wikiarcの『法然上人伝記』に追記。
大正6年に真言宗醍醐三宝院で発見された『法然上人伝記』、通称、醍醐本である。「一期物語」「禅勝房との十一箇条問答」「三心料簡事」「別伝記」「臨終日記」「三昧発得記」からなる法然聖人の伝記、法語等からなる書である。勢観房源智上人(1183-1238)またはその弟子が書き記されたといわれる。源智上人は、13歳のとき法然聖人の室に入り、常時随従して秘書的役割を担ったとされる。また、法然聖人の最晩年の念仏の領解を述べられた、『一枚起請文』を授けられている。
梯實圓和上は自著『法然教学の研究』のはしがきで、
江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。
と、仰っておられた。ことに「三心料簡および御法語」の法然聖人のご法語の趣旨を拝読するに、親鸞聖人独自の「己証」とされている中には、法然聖人から承けられた法門の発揮があると思ふ。たとえば『歎異抄』第三条で喧伝される御開山の悪人正機説「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」も、「三心料簡事」では「善人尚以往生 況悪人乎事〔口伝有之〕 」と、法然聖人の口伝の法語としてあるのであった。御開山の著述は重層構造だから難解なのだが、梯實圓和上の示されたように、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などを拝読すれば、御開山と法然聖人の浄土仏教解釈の共通点が明らかになると、〔なんまんだぶ〕を称えるだけの愚鈍な林遊のような門徒は思ふ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→『法然上人伝記』