江戸末期に大谷派の学僧である一蓮院秀存師(1789-1860)という方がおられた。各宗の教義を学んだ兼学のすぐれた浄土真宗のご法義の篤い学僧であった。
その秀存師に『秀存語録』という書物がある。その中の「弥陀をたのまぬといふは如何」という一文が面白いのでUPしてみる。
この「たのむ」という語は、浄土真宗にとっては大事なキーワードなのだが誤解されやすい言葉でもある。
御開山は南無阿弥陀仏の六字釈で、南無は帰命であるとし、帰命の訓に「ヨリタノム」とされている。「依る」と、「憑」という漢字の、もたれかかるという意味のある「憑(たの)む」で、依り憑むということである。
この依り憑むとは、たとえば椅子によりかかるということをいう。この場合に自分の身体全体を、椅子にまかせるのである。まかせた時は、自分は力を抜いて、支えてくれる椅子に自分の全てを任せているので「よりかかる」という。その、よりかかっている状態を、よりたのんでいるというのである。これが、依り憑むという意味である。自然法爾の法語で、「南無阿弥陀仏とたのませたまひて」のたのむも同意である。
しかして、この「たのむ」ということがいかに困難であるかを示すのが下記の文章である。
弥陀をたのまぬといふは如何
問云、弥陀をたのまぬといふは如何。
答云、わが意をあきらかにせんとおもふ意も弥陀をたのまぬなり。気安くなりてたすけたまはんとおもふも弥陀をたのまぬなり。今度はわがむねがさつぱりしたとおもふて、よろこんであてにするも弥陀をたのまぬなり。
まかせた後生をとりもどすも弥陀をたのまぬなり。取かへすくらひゆへ、まことのことにあらずとおもふて、まことのことになりたひと我こころを長く世話にするは、なほなほ方角ちがひへおもむくなり。
これらの心は、引やぶり引やぶり、引やぶり引やぶり引やぶり、この引やぶりかねたる心も引やぶり、やれ引やぶりたるぞとなづむ心も引やぶり、この方から引やぶらんとおもふも自力乎。
本願名号のいはれを思ひ、そのいはれより引やぶらせていただくべきもの也。
絶対他力ということは、常に自らの内なるはからい(自力)を否定していくことである、と仰った方がおられたが、自らのはからいを否定し、否定しようという心も否定した「百非の喩へざるところなり」が、本当に弥陀をたのむということであろう。それはまた、行なき信を求める自力信心の人が陥る陥穽でもあろう。
しかし、如実のなんまんだぶを称える念仏の行者には、光明名号摂化十方と疑蓋無雑(疑いの蓋を雑じえない)の阿弥陀如来の《ご信心》の月は浩々と照って下さるのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ