自力他力についての異説

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稲城選恵和上から、杉和上は浄土真宗の布教使さんの説教を聴かれて、

西山浄土宗のお説教を確かに拝聴いたしました。

と、皮肉っておられたということを聴いたことがある。
浄土真宗では三業惑乱以来、衆生の側の意業の信心を否定するあまり無安心に陥っている面もある。いわゆる往生正覚機法一体の「十劫安心」をご当流のご信心だと誤解している僧俗が多いということであろう。
いわゆる、ひらがな語での「いのち」を強調し、御開山が示された願作仏心、度衆生心という仏道を領解できない仏法の世俗化の罠に嵌っているのかもである。
世俗化とは聖なるものを俗化するのであって、俗化した真宗には衆生を済度する力はないということが、真宗のご法義の衰退の一端を招いているのであろう。

御開山の示された浄土真宗は、

しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。p.371

という、往生成仏の仏のさとりを開くご法義なのだが、現世の「いのち」の語に拘泥し往くべき浄土をもたない者には難中之難であろう。
と、いうわけで、法然門下の異流の一端を示す「法然聖人の他力思想」の一段をUPしてみた。

→「法然聖人の他力思想

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極重悪人唯称仏

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「正信念仏偈」に、「極重の悪人はただ仏を称すべし。」とある文の出拠とその背景を論じられた梯實圓和上の考察をwikiarcに記した。

三、四十八願中、於念仏門 別発一願云、乃至十念。若不生者不取正覚。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。

四、観経、極重悪人無他方便。唯称念仏、得生極楽。

四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。(要集 P.1098)

御開山は、『唯信紗文意』で『観経』下下品の意を、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。 (唯文 P.716)

と示しておられる。ここで「不浄説法のもの」とあるからご自身を下品下生の者とみておられたのであろうか。
ともあれ、御開山のお示しは「ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。」であった。

「念仏証拠門のなかに…」

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念念称名即嘆仏 念念称名即懴悔

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善導大師は「慚謝(慚愧報謝)」という言葉を教えて下さった。この報謝とは讃嘆でもあるのだが、この意を『尊号真像銘文』から考察してみた。

智栄讃善導別徳云(智栄善導の別徳を()めたもうていわく)

善導阿弥陀仏化身(ぜんどう-あみだぶつけしん) 称仏六字(しょうぶつろくじ) 即嘆仏即懺悔(そくたんぶつ-そくざんげ) 即発願回向(そくほつがんえこう) 一切善根荘厳浄土(いっさいぜんごん-しょうごんじょうど)

善導は阿弥陀仏の化身なり。仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり、即ち発願回向なり、一切善根浄土を荘厳するなり。(尊号 P.655)

御開山はこの文を釈して、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。(尊号 P.655)

とされておられた。注釈版の脚注では、この「…になる」を、

本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。以下、懺悔等について「…になる」というのも同様の意。(*)

とあるのだが、如実讃嘆ということから「なるとなり」とされた意を窺えば少しく御開山の示された意と違うのではないかと思ふのでwikiarcに記してみた。

→「智栄讃善導別徳云…」

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無量光明土

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無量光明土

口になずんだ「正信念仏偈」の曇鸞章には、

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願

 天親菩薩の論を註解して、報土の因果誓願に顕す。

往還回向由他力 正定之因唯信心

 往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃

 惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。

必至無量光明土 諸有衆生皆普化

 かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。

と、信心一発すれば、必ず「無量光明土」に至るといわれている。

この「無量光明土」の語の出拠は「真仏土文類」で『平等覚経』を引文された、

 速疾に超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養す。

とある「無量光明土」である。
御開山は「に依りてに依らざるべし」という釈風なのだが、その源意を窺うことも御恩報謝の営みであろう。と、いうわけで少しく無量光明土の出拠の意味を考察してみた。

「無量光明土」

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言に因つて言を遣るなり

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解らんモンが、判らん話をUPするので、分かる訳はないのだが、自分のメモ用にwikiarcにUPしてみた。

→「能説の…知るを」

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称名報恩

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称名報恩説を、なんまんだぶはお礼であるからしなくてもよいという団体があるのだが、莫迦(梵 moha)である。

いわゆる「信心正因 称名報恩」説の誤解なのだが、自覚の信を強調する浄土真宗の僧俗にも多いので困ったものである。
法然聖人は、

 又いはく、本願の念仏には、ひとりたちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。
それに善人は善人なから念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて、念仏する人を、念仏にすけささぬとは申す也。さりなからも、悪をあらためて善人となりて念仏せん人は、ほとけの御意にかなふべし。かなはぬ物ゆへに、とあらんかくあらんとおもひて、决定の心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。(諸人伝説の詞p.682

と、いわれていた。
「とあらんかくあらんとおもひて、决定の心おこらぬ人は」可哀想である。

→称名報恩

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信心正因

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浄土真宗の「信心正因」とは、信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物(ものがら)ではないことをいう。この無い状態を「正因」というのである。

越前の古参の門徒は、「勅命のほかに領解無し」という言葉で、なんまんだぶという可聞可称の称名法を受容し実践することが「信心正因」の意味であると領解したのである。
真実信をあらわす「信巻」三心結釈で、
「真実信心 必具名号。名号必不具願力信心也(真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり)」(三心結釈p.245)と、された意である。

ともあれ「信心正因」の法を説く真宗坊さんの説く法の真偽を判断する材料は、口称のなんまんだぶを称えているかいないかであった。嘘の法義を説く布教者には真実を説く力はないのである。
「信心正因」とは確固たる信を意味する語ではなく、なんまんだぶと称えることが出来るか出来ないかという意が「信心正因」という語の意味であった。浄土真宗の「信」とは、知の崩壊によってめぐまれる信であった。ありがたいことである。

wikiarcの信心正因の項

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浅原才市さんのうた

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浅原才市さんは、

仏智不思議を疑うことのあさまし
三十四年 罪の詮索するからよ
罪の詮索無益なり

罪の詮索せぬ人は
暖簾すがりかホタすがり
閻魔の前で いんま後悔
罪の詮索する人は
ここで金剛心をいただく

といわれている。
前段では、「罪の詮索無益なり」とされているのだが、後段では「罪の詮索する人はここで金剛心をいただく」とされている。
一見すれば矛盾するような言葉だが、これについて考察してみた。

「トーク:二種深信」

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たとひ大千世界に

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『浄土和讃』の、

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (讃阿弥陀仏偈和讃)

という句を真剣に聞法をすべき根拠という理解があるそうだが何を聞くのか明らかではない。
この和讃は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の漢讃を御開山が和讃したものである。(*) この和讃は二首を一対として領解すべきである。

もし阿弥陀仏の号(みな)を聞きて、歓喜し讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとなす。(讃阿弥陀仏偈)

(30)
阿弥陀仏の御名をきき
歓喜讃仰せしむれば
功徳の宝を具足して
一念大利無上なり (*)

たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。(讃阿弥陀仏偈)

(31)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (*)

なんまんだぶの名号を聞信し、歓喜し讃嘆したてまつれば、その功徳はわが身に具わり、たった一声(下至一念)の〔なんまんだぶ〕であっても涅槃をさとる無上の大利益をこうむるとという意が、
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」という和讃の意であった。なお、この句の元となった『讃阿弥陀仏偈』の「阿弥陀を聞けば、また退かず(聞阿弥陀不復退)」の文も、現生不退(聞名不退)の証左となったのであろう。
御開山の示される御信心とは、本願(第十八願)に示された選択本願の「乃至十念」の〔なんまんだぶ〕を念仏成仏の業因と聞信し受容することを信心正因というのであった。
この「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くべきは仏願の生起本末を全うした〔なんまんだぶ〕を称え聞くことであったのである。御開山が「真実の信心はかならず名号を具す(*)とされた所以である。

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徳大寺の唯蓮坊

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蓮如さんの『御一代記聞書』に、

一 徳大寺の唯蓮坊、摂取不捨のことわりをしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、夢想に、阿弥陀のいまの人の袖をとらへたまふに、にげけれどもしかととらへてはなしたまはず。摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなることと、ここにて思ひつきたり。これを引き言に仰せられ候ふ。(聞書P.1297)

とあるのだが、徳大寺の唯蓮坊という一段が判らなかったのだが、ネットは便利なもので唯蓮坊のエピソードを発見。

で、暇なのでwikiarcに記述してみた

→「徳大寺の唯蓮坊

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