有漏路(うろじ)から 無漏路(むろじ)へかえる 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け。
この句は一休宗純のものだと伝えられている。有漏(うろ)とか無漏(むろ)とはあまり聞かない語であるが、漏とは仏教で、漏れ出ずるもの、汚れを意味し煩悩のことである。この煩悩が有る状態を有漏といいい、無い状態を無漏という。
一休禅師は、煩悩が充満するこの世(有漏路)から、煩悩の寂滅したさとりの世界(無漏路)へかえる自己の境地を自分の名を詠みこんで「一休み」としたのであろう。仏教で迷いとは目指すべき方向が判らないことを迷いという。一休禅師のような禅門では、目指す処、かえるところが判れば、あとは「雨ふらば降れ 風ふかば吹け」であろう。
良寛禅師が大地震の見舞いに「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬる時節には死ぬがよく候 是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」とされているのも同じ意であろう。
さて、この有漏と無漏は修飾語としても使われる。有漏智(有漏の煩悩より生じた智)と無漏智(煩悩の無い領域から生ずる智)や、有漏善(煩悩から生じた善)、無漏善(煩悩の雑わらない善)などである。
浄土真宗は、本願力回向の全分他力のご法義という。これは阿弥陀如来の大願清浄の報土へ往生することは、凡夫の修す有漏の善では不可能であるということを意味する。
人間のなす行為は有漏であり、
「有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく」(*)
なのである。
かって、浄土真宗に善の勧めはあるか?、などとあほなことを問題にしていた団体があった。浄土真宗とは往生浄土の真宗という意味であるから、さとりの世界である無漏の浄土に往生するには有漏の善では不可である。
ゆえに、阿弥陀如来は、
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(*)
と、無漏である、至徳の尊号である「なんまんだぶを」を、如来の至心として回施して下さったのである。これが「本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)」(*)であり「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(*)ご法義であった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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