生まれたなら死ぬのはあたりまえ

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越前では夜伽(通夜)の席では、お文(御文章)の四帖九通目の「疫癘の章」が拝読される。

 当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。 (*)

伝染病(疫癘)によって次々と人が死んでいくのに「生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり」との仰せである。
このお文の趣旨の元であろうと思われる御開山の御消息にも、飢饉で次々と人が死んでいく状況のもとでの、お手紙(御消息)がある。

 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。 (*)

両者に共通するのは、人は、生まれたからには、死ぬのはあたりまえである。どうしておどろき たじろぐことがあろうか。人々の死を驚き嘆くならば、それを縁として、いそぎ自らの生死の解決をすべきであろうというのであろう。
人は何故死ぬのかと云えば、生まれたからであり、生まれた(因)からには死ぬ(果)のは当たり前である。最近は死の判定は医師以外は出来ないという風潮からかマスコミでの「心肺停止」という言葉をよく耳にする。死の三兆候として心拍停止、呼吸停止、対光反射停止という基準があったのだが、臓器移植推進のせいか、最近では死ぬことも難しい社会になったのかもである(笑

夜伽(通夜)の晩には、同行衆の『正信念仏偈』『和讃』読誦の後で、「疫癘の章」のお文を拝読する。かっては、同行、老人会、集落、垣内のお勤めが4回もあった。そしてお文も、それぞれの代表の門徒が読み上げたので、村落社会にいる者にとっては、お文を読めることが必須のアイテムであり、どれだけ地位や金があっても、お文を読めなければ莫迦にされていた。
そして、葬儀が済んで納骨が終わった後の勤行で、朗々と読み上げられるのが「白骨のお文」(*)であった。
稲城選恵和上は、日本人にとって最高の弔辞は「白骨の御文章」である、と仰っておられたが、先立つ人が、身をもって「後生の一大事」を示して下さるのであった。
ともあれ、白骨章の文は、耳にタコができるくらいに聞かされたのだが、文中の「あはれといふもなかなかおろかなり」を、蓮如さんが上から目線で、死んでいく意味を知らない奴は、あはれ(哀れ)でアホ(愚か)というのだと思い、偉そうな奴やなと思っていたのだが、本願寺派の「注釈版聖典」の脚注を読んで林遊があほだったということを知った(笑
そんなこんなで、大谷派と本願寺派の聖典の流布という意味では、本願寺派の言葉の意味を示す脚注付の『註釈版聖典』には、大谷派は圧倒的に敗北してると思ふ。
そもそも、大谷派の坊主は真面目に『教行証文類』を読んでいないし、あほみたいな往生浄土無き「近代教学」に嵌っているから、御開山が描いた浄土を知らないのであった。宗名に「浄土」がないのが、その証拠であろう(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

もし念仏するのもは

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wikiarcのトップに、

もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。

という画像を貼っている。
宮沢賢治は、「法華経」に説かれる常不軽菩薩を理想としたそうだが、浄土真宗の家に生まれた彼には、聴聞の場で、なんまんだぶ、なんまんだぶと称える愚昧な門徒こそが、「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり(若念仏者 当知此人。是人中分陀利華)」だということにまで理解が及ばなかったのであろうか。
これこそ、なんまんだぶの法を伝えることを懈怠した真宗坊主の怠慢なのだが、御開山が『華厳経』と『涅槃経』を引いて、

信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ (*)
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり (*)

と、された、なんまんだぶを称える信心は仏性であるから、互いに尊重してお互いの仏性を礼拝する心持で接するのが、浄土真宗における常不軽菩薩の精神であろう。
かって、本願寺派では「信心の社会性」という語で教団をリードし改革しようという試みがあった。しかし、信無き社会派の坊さんを量産するだけであった。
僧侶としてのアイデンティティー(主体性)を、浄土を目指す「念仏往生の本願」におくのではなく、世俗社会の中に求めようとした結果である。社会という近代の概念に幻惑されて、浄土を喪失した坊主の「成れの果て」であろう。
浄土教は、此土と彼土の二元論に立脚する宗教であり、一元的に把握する宗教ではない。浄土において/浄土を目指すことにおいて、自己の存在の意味を知る仏教である。本願力回向という仏陀のさとりの世界から届く、称えて聞く、なんまんだぶを知らないから、御開山が示して下さった「現生正定聚」という世界を知らないのであろう。
なんまんだぶと称える行為は、現に私の上に仏陀のさとりの世界が顕現しているのであり、それを御開山は現生正定聚といわれたのである。
ありがたいこっちゃな。

なんまんんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「正定聚」

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声

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『教行証文類』を拝読していると、時々、ん? となる。
林遊は好奇心のかたまりであるから、一度気になると脳内がもやもやして気持ちわるいので納得のいく解が欲しくなる。
そんなこんなで、「行巻」で引文されておられる『往生礼讃』の文の末尾に、

智昇法師の『集諸経礼懺儀』の下巻は善導和尚の『礼讃』なり。これによる。(*)

と、ある語が気になったので、wikiarcに追記してみた。
好奇心の無い者は、たとえ若者であっても老人と呼ぶのであり、好奇心のある者はたとえ百歳であっても若者と呼ぶそうだが、死ぬまで好奇心を大事にしたいものである。「法門無尽誓願知(法門は無尽だが、すべて学び尽くそう)」、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「若我成仏…」

願行具足論

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wikiarcの「別時意」の項に、善導大師の願行具足論を追記。

面白いことに御開山は願行具足論を使われないのだが、こういうところが勉強になる。

願行具足論

この摂論学徒の往生別時意の論破が善導大師の願行具足論である。(玄義分p.324)

『摂大乗論』では、「唯だ発願するに由りて安楽仏土に於いて、(かしこ)に往きて生を受くるを得」(*)という経の文は別時意であるとする。それを釈した『摂大乗論釈』では「譬えば、一金銭を営むに由つて千金銭を覓(もと)めて得るとは、一日に千を得るには非ず、別時に由つて千を得るが如し。如来の意もまた爾なり。此の一金銭を千金銭の因と為す。仏名を誦持するもまた爾なり。退堕せずを菩提の因と為すなり」(*)と、今の称仏は、遠い未来 (別時)に得ることをすぐに得られるように説いた方便説であるという。たとえば日に一の金銭を蓄積すれば、やがて未来に千の金銭を得ることができるようなものだとする。称仏の果を得るのは遠い未来のことだというのである。
それに対して善導大師は、たしかに願のみでは「遠生のために因」であるといえるが、『摂大乗論』では、願について論ずるのみで、行について論じていないから後の摂論学徒は誤解したのだとする。善導大師は、「今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする」と「凡小の論にすなはち信受を加へ」と仰信の強烈な言葉を発している。
そして、有名な六字釈

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。

「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(玄義分p.325)

と、南無阿弥陀仏と称えることは、南無は帰命という「願」であり、阿弥陀仏とは第十八願の乃至十念という阿弥陀仏が選択された「行」であり、南無という「願」と阿弥陀仏の「行」が具足しているから、必得往生(ひっとく-おうじょう)、必ず安楽仏土へ往生するのだとされた。
また、浄土へ往生するということは、正報(仏陀と成ること)ではなく、依報(仏の報仏国土)を目指すものであるから、摂論学徒は、この点でも『摂大乗論』の意図を誤解しているのであると論破された。なお御開山の六字釈(*)は、この善導大師の六字釈を元に本願力回向の立場で解釈されておられ、願行具足論は使われていないので注意すること。

参照→「六字釈」

wikiarcの「別時意」の項に追記。

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入法界品

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『華厳経』入法界品の菩提心の譬喩(*) を国訳に随って読み下し文を入力しようとしたが、数えたら117個もあるし、定型文なので漢文でもわかると思ひ中止(笑

御開山は、この『華厳経』六十巻の結論である、

【34】 『華厳経』(入法界品・晋訳)にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。(*)

の文を、信楽釈で、さらりと訓点を代えて引文しておられる。阿弥陀如来の菩提心である信心を聞いて疑い無き者は、速やかに無上のさとりを得るというのである。浄土真宗の信心とは阿弥陀如来の仏心が私のものになったということである。
そして、唐訳の『華厳経』を引いて、

【36】 またのたまはく(華厳経・賢首品・唐訳)
「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。……

以下、信を讃嘆する文を引かれる。
これは明らかに、華厳宗の「初発心時 便成正覚」の信満成仏説を意識して引文されたものであろう。
もっとも、華厳宗の相即相入の教理の意図とは違い、本願力回向によって回向される、仏心であるような信楽であることを立証されたかったのであろうと思ふ。御開山は、ほとんど人跡未踏の領域に達しておられたのである。
ともあれ、お聖教を拝読していると、こういう御開山が見ておられた世界が一分でも窺えるので、なんまんだぶの味が深くなるのでありがたい。
林遊は在家だし不惑を過ぎてお聖教を開いたので、全く仏教学や真宗学には素養はないのだが、日渓法霖師の、

今宗の学者、 大蔵中の三部を学ぶなかれ、 須く三部中の大蔵を学ぶべし。 三部は根本なり。 大蔵は枝末なり。 今の人、 三部を以て小となし、 大蔵を大となす、 謬れるというべし。

の指示によって、御開山の引文を眺めて、その出拠を拾い出す作業をすることは楽しい学びではある。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

『華厳経』入法界品の菩提心の譬喩

念仏別時意

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善導大師の有名な六字釈

「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

を、善導大師がしなければならなかった『攝大乗論』と『攝大乗論釈 』の該当部分をUPしたページを更新してみた。

これで思ひ出すのが、高森親鸞会の高森顕徹氏の「現代の教行信証」とされる「会報」の文である。かって脱会した幹部から入手した文書を斜め読みしてたところ、

別時意趣とは、無著菩薩の書かれた『攝大論』の中に、佛の説法に四趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。

という文に行き当たって、頭を抱えた(笑
この一段は、高森親鸞会の講師もブログで引文していたので、ネットで突っ込みを入れたら何故かブログごと削除されてしまった。
たぶん高森顕徹氏が、意味も判らずに他の書物から書き写したとき、乗と朱、意と悪を写し間違えたのだろう。 まともな真宗の者なら、六字釈の論破の対象となった『攝大乗論』や「四意趣」という言葉を間違う筈はないのである。
それにしても、数十年の間、誰もチェックしなかったというのは、高森親鸞会の仲間うちで蓮如上人以来の善知識であるという高森顕徹氏の権威に、誰も反論できない空気があったのであろう。これこそ善知識頼みの弊害である。裸の王様に、あなたは裸ですと言えないのであろう。

真宗の布教使も、時々意味不明な言葉を引用するのだが、林遊のような門徒としてはその文言の出拠を言え、と突っ込みたくなるのを我慢していたりするのであった。
坊主を育てるのは門徒の仕事ともいわれるのだが、門徒の声に耳をかさない坊主は困ったものではある。

なんまんだぶ なんまんまんだぶ なんまんだぶ
『摂大乗論』、『摂大乗論釈 』の別時意釈

何を信ずるのか

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時々、我、何をなすべきかと、我、何を信ずべきかをごっちゃにして浄土真宗の御法義を語る方がいる。
何を信ずるかという時と、何をなすべきかという時では論理の立て方の意味が違う。しかしこれを一緒にして考えるから訳がわからなくなるのだろう。こんなものを一緒にする方がおかしいのである。
何を信ずるのかは、本願の《言葉》を信ずるのである。具体的には第十八願の、

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

現代語:
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。 (*)

の「本願の言葉」を信ずるのである。

何をなすべきかと信ずるのは、「行に就きて信を立つ(就行立信)である。阿弥陀仏が、私の名である〔なんまんだぶ〕を称えながら生きていきなさいというのである。〔なんまんだぶ〕が本願に選択された往生浄土の行であると信ずるのである。
そのような意味では、浄土真宗は「本願を信じ念仏を申す」という非常に判りやすい、信と行のご法義なのである。我、何を信ずべきかは、本願の言葉を信ずるのである。我、何を行じて生きていくかは〔なんまんだぶ〕の行を称えて生きていくことである。
これを、ごっちゃにするから、御開山は「行に迷ひ信に惑ひ」p.131 と仰ったのであった。

時々、阿弥陀様が判りません、信じられませんという同行がいる。これは信ずる対象が間違っているのである。阿弥陀仏を人格的にとらえて、その人(仏)の存在が肯えたら信じましょうというのである。
そもそも、さとりの「さ」の字も知らない凡夫が、真如法性を体としている阿弥陀如来が、判る筈がないではないか。

御開山は、『唯信鈔文意』で、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。p.709

と、示して下さっているのだが、色も形も無く、心も言葉も及ばない言亡慮絶した法性法身の阿弥陀仏が判るはずがない。判ろうとするのが、そもそも間違いなのである。
とはいえ、全く手掛かりがないのではない。それは、真如法性の世界から、我が名を称えよ、と届いている阿弥陀様の呼び声であった。これが可聞可称の〔なんまんだぶ〕であり、これが浄土真宗の救いの法なのである。

御開山は「行巻」で、元照律師の『弥陀経義』から、

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。  (*)

を引文されておられるが、阿弥陀如来は、名をもって我を救いたもうのである。なんまんだぶ なんまんだぶと、阿弥陀如来の呼び声を称えて聞いていることが、もうすでに私は阿弥陀如来の救済の目的の中にいるのであった。
阿弥陀如来の衆生済度の目的を、外から眺めているときは如来と私の対応関係が気になるのだが、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて私が阿弥陀如来の目的の中にいることを信知したとき、私は、摂取不捨の救いの中にいるのであった。
なんまんだぶつが出来たから、我が案ずることはないのであった。ありがたいこっちゃな。

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観心為清浄円明事

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資料サイトに解脱上人貞慶の「観心為清浄円明事」をUPした。その前書き。

 

解脱上人貞慶は、法相宗の学僧で最初の念仏弾圧事件を引き起こした『興福寺奏状』の起草者といわれる。貞慶は、学徳兼備の名僧として人々から尊敬され戒律の再興に力をそそいでいた。そのような貞慶にとっては、法然聖人の破戒・持戒、有智・無智、善・悪を問わず念仏を専修して浄土へ往生するという教えはとうてい理解できなかったのであろう。
貞慶は、この「観心為清浄円明事」で「出離の道は取(う)ける身の惘然として其の法を聞かざるに非ず、ただ其の心〔清浄円明な菩提心〕の発(おこ)らざるなり。是れ則ち機の教と乖(そむ)き、望みと分と之に違(たが)ふの故か。心広大の門に入らんと欲すれば、我が性堪えず、微少の業を修せむと欲すれば、自心頼み難し、賢老に遇ふ毎に問ふと雖も答へず」と、いっている。
真摯に仏道を修行している貞慶は、菩提心の発らぬことを歎き、機と教が合わないのではないかと「賢老に遇ふ毎に問ふと雖も答へず」と述べている。賢い先輩にあう毎に問うのだが誰も答えてくれる人はいなかった、といっていることから貞慶の信仰は生涯動揺し続けていたのであろう。
梯和上によれば、この問に答えてくれる人は、たった一人、法然聖人だけだったのである。法然聖人もまた同じような求道上の機と法の乖離の悩みを持っていたからである。貞慶はその問に答えるべき法然聖人を敵にまわしてしまったのであった。→「法然聖人の回心」を参照
この、死の半月前に口述された「観心為清浄円明事」では、「予は深く西方を信ずる」としているから、いつしか「但だ予の如き愚人は観念に堪えず」と述懐していた貞慶も浄土教に帰順したのであろう。
しかし、それは選択本願の本願に選択された〔なんまんだぶ〕を称える法然浄土教ではなく、また「学者性相の疑に同ぜず。世人一向の信に同ぜず」という自己の属する法相宗学にも無い貞慶独自の考える浄土教であった。 そして、「真実の正因正業は〔聖衆の来迎の〕瑞相を見て後に希有の心〔正念〕を発す。或は略法を開き、或は被(こう)むる所に依って、暫時と雖も大乗の心〔清浄円明な心〕に住すべし。然る後に正しく浄土に生ずべきなり。其の瑞相不思議と併(なら)びて是れ仏宝法宝不思議なり。」
と、聖衆の来迎によって正念を発し、そこで大乗の心〔清浄円明な菩提心〕に住して往生すると領解していたようである。その意味では、貞慶は生きているうちに〔清浄円明な菩提心〕を決定(けつじょう)できず、結局は臨終の聖衆の来迎に一縷の望みを懸けていたのであった。
法然聖人の示された、生前に信と疑を決判し、現に救いの法が〔なんまんだぶ〕と称えられ聞こえている選択本願念仏の信心に到達できなかったのであった。
聖道の菩提心とは、御開山が述懐されたように、
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
であったのである。自力の菩提心は、尊いことではあるが、機と教が乖離していては真のさとりへの階梯ではなかったのであった。御開山が「しかるに菩提心について二種あり」(*)として本願力回向の横超の菩提心を別立した所以である。
トーク:観心為清浄円明事に現代語あり。

観心為清浄円明事(心は清浄にして円明たるを観ずる事)

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

いはれ いわれ 謂れ

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wikiarcに「いはれ」の項を追加した。

いはれ いわれ 謂れ

(由来として)いわれていること。物(モノ)と事(コト)の成り立っている筋道、由(よ)って来たるわけ、理由、来歴。なお一般には〔寺のいわれ〕などのように事物の由緒の意で使う場合もある。
浄土真宗では、『教行証文類』信巻p.251の、

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

の文によって、聞くとは、仏の願いを聞いて疑う心の無いことを「聞」という。この疑い無き聞が信である(聞即信)から、本願のいわれを聞くことを特に重視する。「疑心あることなし」とは、私のはからいが、無いありさまをいい、信心を私の側にみないということである。これが「すなはち本願力回向の信心」であった。
「生起」とは、阿弥陀仏があらゆる衆生をさとりの界(さかい)である浄土へ往生させようという本願(仏願)を起こされた根本の意図である。本末の「本」とは、阿弥陀仏が本願を成就された因本の修行の意である。「末」とは阿弥陀仏の本願と修行が既に成就して、私に届いて称えられ聞こえている〔なんまんだぶ〕が、さとりの浄土へ往く衆生済度のはたらきをしていることをいう(果末)。
この「仏願の生起本末」を、本願のいわれといい、浄土真宗では、このいわれを聞くこと、つまり聴聞することを御恩報謝の行業として最重要視する。凡夫には、広大な仏陀のさとりの世界は眼で確認(眼見)することは出来ないが、耳で聞く(聞見)ことによって信知することができるのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。

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二河白道の画像検索をしたら自宅にある構図と同じ画像があった。
林遊という法名を欲しさに度牒を貰ったのだが、その時に爺さんの奨めで在所の同行に配った複製画像である。

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二河譬はビジュアルな表現なのでインパクトが強く誤解されやすいのだが、「いまさらに行者のために一つの譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」とあるように、いわゆる譬えである。p.223
浄土真宗は信心を強調するので、ともすれば信心の対象である〔なんまんだぶ〕が忘れられることが多い。
当ブログの「汝一心正念にして直ちに来れ」でも書いたのだが、ここでの正念とは〔なんまんだぶ〕の意である。

御開山は、『浄土文類聚鈔』では、その意を明確に、

【33】 これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」(散善義 四六七)と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」(散善義 四六八)と。{略出}

【34】 ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。……以下転釈 (*)

と、正念は〔なんまんだぶ〕であるとされておられる。

なんまんだぶ なんまんだぶ要するに、〔なんまんだぶ〕を称えた者を迎えとるという本願の勅命を一心に受け容れて、〔なんまんだぶ なんまんだぶ〕と称えて来いということである。
これが、御開山の仰る、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」(*) というご信心であった。
信心正因の言葉に幻惑されて、信心の対象である可聞可称の「なんまんだぶ」を等閑にする浄土真宗の僧俗が多いのは困ったものである。

 

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ