仏願の生起本末

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『浄土真宗辞典』の仏願の生起本末の項には、

阿弥陀仏の名号いわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。
仏願の本末とは、仏願の因果をいう意で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。

と「名号いわれ」とある。
最近の浄土真宗の坊さんの法話では、「信心正因」のドグマに幻惑されて、仏願の生起本末の語を自覚の意味の信心として説くのだが、行なき信は観念の遊戯に陥っているのかと思ふことがある。仏教とは行じて証すという「教行証」のご法義であり、行のない信のみの仏教はあり得ないのである。
ともあれ、WikiArcの、「仏願の生起本末」の項に追記してみた。

→「仏願の生起本末」
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疑蓋無雑

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WikiArcの疑蓋(ぎがい)に追記した。

 

ご信心

疑いの蓋

→「疑蓋」
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利他力

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某ブログへの投稿が「本文に含まれるURLの数が超過しています」 と撥ねられたので、自前のブログにしてみた。

浄土真宗は他力(利他力)のご法義ですから、阿弥陀仏の信心というのがあります。→(*)

阿弥陀仏が、他(衆生)を摂受することに、一点の疑いも無くハッキリしている阿弥陀仏の信心です。阿弥陀仏の信がハッキリしているので、浄土真宗ではわたくしの側でのハッキリした信を論ずることはしません。
阿弥陀仏がハッキリしているのにわたくしのハッキリをプラスするなら半他力ですね。

高森親鸞会の影響を受けている方は、高森親鸞会の教義の認知バイアスがかかっているので理解しがたいのでしょうけど、御開山のご著書を読むときには「約仏」で読まれると判るかもです。→(*)

なお、浄土真宗には「聞即信の一念」という表現はありません。
「聞即信」とは、聞いていることが即ち信心であることを意味する言葉です。阿弥陀仏の、これで必ず済度されるという信を聞信していることを聞即信というのでした。→(*)

一念とは、御開山によれば「行の一念」と「信の一念」があるのですが、お尋ねの一念は文脈からして信の一念と仮定するならば、信の一念には「時剋」の一念と「信相」の一念があります。こういう言葉の使い方の意味を辞書などを使って学んでみましょう。→(*)

自覚という語を使われてますが、本来自覚という語は仏教語であり「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」とあるように自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する言葉でした。→(*)

ともあれ、浄土真宗の全分他力のご法義では、わたくしが変わるではなく、曠劫以来変わらないわたくしに、なんまんだぶという言葉になって阿弥陀仏の可聞可称のご法義なのでした。→(*)

ほとんど理解できないと思ひますが、高森親鸞会で学んだハッキリする自覚の信と全く違う世界が、なんまんだぶと称えるご法義が、御開山の示して下さった信心の世界でした。要するにわたくしの信を離したときに、少しく窺えるのが、御開山が説かれた「信の世界」なのでしょうや。

「三品の懺悔」云云は、専である〔なんまんだぶ〕以外の雑行に固執する、高森親鸞会の専雑得失の雑行の十三失を誡める言葉でした。→(*)

『往生礼讃』の、

懺悔に三品あり。
上・中・下なり。「上品の懺悔」とは、身の毛孔のなかより血流れ、眼のなかより血出づるものを上品の懺悔と名づく。 「中品の懺悔」とは、遍身に熱き汗毛孔より出で、眼のなかより血流るるものを中品の懺悔と名づく。 「下品の懺悔」とは、遍身徹りて熱く、眼のなかより涙出づるものを下品の懺悔と名づく。→(*)

の文から御開山は、

真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまへり

と、和讃されたのだが、真実の懺悔は「称仏六字 即嘆仏即懺悔」の〔なんまんだぶ〕を称えることでした。

また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。→(*)

浄土真宗の信は〔なんまんだぶ〕と称える所から立つのですが、あほみたいな高森親鸞会の信を捨てたところから、真の求道があるのかもでした。

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みづからの善根において信を生ずることあたはず。

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御開山は『無量寿経』の罪福を説く胎化段を、異訳の『無量寿如来会』の文を引文されて、

みづからの善根において信を生ずることあたはず。 (*)

と、されておられました。
高森親鸞会では縦の線とか横の線とか、浄土真宗をプロセスとして捉えていますが、ご開山のお勧めは第十八願に誓ってある、

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。(現代語

の、阿弥陀仏の正覚と衆生の往生を不二とされたのでした。
真偽未詳といふか、ほとんど仮託した句ですが、林遊のように口の悪い一休宗純が、

極楽に さのみ用事はなけれども
弥陀を助けに 往かにゃなるまい

と詠ったといふ意も「若不生者 不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」の文からでした。
「業は願によりて転ず」という語が『往生要集』にありますが、「絶対の幸福を求める」という幸福は、一人の幸福はみんなの為に、みんなの幸福は私の為にという意かもです。 (*)

ともあれ高森親鸞会の宿善論の「信心獲得」の呪縛から逃れられてのはよかったですね。

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美しく齢を取りたいと言ふ人を

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美しく齢を取りたいと言ふ人を

アホかと思ひ 寝るまへも思ふ(河野裕子)

この句の作者は全く知らないのだが、いい句である。
昼の世間の付き合いや喧噪と離れて、夜の一人で床で寝入る時間は、一日の来し方を思索の時間でもある。
物書を生業とする輩は、言葉を操り本質から目をそらせることに、たけているので、自らの老醜を化粧によって覆い隠す術に長じているのであろう。
そのような、世間に面(つら)を出す前の、朝の化粧する鏡台の上のわたくしを見て、アホかと寝る前に思ふのであろう。
御開山は、陶淵明の『帰去来辞』を依用した善導大師の文を「証巻」「真巻」で引文されておられる。

帰去来   魔郷不可停
曠劫来流転 六道尽皆逕
到処無余楽 唯聞愁歎声
畢此生平後 入彼涅槃城

帰去来(イザイナム)、魔郷には停まるべからず。
曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。
到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎「生死」の声を聞く。
この生平を畢(お)へてのち、かの涅槃の城に入らん

この文の「愁歎」を御開山は「生死」として引文(原典版)されておられるのだが、現代の長生きという世相にてらせば、愁歎や生死の語は「老愁」とでも表現できるかもである。
ともあれ、河野氏の「アホかと思ひ寝るまへも思ふ」という句は、法然聖人が寝る前に

阿弥陀仏と十こゑとなへてまとろまん
なかきねむりになりもこそすれ (『全書』和語灯録p.685)

と詠われた意(こころ)を想起せしめるのであった。我々が口になずんだ「正信念仏偈」の、

本願名号正定業(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である)

であった。いのち終わって往くべき浄土を持たない人は可哀想である。
「美しく齢を取りたい」という方には申し訳ないのだが、やがて訪れる死を考察しないならば「アホかと思ひ寝るまへも思ふ」である。
死ぬことが許容されない現代社会では、痴呆になってベッドの上で胃婁を処されて生物としての「生」を受け入れる選択肢しかないのだが、生をリセットして新しい生がめぐまれるという

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

という、往相・還相を説く、浄土真宗のご法義の上でいえば、死は新しいわたくしの再生であり、還相はいのちを繋ぐリレーであった。往相・還相という概念は、そのような意味によって理解されるべきなのだが、存在のゼロポイントという基底から、浄土教を考察されたのが御開山親鸞聖人であった。

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安芸の蓮崇

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浄土真宗の門徒が拝読(声に出して読む)するお文(御文章)を、教化に使うことを発意したのは『天正三年記』によれば、安芸の蓮崇であった。

越前の吉崎の御坊にて彌(いよいよ)佛法ひろまり申し候て、「御文」を御つくらせさふらふ事は、安藝法眼申させさふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡の者の、はやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び、百の物を十に選ばれ、十の物を一に、早く聞分申樣にと思しめされ、「御文」にあそばしあらはされて、凡夫の速かに佛道なる事を、おほせたてられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化、今一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事に候也。 (『天正三年記』p.637)

蓮崇は、真宗の坊さんによって破門された悪人と言われる事が多いのだが、北陸の地で爆発的にご法義が伝わったのは在野の門徒のパワーによる面も多々あったのであろう。浄土真宗は「在家仏教」であったからである。

と、いうわけで、wikiarcの「安芸の蓮崇」の項に追記。

「安芸の蓮崇」

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聴聞

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言葉は受容する側の態度によって変遷するという意で、

「お聴聞とご聴聞」(*)

というタイトルでブログ(WebをLogする)を記したこともあるのだが、某所で聴聞という語について考察していたのでwikiarcの「聴聞」の項に追記してみた。
御開山は、関東の門徒にあてた『一念多念証文』や『唯信鈔文意』で、

ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

と、「文字のこころ」という語を使っておられるのだが、文字のこころとは、個々の漢字の持つ多義的な概念を指すのであろう。御開山の主著は漢文の『教行証文類』であるが、読み下し文だけでは御開山の見ておられた世界は判らないし、漢文を直読してもなおさら意味が不明だ(笑
とりあえず、個々の語によって窺うしかないのでが、聴聞という語について考察してみた。

→「聴聞」

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幸西成覚房の教学

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先日のwikiarcの「八万四千の法門」で、幸西大徳にふれた。

幸西大徳は鎮西派の『法然上人行状畫圖』第二十九などでは、

比叡山西塔の南谷に、鐘下房の少輔とて、聰敏の住侶ありけり。弟子の兒にをくれて、眼前の無常におどろき、交衆ものうくおぼえければ、三十六のとし遁世して、上人の弟子となり、成覺房幸西と號しけるが、淨土の法門をもとならへる天台宗にひきいれて、迹門の彌陀、本門の彌陀といふことをたてて、十劫正覺といへるは迹門の彌陀と。本門の彌陀は無始本覺の如來なるがゆへに。我等所具の佛性と、またく差異なし。この謂をきく一念にことたりぬ。多念の遍數、はなはだ無益なりと云て、一念義といふ事を自立しけるを、上人、此義善導和尚の御心にそむけり。はなはだしかるべからざるよし、制しおほせられけるを、承引せずして、なをこの義を興しければ、わが弟子にあらずとて、擯出せられにけり。  (*)

などと、法然聖人から破門されたなどの非難を浴びせているが、これは一念義を排斥する為の多念義の宗風の鎮西派からのいわれなき中傷であろう。
幸西大徳の教学については、梯實圓和上の『玄義分抄講述』に詳しく、その一部をUPしてある。 →「幸西大徳の一念義
幸西大徳は非常に御開山と近い思想であり、「八万四千の法門」についても御開山と同じなので、『玄義分抄講述』から「(四)教法の開示」をUPした。
旧漢字を使っているので読みにくいかもしれないが、《「門餘八萬四千」トイハ一乘ヲ加テ餘トス。》 以下だけでも読めば、御開山が「八万四千の仮門」といわれた意が領解できるであろう。

→「第二講 序題門

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智慧の念仏

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蓮如さんは『御一代記聞書』で、

聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

とお示しである。
しかし『教行証文類』は難解なので、どうしても先達の解釈や注釈を参照したくなる。
そのような意味では、本願寺派の註釈版の『浄土真宗聖典』は、脚注が豊富なので在野の門徒にはありがたい。

と、いうわけで御開山の『述文賛』の引文についてwikiarcで考察してみた。ネットで「大正蔵経」を見ることが出来る現代と違って、八百年前に生きられた御開山は聖典へのアクセスはかなり不自由な環境にあられた。
そのような意味では、所覧本の写誤による御開山の誤読ともいえるかも知れないのだが、信心の智慧によって生死を超える道を示して下さったのはありがたいことである。御開山にとっての信心は、仏陀のさとりを内包しておられたのであろうとさえ思ふ。ありがたいことである。

→「つぶさに…たまへるなり

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八万四千の法門

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蓮如さんは、お文の「八万の法蔵章」で、

 それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。

と、いわれている。
ここでの「八万の法蔵」とは、釈尊の説かれた八万四千の法門を指し、たとえ愚かな凡夫であっても、自らの死んで往く後世(ごせ)を知る者は智者であるとされる。
これは法然聖人の示された、

 聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。

の意を承けたものであろう。

さて、この「八万四千の法門」について、御開山はかなり特別な釈をされておられるので、この意をwikiarcの「八万四千の法門」の項に加筆し追記してみた。

→「八万四千の法門

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