おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。

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日本人にとって、蓮如さんのしたためた「白骨の御文章」は、最良の弔問の名文句だといわれる。
この御文章中の、

われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり

を、越前の門徒は「ひとや先、人や先」と言い換えて「後生の一大事」を我がこととして肯えない己を揶揄していたものであった。
ともあれ、ここで「といへり」とあるので、先行する典拠とされる『存覚法語』を、fbの井上敬信さんがタイプして下さったのでwikiarcにUPしてみる。
→『存覚法語』
そのまた『存覚法語』の典拠である『後鳥羽天皇御作無常講式』はwikiarcにUPしてある。
→『後鳥羽天皇御作無常講式』

日本人は、インド仏教の「空」とか「無」という概念をよく把握できていないと言われるのだが、ともすれば仏教の「無常観」が詠嘆的な「無常感」になりやすい。『般若心経』などでは「色即是空」と「空」を説くのだが、日本人は「空即是空」に重点を置いて思考するようである。サクラが散ることに美を感じても、散ったサクラの花の風にうたれ雨に濡れたきたなさの行く末には無関心である。
その意味では、浄土と穢土をキッパリ区別する二元的な世界観が法然聖人の示された浄土教であった。御開山は「欣浄厭穢の妙術」と仰っておられた。

現代の即得往生論者の大谷派の坊さんは「死んでからの話をして何になるか」と勇ましいのだが、死ななければ仏陀のさとりを開けないという愚者に落居するという浄土-真宗がワカランのかなあ。死ななければ治らないような煩悩を抱えていくものに開示されるのが御開山が示して下さった浄土であった。馬鹿は死ななきゃ治らないのである。
→「相対の上の絶対」

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教行信証講義

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真宗大谷派 西覚寺さんがネットで提供されている、山邊習學、赤沼智善共著の「教行信証講義」を自分の勉強用にUP中。元々s-jisiで書かれた文章なのでutfの漢字に当て嵌めるのが苦戦中(笑
ともあれ、明治の西欧文明を取り入れる文明開化を経て、大正デモクラシーの時代の雰囲気からか漢文を《言教〈おしえ〉》などのように和語で読んでいるのは、時代の雰囲気を感じさせて面白い。大正三年に記述されたものであるから100年程前の文章である。
時代の制約の為か、御開山の境位と非常に近い幸西成覚房の教学を誤解している点もあるのだが、本文はおしなべて正確に御開山の意図を捉えていると思ふ。(ツッコミは暇が有ったら脚注に記すかも知れない)
飽きっぽいので、最後までUPできるかどうか判らないのだが諸兄のツッコミを期待ではある。
学問とは、学んで後に疑いあり、疑いて後に問いありというごとく問いのない学びはないのであった。

→山邊習學、赤沼智善共著の「教行信証講義」

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その籠を水につけよ

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 深川倫雄和上は、お説教はみな忘れてしまえ! と、よくおっしゃっていた。そもそも、お説教を覚えている奴にはろくな奴がおらんともおっしゃっておられた。
そして、忘れてしもうても忘れなさらん親さまを大切にするこっちゃ、と〔なんまんだぶ〕を称える讃嘆行をお示しであった。

 梯實圓和上は、もう少し優しいから、お説教は忘れてもいいんですよ、そしてね、忘れてしもうたら、なんですなぁ、また聞けばいいんですよ、とおっしゃっておられた。

蓮如さんの『御一代記聞書』(現代語)には、

 ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。
「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。→(現代語) →(原文)

と、ご法話を聞いている時には、その通りだと思ふのですが、時間が経つとその思ひもみな抜けてしまうのですが、どうしたら良いのでしょうかという逸話(エピソード)がある。
この『御一代記聞書』の意(こころ)を、梯實圓和上は以下のように述べられておられた。

 年を取ると、物忘れがひどくなってきます。仏法を聞いてもすぐに忘れてしまって、聞いているときはなるほどと納得していたのに、後で思い出そうとしても思い出せないというようなわびしい状態になってきます。
そんな悩みを蓮如上人に訴えた人がいました。「私の心は、まるで籠に水を入れるように、いくらおみのりを聞かせていただいても、すぐに忘れてしまって法悦までも消えて、聞かぬ前の状態になってしまうのが情けのうございます」と悲しむ門徒に、上人は「その籠を水につけよ、我が身をば法にひてておくべし」といわれたということです。
仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです。
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。今年も楽しく法縁に遇わせていただきましょう。

阿弥陀如来は「十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念)」(*) と、乃至十念という〔なんまんだぶ〕を称えよとされた。
たとえ、痴呆になり聞いて覚えたお説教の理屈を、みな忘れても、我が口になんまんだぶと称える癖になるほどに称えられる〔なんまんだぶ〕の声を聞くとき、「声につきて決定往生のおもひをなすへし」という生死を超える「往生極楽のみち」に安心して死んでいける道があるのであった。

最近の真宗の布教使さんの説く自覚の「心の宗教」では、西方仏国の極楽やそこへの往生や〔なんまんだぶ〕と口に称える行業を説かない。御開山の説かれた往生浄土の真実の宗を説かない/説けない坊さんには困ったものだ。御開山の示して下さった浄土真宗は、往生や本願や念仏や浄土を示すご法義であった。
それが、一文不知の愚者に落居して、なんまんだぶを称えて生死を超える道を林遊に示して下さったのが法然聖人や御開山や蓮如さんであった。ありがたいこっちゃな。

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補注へリンク

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wikiarcの目次に註釈版の補注と七祖篇の補註へのリンクを張った。各専門用語には極力用語へのリンクを付した。

ご法話を聞くときにはある程度のご法義用語の概念規定が為されていると聞いていても楽しいものである。

註釈版 補註

註釈版 七祖篇補註

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難治の三病人

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なんで御開山は、浄土門の教えに聖道の経典である『華厳経』や『涅槃経』を引文しなさるんですか?と和上にお聞きしたことがある。
それは、『華厳経』や『涅槃経』に浄土門の「内容」が「顕」されていると、ご覧になったから引文してなはるんです、とお示しであった。
御開山は自己が学んだ天台の『法華経』は意固地なまでに引文されない。『法華経』の法華一乗説に聖道門仏教の教理を代表させて対判されたからであろう。
天台の「五時八教判」では法華・涅槃同時をいう。その『涅槃経』理解の「追説追泯」説に示唆されて『涅槃経』の主題である「一切衆生悉有仏性」に、阿弥陀仏の「誓願一仏乗」の仏道を見られたからかも知れない。
それは、仏教の「さとり」から疎外されている者の「済度」こそが、真の大乗の本意であると見られたのであった。そして、それは法然聖人が示された「選択本願念仏」の、なんまんだぶを称える「念仏往生」の成仏道なのであった。個々の「心」の持ち方を問題にすれば千差万別であるので、なんまんだぶと称えて浄土に往生して仏に成る「念仏成仏」のご法義であった。同一念仏無別道故(同一に念仏して別の道なきがゆゑに)なのであった。

ともあれ、「信巻」では長々と『涅槃経』を引文される。
そこでは、訓点の付け代えだけでなく文章まで入れ替えてしまうのだが、御開山の組み替えた文章は、たしかに浄土教の阿弥陀仏の悪人(林遊のような莫迦)を救う善悪平等の済度を説く文になっているので、ありがたいこっちゃ。

→「仏菩薩に…発せん

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「生死出ずべき道」

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仏教における「生死出ずべき道」である後世を、

ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。(*)

と、領解されたのが御開山であった。
これを晩年の『歎異抄』では「往生極楽のみち」と言われていた。
その往生して仏陀のさとりを得る御開山と意を同じくする者を「門徒」と呼ばれたのであった。教位に立たず同じ群萌として阿弥陀仏の〔なんまんだぶ〕を称えて往生する一文不知の立場に立たれたのが御開山であった。
無茶苦茶に難しい『教行証文類』という信心の形而学ともいえる著作を残された御開山だが、その本意をは〔なんまんだぶ〕を称えて西方仏国に往生して仏陀と成るご法義を顕彰する為であった。ありがたいこっちゃ。
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「門徒」

スマートフォン対応

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google からスマートフォンでのアクセスで404エラーが増加したというメッセージが来たので、wikiarcにスマートフォン対応のスキン(外装)を入れてみた。
wikiarcのメンバ-ならば好きなスキンを選択できるので林遊はPC用のスキンを使っている。しかしスマートフォンでのアクセスが増えているので初期設定のスキンをスマホ対応にしてみた。

これでお聴聞の時に、判らない真宗用語をスマホでチェックしたり、引用のお聖教の文を確認したり、または布教使さんの使う用語の誤謬にツッコミを入れることが出来るかもである(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/

名体不二

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名号について哲学的考察をされた大峯顕師(1929-2018)は、

たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合〔符号or記号か?〕もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。
名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、名体不ニと言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不二ということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。

と、浄土真宗の術語(テクニカルターム)である「名体不二」について論じられていた。御開山は六字釈で南無阿弥陀仏の「南無」とは本願招喚の勅命とされていた。それは声として称えられ聞える〔なんまんだぶ〕という「名号」として顕現する阿弥陀如来の呼び声であった。
それは元照律師の『弥陀経義』を引いて「我が弥陀は〔可聞可称の口に称えられる語業としての、なんまんだぶという〕名をもつて物を接したまふ」の乃至十念の称えられる仏であった。法然聖人の示された「選択本願念仏」という、阿弥陀仏が選択された〔なんまんだぶ〕を称える念仏の仏法が、御開山の示された「名体不二」の仏法であった。ありがたいこっちゃ。
阿弥陀さまを背にして、演壇で口角泡を飛ばしてありもしない現代風の自覚としての信心を説く自称としての坊さんは、いま少しく、垂名示形のなんまんだぶを称え聞かしめるべきであろうと思っていたりもする。知らんけど。

と、いうわけでwikiarcの「名体不二」の項に追記してみた。

→「名体不二」

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関連 →「親鸞における「言葉」

名号度生

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みょうごう-どしょう

名号〔なんまんだぶ〕を称えた者を浄土へ生まれさせ仏陀のさとりの世界へ度(わた)すこと。→

『安楽集』第一大門に、如来が衆生を済度する四種の方法のうち法施度生、身業度生、神通力度生、名号度生の四種度生の中の名号度生をいふ。四種とは、
一には法施度生、如来が色々な説法をして、その法によって済度する方法。
二には身業度生、如来の相や浄土の相を、衆生の心に思い浮かばせる観察によって済度する方法。
三には神通力度生、如来が色々な不思議な力を現わして、それによって済度する方法。
四には名号度生。すなわち仏の名号を称えさせて衆生を済度する方法である。末法の時代には称名のみによって往生することが可能である教えであるといふ。
『安楽集』第一大門に、

「四には諸仏如来には無量の名号まします。もしは総、もしは別なり。 それ衆生ありて心を繋けて称念すれば、障を除き益を獲て、みな仏前に生ぜざるはなし。 すなはちこれ名号をもつて衆生を度したまふ。
いまの時の衆生を計るに、すなはち仏世を去りたまひて後の第四の五百年に当れり。 まさしくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時なり。」(安楽集 P.183)

とある「名号をもつて衆生を度したまふ(名号度衆生)」の語から名号度生といふ。
御開山は、この意を「正信念仏偈」で、

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入

道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。

万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。

と、末法の世では、万善自力を捨てて、あらゆる功徳が円かに具わった名号をひたすら称えるのみが浄土門仏教であることを示された。

→wikiarc[名号度生]

念仏往生
両重因縁
名体不二
安心論題/所帰人法

彼岸

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「彼岸(かの岸)」という語は、煩悩の激流を渡ってさとりの向こうの岸に到達するという仏教語である。梵語のパーラミター(Pāramitā)の意訳であり、「此岸(この世)」に対する言葉であった。

現代社会は死のない文化ともいわれるそうだが、死を凝視しない文化はどこか奇妙で浅薄である。生しか知らない文明は、実は生の対抗軸を持たない故に真実の「生」の意味が解らないかもである。

現在ということだけを知る者は、実は現在をも知らないのだという言葉が「後生の一大事」という語であった。
大谷派の学僧であった金子大榮師は、

我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(曽我量深・金子大栄著『往生と成仏』法蔵館から)

と仰ったそうだが、死んで往く浄土をもつことによって、いま生きていることの意味の深さを味わえるのであった。ありがたいこっちゃ。

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