選択本願

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wikiarcの「選択本願」の項に以下を追記。

選択本願

阿弥陀仏の四十八願の根本である第十八願において、衆生往生の行が選択されたという意。また、その第十八願を指して選択本願という。法然は『選択集』「本願章」において、称名念仏と諸行を「勝劣の義」「難易の義」(選択集 P.1207)によって論じ、選択の意義を述べている。 そして、衆生が修めるべき浄土往生の行について、難劣である諸行が選び捨てられ、勝易二徳をそなえた行である称名念仏が選び取られたのが第十八願であるとする。 さらに

弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択集 P.1209)

と述べ、いかなる者も修めることのできる称名念仏を浄土往生の行として誓う阿弥陀仏の選択の願心は、一切衆生を平等に救おうとする大慈悲心のほかならないことを明らかにしている。このように法然は念仏往生を誓った第十八願は平等の慈悲がまさしく具現したものであるとうけとめ、これを「本願の王」(選択集 P.1228)とも呼んでいる。(浄土真宗辞典)

法然聖人が四十三歳(1175)の時に善導大師の『観経疏』「散善義」の、

一心専念弥陀名号(いっしんせんねん-みだみょうごう) 行住坐臥(ぎょうじゅう-ざが) 不問時節久近(ふもん-じせつくごん) 念念不捨者(ねんねん-ふしゃしゃ) 是名正定之業(ぜみょう-しょうじょうしごう) 順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。(信巻で引文 P.221)

の一文によって回心されたことは有名である。→法然聖人の回心
それは、称名念仏を選び取る主体が自己ではなく、阿弥陀仏が本願に正定業しく往生の決する行)として選び定められてあった「順彼仏願故」の文に主体の大転換がされたからであった。「順彼仏願故の文たましいに染み心に留むるのみ」とされておられる所以である。この阿弥陀仏が往生の行として第十八願に称名念仏を選んであった意を二十三年後(1198)に浄土教の教義として述べられたのが『選択本願念仏集』であった。このように、選択本願という用語は、第十八願に誓われている称名念仏(なんまんだぶ)が阿弥陀仏の選択であることを特長づける言葉であった。
この意を継承された御開山は、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

と、『浄土論』『論註』の示唆によって、本願力回向の往相と還相の二回向を教・行・信・証としてあらわして下さったのであった。

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選択
大行・真実行
一願建立
三法門
五願開示
四法門
行信
安心論題/十念誓意

十劫安心

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fbで十劫安心についての投稿があったので、
wikiarcに十劫安心という項を記述してみた。
近頃の真宗の坊さんは、生かされて生きるとか、今、いのちがあなたを生きているとかのタームを連呼するのだが、これって信心なき真宗坊主の妄想であり、十劫安心の異安心だと、越前の林遊はおもふ。どうでもいいけど(笑

→十劫安心

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摂取不捨

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近頃の説教では、
なんまんだぶを説かないから「摂取不捨」という法語も、思い込むという自覚の範疇で説かれるのだが、原意は「念仏衆生摂取不捨」である。
仏語とは、一方的に阿弥陀如来→私というベクトルで語られるのであるが、自覚のレベルに落とし込んだ途端に解らなくなるのかな。といあえずwikiarcの「摂取不捨」の項に追記してみた。

→「摂取不捨」

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獲得名号自然法爾

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あるところで、
高田派の僧分の方が、「なもあみだ」と発音していたので、顕智上人書写本(自然法爾章の原典)をUPしてみた。
浄土真宗(教団名)では幕末の三業惑乱以来「信心」に対して究極的にまで考究した歴史があるのだが、明治期の近代思想に迎合して「信心正因 称名報恩」という名目で、虚心に、なんんまんだぶと称えて「本願を信じ念仏を申せば仏に成る」というご法義(仏法の義)を軽視してきた歴史がある。大谷派の近代教学とやらもそのような、門徒が称えてきた、なんまんぶの否定の歴史の上で解釈されるべきである。
本願寺派で一時もてはやされた「信心の社会性」という運動論もまた、わたくしの上に称えられるなんまだぶを。呪文としか見ることの出来なかった近代知性の営みであった。ある意味でのキリスト教的信心論であるが、教化者たらんとする真宗坊主の自我意識の発露であった。

→顕智上人書写本の「獲得名号自然法爾」

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別選所求

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御開山は、『教行証文類』の総序で、

浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

といわれておられる意を、wikiarcの「別選」の項に記してみた。これを書き出すと、林遊の性分で訳がわからなくなるので要点だけを記してみた。

→「別選」

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門余

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浄土真宗の僧俗は、
道綽禅師の聖浄二門判に依拠しているせいか、信心を強調するばかりで、御開山が御消息で「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」といわれた教判の意味を、ないがしろにしているかもである。
なんまだぶと称えるところに顕現する阿弥陀如来の浄土が判らんのやろな。どうでもいいけど。

で、年寄りは暇なので、林遊のネット上の勉強ノートであるwikiarcの「門余」の項を編集してみた。それにしても判りにくいな(笑

→「門余」

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御開山の読み替え

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本願寺派の註釈版聖典の秀逸なところは、
御開山の読み替えについての脚注があるところである。
もっとも御開山の意によれば、読み替えではなく信心の智慧によって読み切られたのであろう。

で、末代の門末の門徒は、和上方の指南によって、その御開山の意図をあれこれ詮索する楽しみがあるのであった。
wikiarcには、言葉に対してリンクを張る機能があるので、お聖教を重層的な視点から把握することが出来るので便利である。ほとんど林遊個人の勉強ノートのメモと化しているのだが、こういう門徒が一人くらいいてもよかろうと思っていたりもする(笑

ともあれ、御開山は聞いて知る、という如是我聞の「聞見」の人であった。
というわけで、御開山の読み替えを意図をwikiarcに追記。

→[道は色像…知んぬべし]

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念仏の行、水月を感じて昇降を得たり。

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「秋乾く」という季語があるそうだが、
秋には大陸の乾いた空気が流れ込むので、夜空の月が何時にもましてきれいである。

世間怱々(大経 P.58) として、心休まることが少ない現代人は、たまには秋の夜空を見上げて、月の光に思索にふける時を持てればと、思っていたりする。
というわけで、wikiarcの『選択集』の脚註「水月を感じて…」を編集してみた。

→「水月を感じて…」

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とみえたり

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蓮如さんの『お文』では、よく故事来歴を引かれる。

有名な「白骨の章」では、

おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。

と、「いへり」とされて『存覚法語』で引く、後鳥羽上皇の『無常講式』からの引用をされる。(*)

『お文』の二帖十一通の「五重の義」では、

この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

と、「みえたり」とあるのも、先人から承けたという意であろう。

と、いうわけで『お文』の、二帖十一通の「とみえたり」の引用について、WikiArcに新しく項を設けて記述してみた。

→「とみえたり」

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仰信

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ごうしん

一般に、神や仏などを信じることを信仰(しんこう)という。 これに対し、古くから浄土真宗では仰信(ごうしん)ということがいわれてきた。浄土真宗の信は、私が信ずるのではなく、「阿弥陀仏の信」を仰いで受動的に聞信するからである。
信仰という語は「仰いで信ずる」「信じて仰ぐ」と訓ずるように、信じるも仰ぐも、私を主体とする動作をあらわす動詞である。この信仰に対して、仰信とは「信を仰ぐ」として、信を動詞ではなく阿弥陀仏の他力の信を仰ぐから仰信というのである。
これを、先人は「信は仏辺(ぶっぺん)に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれていた。信心は自分の心の中にさがすのではない。「必ず救う」とおおせの本願招喚の勅命を聞きいれて、阿弥陀仏の摂取決定の信のたしかさを仰ぐのである。そして阿弥陀仏の慈悲は、わが身の煩悩罪障の中に味わうというのである。{─略─}

と、仰信の項をWikiArcに記述した。

→「仰信」

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