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梵声猶雷震

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梵声猶雷震(ぼんしょう-ゆうらいしん)
 〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく。(p45)
あんたぁ、判ったとか分らんとか偉そうなことを言いなさんな。
あんたが判るとか解らんといふ話ではないんだよ。阿弥陀さまの話なんだよ。
何と驚くべきご法義であったかといふことなんだよ。
と、ご法話の後の茶話会で、ションベンちびるほどのご化導であった。
ええ和上さん方に遇わせて下さったものだな。

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註釈版に未記載の文献

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しばらくFBでのみ書き込みしていたので当ブログがお留守になった。

また、本願力のサイトにUPしてあった、SAT(大正新脩大藏經テキストデータベース)からの『西方指南鈔』や『和語灯録』等を校正してWikiArcにUPした。これは本願寺派の『浄土真宗聖典全書』記載の文によって校正したものである。少しく時間を要したが校正漏れも多いと思ふ。➡『浄土真宗聖典全書』
そしてWikiArcの目次に「註釈版に未記載の文献」といふメニューを追加した。この目次から各文献にアクセスすることが出来る。
➡「註釈版に未記載の文献」
梯實圓和上は自著『法然教学の研究』のはしがきで、

江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。

と、仰っておられた。
『西方指南鈔』は、御開山の著述だが、浄土真宗では法然聖人の語録であるとしてあまり取り上げられることはなかった。また浄土宗の側では親鸞の著述であるとして関心を持たれることはなかった。
また、醍醐本『法然聖人伝記』は大正6年に発見された書であり、『三部経大意』は昭和8年に公開された書であったから、浄土真宗の先人は両署を見ずに、法然聖人の思想と御開山の思想との関係を乖離させてしまったのだろう。
信心正因 称名報恩説は、本願寺派の常教だが、これは御開山の立体的な重層構造の一端を取り出したものであり、このテクニカルターム(術語)だけで、御開山の仏教思想を捉えようとすると。なんまんだぶ抜きの観念の信心になるかもである。

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還相

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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「教文類」の真宗大綱に、

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
「教文類」p.135

とあり「浄土文類聚鈔」には、

 しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。
「浄土文類聚鈔」p.475

とあり、浄土真宗とは本願力回向の法義であり、往相、還相といふ二利(二つの利益)を示す宗教であった。

➡「宗教」

ところで本願寺教学は、覚如上人、蓮如さんの教学に依拠しているので、御開山の展開された「還相」の意義を説くことは少ない。その伝統を承けた坊さんはやたらに「信心」を強調するのだが、その信心の目指す界(さかい)の意味を説くことはほとんど無い。
御開山は関東の同行に宛てたご消息の中で、

浄土真宗は大乗のなかの至極なり。
「御消息」p737

とされておられた。この「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」とは、
➡「上求菩提 下化衆生」
の大乗の菩薩道を指すのであった。
御開山は、その大乗菩薩道を還相として、往相(浄土に往生する)の目的とされたのであった。

還相の利益は利他の正意を顕すなり。
「証文類」p.335

である。
井筒俊彦氏は、言語的意味のカルマ(=長い歳月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積)といふ視座を示していた。ようするに仏教語は長い歴史の中で育まれた意味の集成といふ意味であろう。
御開山は『唯信鈔文意』の極楽無為涅槃界釈をされておられたのだが、

「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。「唯信鈔文意」p.709

の列名の意を梯實圓和上の講義から、窺ってみよう。
「梯實圓師講義 還相回向論【4-4】」
https://youtu.be/A7_J_5rmooc?t=3630

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生老病死

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今回のコロナ禍で思ふのだが、仏教では「生老病死」といふ「苦」を説く。
浄土真宗に造詣のあった小林一茶に、

世の中は地獄の上の花見かな 小林一茶

といふ句がある。華やかに楽しく生きているといふ基底には、自己の存在を奈落に叩き落す地獄があるといふ意である。
人類の文化は、釈尊の死、ソクラテスの死、キリストの死といふ、死といふ事象が根底にあるのだが、現代は、その死を忌避して忘れた死の無い文明であるかもである。
二百歳、三百歳といふ友人や知人が無いように、人は生まれたからには必ず死ぬのである。死ぬという「果」は生まれたといふ「因」である。
釈尊は「老病生死ということを、自分がまだ若く青春と健康と生存の誇りにみちていたときに把えた。自分自身は死すべき存在であって死をまぬがれていない。その死を超克していない者が、他人の死とかそういう死の現象を回避しようとしていることは理に合わない。」(→無明と業─親鸞と現代) と省察されたのであった。

浄土教は、この死と格闘し、生きることも尊いことだが、死ぬことも尊いことであると死を「往生」と定義したのであった。もちろん、仏の本願に誓われた、なんまんだぶと称えた者だけに開示される「往生」であり、ありもしない衆生の側からの信心(faith)を妄想する立場と異なった教義が浄土真宗であった。
ともあれ、

ウイルスで 死ぬのではない
生まれてきたから、死ぬのだ
いまさら 驚くことか……

→生きて 死ぬ いのちを 生きている

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業因

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浄土真宗では「信心正因」と信心を煩く云ふので、一神教のキリスト教(プロテスタント)の「信のみ」の信仰型宗教とどこが違うのだと思ふこともあったりする。
御開山は、自著を「教行証文類」(『顕浄土真実教行証文類』)とされた。もちろんその内容は教・行・信・証となっているのだが、仏教である限りは「信」のみで「行」を抜きにした教義体系はありえない。
明治期以降のキリスト教を基底とする西欧思想から派生する西洋哲学の影響下で、浄土真宗における信を観念的に捉えてしまった弊害であろう。

「教行証文類」の「総序」には、

捨穢忻浄 迷行惑信 心昏識寡 悪重障多 特仰如来発遣 必帰最勝直道 専奉斯行 唯崇斯信。

穢を捨て浄を欣(ねが)ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)く、悪重く障(さわり)多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこのに奉へ、ただこのを崇めよ。

と、「専奉斯行 唯崇斯信(もつぱらこの行に奉(つか)へ、ただこの信を崇(あが)めよ)」と、浄土真宗に於ける行と信を顕しておられた。
この行とは、口に称えられる〔なんまんだぶ〕なのだが、近代の坊さんは、門徒の口に称えられている本願招喚の称名を、家永三郎氏のいふ呪文としか見えなかったのであろう。卑近な例だが、近代教学の影響が多であった大谷派では法座の場で〔なんまんだぶ〕を称えていると、まるで異安心のような白眼視の取り扱いを受ける。越前の吉崎御坊では春先に東西両本願寺が同時に「蓮如忌」を営むので両派の法座の雰囲気を知ることができる。大谷派の法座では門徒の〔なんまんだぶ〕の声を聴くことはまれである。
ともあれ、浄土真宗の先達は教行証といふ「三法門」と、行から信を開いた教行信証の「四法門」といふ概念でご法義を示して下さった。
それはまた、キリスト教風の「信心正因」一本やりの近代教学に、行の「称名業因」といふ概念を導入して下さった先達のご苦労であった。
蓮如さんは、浄土宗西山派から導入した「平生業成」に煩いのだが、業とは行為であるので業成とあるように信心業成ではなく、〔なんまんだぶ〕と称える行業が「業事成弁」することであった。
ともあれ「業因」と「正因」について考察することも、在野の一門徒としては楽しいものである。ありがたいこっちゃな。

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WikiArcの業因に追記
業因

仏伝にみる浄土思想

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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こういう浄土教思想の表現はおもしろいな。

ブッダの生涯 3 (佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ)

仏伝によって浄土思想の淵源を示すのであるから、浄土真宗の体系と幾分の差があるのだが佐々木閑(しずか)師の「仏教哲学の世界観」からの考察は資するものがあると思ふ。
以下、動画中で使われる浄土教思想特有の用語についてのWikiArcの該当項目へのリンクをあげておく。

参考:

法蔵菩薩
誓願
第十八願
授記
兆載永劫(の修行)
本願
阿弥陀仏
極楽
往生
念仏
六字釈
他力
済度(浄土真宗のすくい)

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覚如上人の宿善論の導入の意図

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御開山が依用された七祖聖教には『往生要集』の若干の例を除いて[宿善]という語は無い。もちろん御開山のご著書の中にも宿善という名目(教義上の術語)は無い。

しかし覚如上人は『慕帰絵詞』で、浄土真宗に宿善といふ名目を導入され、後代の蓮如さんは盛んに宿善といふ語を使われて門徒を教化していかれた。
→唯善との宿善論争(『慕帰絵詞』)

この浄土真宗に宿善といふ名目を導入された覚如上人の意図を、梯實圓和上は『聖典セミナー 口伝鈔』で次のように述べておられた。

 ところで覚如上人が、このように光明のはたらきとして宿善を語り、その宿善のはたらきによって往生の業因である名号を疑いなく領受する聞法の器として育てられ、信心を得しめられると、他力に依る獲信の因縁を強調されたのには、それなりの理由がありました。それは、浄土異流の中でも特に鎮西浄土宗を姶めとする自力を肯定する人々からの厳しい論難でした。 たとえば鎮西派の派祖、聖光房弁長(弁阿)上人の『浄土宗名目問答』巻中には、全く自力をまじえずに阿弥陀仏の本願他力のみによって往生成仏が成就すると主張する「全分他力説」を批判して、

このこと極めたる僻事(ひがごと)なり。そのゆえは、他力とは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしかるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。 (『浄土宗全書』一○・四一○頁・原漢文)[1]

といわれています。もつともこれは直接真宗に対する論難というよりも、真宗も含めて、西山派や一念義系の諸派の「自力を捨てて他力に帰する」という主張全体に対するものでした。もし自力の善根が全くないにもかかわらず、ただ他力のみによって往生するというのならば、阿弥陀仏が正覚を成就して本願他力を完成された十劫正覚の一念に、十方の衆生はみな往生してしまって、穢土に留まっているものなど一人もいないはずではないか。しかし現実には迷っているものが無数に存在するのだから、全分他力説は明らかに事実に背いた誤った見解であるというのです。そもそも第十八願には、往生を願う願生の信心を起こして念仏するものを往生させると誓われていて、何もしないものを救うとはいわれていません。信心を起こし念仏するという往生の因は自分で確立しなければ、どれほど強力な本願力の助縁があっても縁だけでは結果は出てきません。信じることと念仏をすることとは私が為さねばならない往生のための必須条件、すなわち因であって、一人一人が貢任を持って確立すべき自力の行いです。もっとも煩悩具足の凡夫である私にできる自力は微弱なものです。しかし本願念仏の功徳はどの行よりも勝れていますし、それに強力な増上縁としての本願力が加わるから、報土に往生することができるのです。それを他力の救いというといわれていました。

このような、弁長上人の教えを承けて、鎮西教学を大成された弟子の然阿良忠上人は、『決疑鈔』巻一(『浄土宗全書』七・二〇九頁)[2]に、次のようにいわれます。自力の因と、他力の縁とが和合して修行が成就し、往生、あるいは成仏の果を得るという「因縁果の道理」は、聖道門であれ浄土門であれ共通している仏法の法理である。ただ聖道門は、自力の要素が強く、他力の要素が弱いから自力の法門といい、浄土門は、自力の要素が弱く、他力の要素が強いから他力の法門と呼ぶことはあるが、自力ばかり、他力ばかりの教えは存在しないといわれています。

こうした「自力と他力が相俟って救いが成立する」と考える鎮西派を始めとする多くの浄土門の学僧たちから、他力の信心、念仏を説く真宗の教えは仏法の道理に背く誤った教えであると厳しく批判されていました。もし往生の因である信心も念仏も如来から与えられたもので、因も縁も総べて他力であるというのならば、結局は弁阿上人が批判されたように、すでに皆救われているはずで、事実と相違することになる。それに信心は如来から与えられたものであるというのならば、一切の衆生に同時に与えられるはずであるから、みな同時に獲ていなければならないであろう。人によって信心を獲る時に前後の差があるというのは矛盾である。もしまた如来は同時に平等に回向されるが、受け取る衆生の宿善に厚薄の違いがあるから、獲信の時に遅速の差が出るというのならば、その宿善が熟するのは自力によるのか、それとも他力によるのか。もし宿善までも如来の他力によって熟せしめられるというならば、道理からいっても全分他力と同じ失に陥り、事実と異なるという過ちを犯すことになる。しかし、もし自力によって宿善が成就するというのならば、自力によって宿善を積み重ねることによって他力の信が起こるという矛盾が生ずる。要するに往生の因である信心も念仏も自力で起こすものであって、他力の信心、他力の念仏というようなものは存在しないということになるという疑難が絶えず突きつけられていました。

それに対し、覚如上人は親鸞聖人が仰せられたように、第十八願の信心も念仏も如来の本願力によって回向された他力の法であると強調し、特に獲信の時に遅速のある道理を、阿弥陀仏の光明摂化を本体とした宿善論を導入することによって論証したのがこの第二章です。

すなわち自己を憑む心が強くて、阿弥陀仏の本願他力の救いを受け容れず、迷妄の自心に惑わされて我執の巣窟に閉じこもっている凡夫は、空しく生死を流転し続けるばかりで、いつまでもたっても生死を解脱することはできません。こうした私どもを自力の巣窟から喚び覚まして、如来の大悲智慧の世界に引き入れるために阿弥陀仏は、機根に応じて権化方便の摂化を垂れて、徐々に教えを受け容れることのできる聞法者を育てられていることを宿善といわれたのです。→トーク:口伝鈔

浄土真宗の僧俗は、七祖や御開山、そして次第相承の善知識が伝えようとされたご法義の基底と、それに対して祖師方がご自分がおられた時代に応じて法を説かれたといふことを考察しない。故に会通(一見、矛盾しているようにみえる記述を道理に照らしあわせ、一貫した趣意のものとして説明すること。)するのだが、会通しすぎるとある意味では祖師方の独自の教学の発揮を無視することになるので要注意である。
もとろん、浄土真宗のご法義は御開山の領解の上に成り立っているので、据わりは御開山親鸞聖人の『教行証文類』である。
→註釈版聖典七祖篇を読む

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負の連鎖

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マスゴミが連日不安を煽ることで「負の連鎖」が起こるのだろう。
その意味で、日本赤十字社の「病気」→「不安」→「差別」といふ負の循環関係の視点は参考になった。
なお、同じコロナ系のインフルエンザでは、2018-19年のインフルエンザ感染者の推計数は1201万人、死亡は3323人(関連死含む?)だといわれる。
ともあれメディアに騙されずに「正しく恐れる」ためには個々が学ぶべきだと思ふ。

→日本赤十字社のページ

左派系の真宗坊さんは、差別といふ事象には脊髄反射的に声をあげる。それならば、何故マスゴミが煽る不安は、差別につながる可能性に声を挙げないのだろう。
かって社会派の坊さんは、「信心の社会性」といふ識語で真宗教学をリードしてきたのだが、いまこそ「信心の社会性」といふ理念が問われるべきであり、不安を煽るメディアに対して発信すべきではないのか?

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金と金で作られた獅子

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真如法性などといふことを論ずると、深川倫雄和上から、おまえはイランことを言うなと怒られそうだが、昔の布教使は金(真如)と、それが獅子といふ具象化に形を変えて衆生に分かり易く届けられる、なんまんだぶの話をしていた。
金と金で作られた獅子の話は、賢首大師法蔵と則天武后の逸話で有名である。
以下、稲城選恵和上のご法話から引用。

そこでね、『教行信証』を見ますとね、教・行・信・証の四法には、全部真如がついとるんです。「教の巻」にはありませんが、「行の巻」にも、「信の巻」にも「証の巻」にも全部、真如法性と出て来るんです。教は、『愚禿鈔』に、「一実真如の道」とあります。ですからね、教・行・信・証のものがらを言うたら、みんな真如ということになります。これは、丁度こういう事じゃろな。
金の塊をね、子供にやるんです。あんまり喜ばんね。そこで、金の塊を獅子のおもちゃにするんです。おもちゃじゃったら、二つや三つの子供にも通じましょう。ところが、獅子のおもちゃに加工しても金ですからね。ですから、子供は獅子のおもちゃを受け取るままが、金を受け取っておることになりますね。ですからね、御念仏は、真如法性の金のままが、私の世界にちゃんと今はたらいとるという事なんです。そうするとこれは、法がはたらくんですから、信も私がする信じゃないんですよ。私のものは、一切これはね、この手あかがつけられん事になっとる。それが浄土真宗ということですね。それが『教行信証』の内容になっとるんです。(稲城選恵 深川倫雄『如来をきく』探求社p.112)

御開山は『一念多念証文』で、

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。(p.694)

と、称に「となふる」「はかり」という二義をあげられていた。(→称)
少しく浄土真宗のご法義を聴くと、信心、信心と煩いので、まるで浄土真宗はキリスト教のように信を説く宗教だと誤解する輩が多い。
法然聖人は、

又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。
かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(和語灯録p.633)

と、仰せであった。これが御開山の仰る「行信不離」であった。
→「行信不離

信心に惑いてなんまんだぶを知らない人には、前掲の『如来をきく』に説かれていた稲城選恵和上のご法話が参考になるかもである

→「他力の信の特色
→「垂名示形

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