観経の三心釈を少しく編集してWikiArcの至誠心のノートへ転載。
梯實圓和上の名著の一つである『法然教学の研究』から、第二篇 法然教学の諸問題の「第三章 法然聖人の信心論」を窺う。
御開山は「仏願の生起本末」といわれ、ただ出来上がったものを受容するのではなく、その本末(一部始終)を学べとされた。例せば、市販の吊るし柿を見ただけでは、初夏に黄白色の小さな花を咲かせ、秋には鮮やかで濃い橙色の実をつけ、その実を収穫し、皮を剥いて冬の軒先に吊るし寒風にさらし熟成された吊るし柿を本当に知ったとはいえないのであろう。吊るし柿には蔕(ヘタ)が付いているから、あのまま木に成っていると誤解するかもである。同じようにゴールである「大乗の至極」の浄土真宗のご法義を学ぶには、各々の祖師方の教学を学ぶべきであろう。
鈴木大拙師は、
正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。
と、いわれていたが、出来上がった解釈をあれこれ会通するよりも、その思想の本末や背景を学ぶことによって、立体的により深く、なんまんだぶのご法義を味わえるのであろう。
なお、強調の太字や修飾、出典へのリンクはUPしてある聖典へリンクし、脚注の◇以下の部分、ルビおよび〔〕内の漢文読下し等は便宜のため適宜林遊が付した。「隠/顕」をクリックすることで漢文の読下しを表示できる。
➡トーク:至誠心
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ