別選所求

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御開山は、『教行証文類』の総序で、

浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

といわれておられる意を、wikiarcの「別選」の項に記してみた。これを書き出すと、林遊の性分で訳がわからなくなるので要点だけを記してみた。

→「別選」

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門余

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浄土真宗の僧俗は、
道綽禅師の聖浄二門判に依拠しているせいか、信心を強調するばかりで、御開山が御消息で「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」といわれた教判の意味を、ないがしろにしているかもである。
なんまだぶと称えるところに顕現する阿弥陀如来の浄土が判らんのやろな。どうでもいいけど。

で、年寄りは暇なので、林遊のネット上の勉強ノートであるwikiarcの「門余」の項を編集してみた。それにしても判りにくいな(笑

→「門余」

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御開山の読み替え

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本願寺派の註釈版聖典の秀逸なところは、
御開山の読み替えについての脚注があるところである。
もっとも御開山の意によれば、読み替えではなく信心の智慧によって読み切られたのであろう。

で、末代の門末の門徒は、和上方の指南によって、その御開山の意図をあれこれ詮索する楽しみがあるのであった。
wikiarcには、言葉に対してリンクを張る機能があるので、お聖教を重層的な視点から把握することが出来るので便利である。ほとんど林遊個人の勉強ノートのメモと化しているのだが、こういう門徒が一人くらいいてもよかろうと思っていたりもする(笑

ともあれ、御開山は聞いて知る、という如是我聞の「聞見」の人であった。
というわけで、御開山の読み替えを意図をwikiarcに追記。

→[道は色像…知んぬべし]

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念仏の行、水月を感じて昇降を得たり。

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「秋乾く」という季語があるそうだが、
秋には大陸の乾いた空気が流れ込むので、夜空の月が何時にもましてきれいである。

世間怱々(大経 P.58) として、心休まることが少ない現代人は、たまには秋の夜空を見上げて、月の光に思索にふける時を持てればと、思っていたりする。
というわけで、wikiarcの『選択集』の脚註「水月を感じて…」を編集してみた。

→「水月を感じて…」

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とみえたり

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蓮如さんの『お文』では、よく故事来歴を引かれる。

有名な「白骨の章」では、

おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。

と、「いへり」とされて『存覚法語』で引く、後鳥羽上皇の『無常講式』からの引用をされる。(*)

『お文』の二帖十一通の「五重の義」では、

この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

と、「みえたり」とあるのも、先人から承けたという意であろう。

と、いうわけで『お文』の、二帖十一通の「とみえたり」の引用について、WikiArcに新しく項を設けて記述してみた。

→「とみえたり」

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仰信

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ごうしん

一般に、神や仏などを信じることを信仰(しんこう)という。 これに対し、古くから浄土真宗では仰信(ごうしん)ということがいわれてきた。浄土真宗の信は、私が信ずるのではなく、「阿弥陀仏の信」を仰いで受動的に聞信するからである。
信仰という語は「仰いで信ずる」「信じて仰ぐ」と訓ずるように、信じるも仰ぐも、私を主体とする動作をあらわす動詞である。この信仰に対して、仰信とは「信を仰ぐ」として、信を動詞ではなく阿弥陀仏の他力の信を仰ぐから仰信というのである。
これを、先人は「信は仏辺(ぶっぺん)に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれていた。信心は自分の心の中にさがすのではない。「必ず救う」とおおせの本願招喚の勅命を聞きいれて、阿弥陀仏の摂取決定の信のたしかさを仰ぐのである。そして阿弥陀仏の慈悲は、わが身の煩悩罪障の中に味わうというのである。{─略─}

と、仰信の項をWikiArcに記述した。

→「仰信」

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仏願の生起本末

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『浄土真宗辞典』の仏願の生起本末の項には、

阿弥陀仏の名号いわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。
仏願の本末とは、仏願の因果をいう意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。

と「名号いわれ」とある。
最近の浄土真宗の坊さんの法話では、「信心正因」のドグマに幻惑されて、仏願の生起本末の語を自覚の意味の信心として説くのだが、行なき信は観念の遊戯に陥っているのかと思ふことがある。仏教とは行じて証すという「教行証」のご法義であり、行のない信のみの仏教はあり得ないのである。
ともあれ、WikiArcの、「仏願の生起本末」の項に追記してみた。

→「仏願の生起本末」
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疑蓋無雑

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WikiArcの疑蓋(ぎがい)に追記した。

 

ご信心

疑いの蓋

→「疑蓋」
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安芸の蓮崇

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浄土真宗の門徒が拝読(声に出して読む)するお文(御文章)を、教化に使うことを発意したのは『天正三年記』によれば、安芸の蓮崇であった。

越前の吉崎の御坊にて彌(いよいよ)佛法ひろまり申し候て、「御文」を御つくらせさふらふ事は、安藝法眼申させさふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡の者の、はやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び、百の物を十に選ばれ、十の物を一に、早く聞分申樣にと思しめされ、「御文」にあそばしあらはされて、凡夫の速かに佛道なる事を、おほせたてられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化、今一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事に候也。 (『天正三年記』p.637)

蓮崇は、真宗の坊さんによって破門された悪人と言われる事が多いのだが、北陸の地で爆発的にご法義が伝わったのは在野の門徒のパワーによる面も多々あったのであろう。浄土真宗は「在家仏教」であったからである。

と、いうわけで、wikiarcの「安芸の蓮崇」の項に追記。

「安芸の蓮崇」

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聴聞

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言葉は受容する側の態度によって変遷するという意で、

「お聴聞とご聴聞」(*)

というタイトルでブログ(WebをLogする)を記したこともあるのだが、某所で聴聞という語について考察していたのでwikiarcの「聴聞」の項に追記してみた。
御開山は、関東の門徒にあてた『一念多念証文』や『唯信鈔文意』で、

ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

と、「文字のこころ」という語を使っておられるのだが、文字のこころとは、個々の漢字の持つ多義的な概念を指すのであろう。御開山の主著は漢文の『教行証文類』であるが、読み下し文だけでは御開山の見ておられた世界は判らないし、漢文を直読してもなおさら意味が不明だ(笑
とりあえず、個々の語によって窺うしかないのでが、聴聞という語について考察してみた。

→「聴聞」

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