢に泣く子供に母親が「夢ですよ」という場合、それは夢であるから目覚めなさいということである。
 
同様に業と輪廻--六道輪廻の思想も有情についての単なる存在判断ではない。
 
それは初めから終わりまで覚醒への呼びかけであり、呼びかけられた者にはこの命題は一つの当為であり命令であるはずであった。(しかし業や輪廻は今日では通常そのような仕方で理解されてはいない。)
 
だから業と輪廻は対象的に見られると、まったく生存の運命的必然性を強調する教義と考えられるであろう。
 
しかし、主体的には、それとは逆に解脱と自由のためのものである。
 
それはあたかもすべてのものがその色濃き印影をその物の背後に投げかけるときに、その物自身はかえってそれの正面の輪郭をくっきりと白日の下に浮き出させているようなものである。
 
業と輪廻の暗い論理の影絵には、それからの解放と超越の喜びが輝いている、他の一面がある。
 
業の理論はいわば跳躍版であって、宗教的実存は、一度はそれにしっかりと足をふまえることによって、つぎに身をおどらせて解脱と解放の自由に躍入する。
 
業と輪廻の思想は最初にそれを理論的にまとまった姿を与えたウパニシャッドの哲人(ヤージニャヴルクヤ)によって、すでにこのような内面に火花を持った概念に作り上げられていた。
 
ウパニシャッドを読む人は、この暗転する業と宿命の流れのなかから、ときどき一瞬解脱の光りがさっと輝き出るのを感じるであろう。
 
というのは業や輪廻の思想は、上述のようにただこの解脱の光に照らされたときだけ、それと知りうる人間存在の暗さであり、私と私を包む世界との根源的な運命的時間である。
 
だから輪廻を知ることは、ヤージニャヴルクヤのいうように、「蛇が自分のぬけがらを見るごとく」でなければならない。
 
流転や輪廻の世界は、ただそこからの解脱が同時にそれとともに強調されるときにだけ意味のある事実であり、解脱の光のもとでだけそれと見られうるような事実なのである。
 
だからこの哲人は業についての自分の思索を秘教的なものと考えていた。
それは「私と汝が手を重ね合い、ただ二人だけで語り合うべき」性質のものであった。
 
-中略-
 
このような業と輪廻の肯定と否定とに対して、仏陀の立場はいわばそこに親鸞の横超(他力による横超)の次元に当たるものを切り拓くことによって、両者を止揚した中道の立場に立とうとするのである。
 
とにかく原始仏教にみなぎる解脱への激しい渇望は、業や輪廻の自覚なしには考えることができない。
 
その宿望は今や満たされた。
仏陀は「生は尽きた、梵行は修せられた、作すべきことはなされた。再びこの状態(輪廻の状態)に来たらない」と自覚して真の解脱に達し、彼の弟子達に「来たって見よ」と教える。
 
そうしてこの仏陀の立場に立つとき、実はそこで初めて業の世界、輪廻や転生が本当には何であったか--人間の生存の事実性において、何を意味していたかが判然と知られるのである。
 
あたかも眠りより目覚めた者(覚者ー仏陀)が、初めて眠りの何であったかを知り、また眠っている者のところに行ってその眠りから彼を覚醒させることができるように、業の真相の理解者は業を超えることによってこれをその根底から知悉し、そうして再びこれにつながれている他者に立ち向かって彼をその繋縛から解放し、相ともに他者の超脱と覚醒へのための実践に進ましめる事が可能となる。
 
『親鸞と現代 武内義範』より

信心正因って?

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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先日の勉強会で坊さんとの雑談。
 
浄土真宗では信心正因っていうけど、正因って因、つまり原因の事だよな。
 
「そう」
 
じゃさ、その信心に対する果は何よ。
 
「それはお浄土で仏さまになるってことやろ」
 
うん、そうだけど言いたいのは、信心というものに対応するものが何かという事を言いたいんだけどな。
 
「う~ん」
 
信心に対応するのは仏心じゃないのかな。
 
「仏心って仏の心の仏心?」
 
そう、果において仏心であるような信心が往生成仏という目覚めた仏に成るという正因でしょ。
 
「う~ん………」
 
今日の講義の唯信鈔文意で、
 
<「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。>
 
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、ってあるけど、「この」は、如来の心を指しているので衆生の心じゃないんでしょ。
 
だったら信心というものは仏心であるわけでしょ。
如来の仏心が十方微塵世界の林遊に至って、林遊をブッダにするという話だよ。
 
だから、人間が仏に成るなんてとんでもない話だけど、仏心が林遊に至り届いてこの仏心が往生して即成仏する事は何の不思議も無い訳だろ。賜りたる信心ってこういう事でしょ。
 
「う~ん………」
 
いつも思うけど、坊さんは「信心正因」ってあまり言わない方がいいと思うな。
 
それよりも、お念仏しましょう、なんまんだぶを称えましょう。
 
これは阿弥陀如来が選択して下さった、本願に順じた業因ですから称えましょうねっていう宣伝をすべきだと林遊は思うな。
 
と、こんな事ばっかり言うから林遊さんは煙たがられるのね (笑