おおせに従うより手はない

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浄土真宗は「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と『歎異抄』の著者が記しているように実にシンプルな教えである。
もっとも『歎異抄』の場合は約生(衆生の側からの言い方)表現であるから、約仏(仏様の側からの表現)でいえば「信じさせ称えさせて迎えとる」である。御開山の『教行証文類』は、ほとんど約仏で書かれている。御開山は、阿弥陀仏の救いを阿弥陀仏の側から語っておられるので『教行証文類』は難解な書だといえる。

さて、御開山は、『歎異抄』で「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」と云われている。
「弟子一人ももたず」ということは、自らが人師の立場を否定すると同時に、一人の念仏者として阿弥陀如来の前の立っておられたからであろう。
浄土真宗では聴聞を重視するので、どうしても法を説く人師の言葉に囚われてしまいがちである。それへの誡めとして、自戒もこめて梯實圓和上の「妙好人のことば」から引用してみる。

 

 お浄土をもってござる仏のおおせにしたがうよりほかに手はない。

 庄松に信心のありさまを伝えるいくつかのエピソードがあります。
川東村の勝光寺の坊守(寺の奥さん)は、のちに敬信院禅尼とよばれ、四国ではじめて女性の布教使になった方ですが、彼女がまだ法義にまどうて悩んでいたころのことです。

 近くの仏照寺へいって、自分のお領解をのべ「これで往生できましょうか」とたずねたら、「それでよい」といわれました。その日はよろこんで帰ったのですが、二、三日するとまた不安な気持になったので、今度は得雄寺へいき、まえと同じようにお領解をのべて「これでよろしいか」というと、住職は「それじゃいかん」とにべもなく否定しました。

 同じようにお領解をのべたのに、仏照寺はいいと答え、得雄寺はいかんといったものですから、この坊守はいよいよ迷うてしまいました。そんなときある同行のすすめで庄松にあったのです。
「仏照寺さまと、得雄寺さまと、どちらのおことばを信用すればいいのでしょうか」

 すっかり信仰の迷路のなかにさまよいこんでいる彼女に対して庄松はいいました。
「仏照寺さまも得雄寺さまもお浄土はもってござらぬ。そのもってござらぬ人のいうことに迷わずと、お浄土をもっておられる仏さまの、必ずたすけるといわれるおおせにしたがうよりほかに手はないではないか」

 この一言で坊守は、はじめて本願に心が開かれたそうです。
まことに真宗の安心の要をいい得て妙といわねばなりません。信心とは、自分の信仰体験を信ずるものでもなければ、人のことばを信ずることでもありません。わがいのちの行方について、何一つ思い定める力をもたないわたくしを、必ず救うて浄土にあらしめるとよびたもう大悲招喚の勅命を聞受するほかにわが心の定まる道はないのです。勅命のほかに領解はない。庄松はそれをあざやかに云い切っているわけです。
{後略}

面白いことに、この仏照寺も得雄寺も違ったことは言っていないのである。
仏照寺さんは、坊守のお領解を聞き「あなたの言うとおりです」と肯定したのであり、得雄寺さんは、「あなたがお領解の通りになっているなら、私に聞きにくる必要はないだろう」と否定したのである。 気がつけばどちらも正しいことを言っているのだが、人の言葉に惑わされると、この坊守のように惑うのであろう。
家のじいさんは、「お聴聞は、言葉を聞くんでないぞ、言葉の響きを聞くんだぞ」と常日頃言っていたものだ。布教使の言葉を聞くのではない、布教使の言葉を通して聞こえてくださる広大な阿弥陀如来の弘誓の願いを聞けということであった。

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同居の土

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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御開山のおっしゃる事はほとんど人知を超えてるな。
そもそも往生即成仏などと云われる浄土ってわけが解らん。
というわけで、莫迦の林遊にも判りそうな「同居の土」をWikiArcの欄に追記してみた。

 

天台宗では、阿弥陀仏の浄土は凡夫と聖者が混在しているので「凡聖同居の浄土」であるとし、四種の浄土の中でもっとも低位の浄土であるといわれていた。この説の論破が善導大師の「凡夫入報説」(*)であった。 法然聖人は天台宗の学僧であったから、この天台の論理に対するためには、善導大師の示された凡夫入報説によって浄土宗を立宗する必要があったと云われている。既存の仏教思想の枠内にいるかぎり念仏一行をもって凡夫が浄土へ往生する義をあらわせないとされたのである。この意をあらわされた勢観房源智の「浄土随聞記」を下記に追記した。
なお、これを受けられ継承発展されたのが、親鸞聖人の示される大悲が往還回向する往生即成仏の智慧の躍動する浄土であった。それは第十八願に『若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」と阿弥陀如来が誓われた生仏一如の真実の浄土であったのである。このような浄土は、まさに唯だ仏と仏のみが知見する浄土であって、天台の四種浄土説を超えているといわねばならない。御開山が、

安養浄土の荘厳は
唯仏与仏の知見なり
究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし  (高僧和讃)

と、讃詠される所以である。

『拾遺語燈録』浄土随聞記

又一時師語曰。

また一時、師(法然聖人)語りていわく。

我立淨土宗之元意 爲顯示凡夫往生報土也。

我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。

且如天台宗 雖許凡夫往生 其判淨土卑淺。

しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。

如法相宗 其判淨土雖亦高深 不許凡夫往生。

法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。

凡諸宗所談 其趣雖異 總而論之 不許凡夫往生報土。

おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。

是故 我依善導釋義 建立宗門 以明凡夫生報土之義也。

このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。

然人多誹謗云 勸進念佛往生 何必別開宗門 豈非爲勝他邪。

然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずやと。

如此之人未知旨也。

此の如きの人は未だ旨を知らざる也。

若不別開宗門 何顯凡夫生報土之義乎。

若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。

且夫人 問所言念佛往生 是依何敎何師者 既非天台・法相 又非三論・華嚴 不知以何答之。

且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。

是故 依道綽・善導意 立淨土宗 全非爲勝他也。

是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。

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『拾遺語燈録』浄土随聞記』。 同文が 『拾遺漢語灯録』にある。

無功と無効

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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先日記した、〈信知〉の項で、自力無功と自力無効を間違えていたので修正。ついでに自力無功の参照に以下の文を追加した。

自力無功とは、自らの仏道修業による功力(くりき)(修行によって得た力)では、往生成仏の仏果を得ることが出来ないことをいう。親鸞聖人は、『御消息』(6)(*)の、笠間の念仏者の疑ひとはれたる事の中で、

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

と云われている。ここで「余の仏号を称念し、余の善根を修行して」とは阿弥陀如来の選択された本願によらない行業( 仏道の修行)を修することを自力であるとされている。次下に、

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。

とされ、本願を信じ念仏を申して仏になる行業を他力であるとされている。本願に誓われている念仏を申した者を浄土へ迎えとり、仏の悟りを開覚させようというのが念仏往生の本願である。
これが浄土真宗の仏道の修行であるから、御開山は、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。(*)

と、無碍光如来の名(なんまんだぶ)を称える行業を大行と云われるのであった。この行業は、菩薩や声聞の修する行ではなく、ましてや凡夫が行ずる行ではない。御開山が「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」と示されるように、阿弥陀如来の本願海から度出の大行である。仏作仏行(仏の作(な)す仏の行)の諸仏が修するものであるから大行なのであった。
ともすれば、浄土真宗には修業が無いという僧俗がいるが、これは間違いである。行の無い仏教などというものは存在しない。ゆえに御開山は、教・行・証と、本願のえによって、念仏をじ、仏のを得るとされたのであった。(信は行から開いておられる)
このように自力と他力の対判は、仏道修行の上で論じる概念であり、浄土真宗においては口に〈なんまんだぶ〉と称え耳に聞いてよろこぶご法義なのである。このような人を信心の行者というのである。
なお、無功と似た語に無効という言葉があるが、無効とは、はじめから効力が無く仏道に対して何の功力(くりき)も無いことをいう。いわゆる浄土真宗のご法義の枠中におりながら、一声の称名もしない無力(むりき)の輩を指す言葉である。

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クリック範囲選択での検索

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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ふと思いついてブログで、クリック範囲選択でGoogleで検索、ネット辞書の検索、Wikipedia、聖典の検索が出来るようにしてみた。自作のWIKI風の文字によるリンクのプラグインはあるのだが、いちいち用語の有無をチャックするのが面倒であった。
たまたま、SNS内で使っていたスクリプトがあったので入れてみた。

また、WikiArcでも使えると便利だと思い、導入したので意味の判らない語をネット等で調べることが出来ると思ふ。
同じ言葉でも仏教語と世間語では意味に違いがあるので、その違いを知ることも面白い。

ちょっとバグがありそうな気もするのだが、林遊しか使わないから、まっいいか。
とりあえず、これでWIKIリンクの無い言葉も、一語一語の意味を確かめながらお聖教を拝読できるのでありがたいこっちゃ。

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信知

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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「聞見」というブログ記事中で、信知という言葉を使ったので、WikiArcに「信知」という語を追加してみた。なお、WikiArc(正式名は浄土真宗聖典電子化計画)に於いて、出典が浄土真宗本願寺であるとの著作権表示のない文章や、出典を明示した著作権表記下の区切り線以下の文章、及びノートに記された文章は各投稿者の見解であり、浄土真宗本願寺の見解ではないことに留意されたし。
また、当ブログでWikiArcの内容に言及している場合は、WikiArcの内容が最新であることにも注意されたい、為念。 →信知

引用開始>>

しん-ち

信じ知ること。

阿弥陀仏の教法(本願)を聞いて、我を救う阿弥陀仏の本願力を信じ、自己の罪障と自力無効を知ること。

『一念多念証文』では善導大師の『往生礼讃』、深信釈(*)の「信知」を引かれて、

如来のちかひを信知すと申すこころなり。
〈信〉といふは金剛心なり、〈知〉といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。 (一多 P.686)

とある。
『往生礼讃』では、『観経』の深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。
御開山は、この真実の信心を『一念多念証文』で、「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。
これは信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種の深信をあらわされているのである。ともあれ信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)

蛇足
近年、浄土真宗の信心を、自覚という言葉で表現する僧俗が多い。元来、自覚という言葉は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」(*)とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている自覚とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、他力の信心の表現として濫用すべきではない。善導大師が「信知」という言葉を示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。 以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。

(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ (曇鸞讃)

(73)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ (善導讃)

>>引用終了

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信疑決判と他力自力対判

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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聞見という言葉は「行文類」にもあるのだが、面白い材料(ネタ)があったので暇つぶしに考察してみた。 →「ノート:聞見…殊勝と名づく」

現在の『大正蔵経』の『十住毘婆沙論』では、

信力増上者。信名有所聞見 必受無疑。増上名殊勝(*)

と、なっている。この場合は、

信力増上とは、信は聞見するところあるに名づく。かならず受けて疑ひ無し。殊勝を増上と名づく。

と訓ずるのであろう。御開山の所覧本には、

信力増上者何名有所聞見必受無疑。増上名殊勝

と、信が何になっていたので、

信力増上はいかん。聞見するところありてかならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づく。(*)

と、訓じられ、聞見するところを受けて疑いの無いことを、増上であり殊勝とされたのであろう。つまり、受けて疑いの無い「無有疑心」を、信心の意とされたのである。阿弥陀如来より賜る信心であるから、増上であり殊勝なのである。

このような読み方は、法然聖人の信疑決判釈、

当知 生死之家以疑為所止 涅槃之城以信為能入

まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(*)

と、本来は信の反対は不信なのであるが、「信」の反対語を「疑」であるとされた示唆によるものであろう。信とは阿弥陀如来から賜るものであり、それを疑いの蓋で遮蔽していることが自力であるとし、法然聖人の信疑決判を、他力(本願力)と自力の対判によって浄土真宗の本願力回向の宗義を明かそうとされたのである。

ともあれ、お聖教をあれこれ拝読することは楽しいことである。もったいないこっちゃな。

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聞見

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友人の慈海坊さんが、自己の主催する「聞見会」のグループをFBに作成したので「聞見」という言葉についてWikiArcに書いてみた。(*) 専門用語が多いので括弧書きと言葉へのリンクを多用した。
なお、見ることと聞くことが同じという「見聞一致」に関しては、このブログの「眼見と聞見」を参考されたし。

もんけん

眼見に対する語。

自らの眼で見て明らかに認知することを眼見(げんけん)、聞いて理解し信知(しんち)することを聞見(もんけん)という。
『涅槃経』に「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」(真巻 P.356)とあり、諸仏は一切衆生の仏性(ぶっしょう)を、手のひらの上にのせた阿摩勒菓(あまろくか、マンゴー)を見るようにはっきりと知ることができる。しかし十住の菩薩等は、仏の教法を聞くことで自らの仏性(仏に成ること)を知ることができるので聞見(聞いて知る)という。

浄土真宗では、この聞見によって自らの仏性を信知(信じ知ること)することを信心仏性(しんじんぶっしょう)という。
「聞」とは、阿弥陀仏の救いの法である、十方の諸仏が讃嘆する名号を、自らが称えて聞くことを「聞」という。そして、あらゆる煩悩の寂滅した阿弥陀仏の悟りの浄土へ往生し成仏せしめられることを信じよろこぶことをいう。 『無量寿経』には「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)」(大経P.41)とある。
浄土真宗では、称即信(しょうそくしん)〈名号を称えること即信心〉とか、聞即信(もんそくしん)〈聞くことは即信心〉などといい、聴聞(ちょうもん)という阿弥陀仏の願いを聞くことをすすめる。阿弥陀仏の本願の生起(しょうき)〈願いを起こされたわけ〉とその躍動している救済のはたらきを聞信(もんしん)することを最も重要とするからである。
親鸞聖人はこのような聞である信を「言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。(聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。)」(信巻 P.251)と解釈され、「聞」によって「信」(無有疑心)をあらわされるのである。

参照:『涅槃経』師子吼菩薩品之二

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他力とは野中にたてる竹なれや

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他力とは野中にたてる竹なれや

よりさわらぬをば他力とぞいう

越後の良寛さんの句だそうだが、米を作る百姓の経験のない人には、ほとんど意味不明の句であろう。稲城和上がこの句を用いて法話をされているのをUPしてあるのだが誤解されないように少しく注釈をしてみた。
なんまんだぶのご法義は天下国家を論ずる方面ではなく、日々の暮らしの中であれこれの煩悩に呻吟している者を対象とするご法義である。その意味では生活に密着したご法義であり、この句も、人が生きるという現場でこそ味わえる句であろう。

以下注釈としてUPした文章>>

この句の「他力とは野中にたてる竹なれや」とは、稲刈りのあと乾燥させるために稲束を竹に架けてることをいう。稲が乾いてくるとそばに寄って竹に触れば稲の穂の実がパラパラと落ちてしまう。このことから他力(本願力)の法には凡夫の側からあれこれと、はからいの手を出すべきではないという意味である。よりさわらぬは御開山の云われる「義なきを義とす」という意味である。田舎の農民の日々の暮らしの機微をご存知であった良寛さんらしい句である。

なお、よく似た句に「他力とは野中に立てる一つ松 寄り触らぬを他力とはいう」(未見)があるそうだが、この場合は法然聖人が「本願の念仏には、ひとりたちをせさせて助(すけ)をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。」(諸人伝説の詞)と仰ったように、選択本願のご法義は、なんまんだぶ(念仏)一行を行じて報土に往生するのであって安心においては助業を用いないことを「寄り触らぬを他力とはいう」と云われたのであろう。
>>

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八万四千の法門

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八万四千の法門については当ブログの「八万四千の法門は」で、梯實圓和上の『一念多念文意講讃』から、『一念多念文意』で解釈を窺ってみた。
WikiArcのノートでは『大智度論』からこの八万四千という言葉の意味を引用していたので、その読み下しをUPした。同じく『化巻』の「門余釈」の解説を、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』から窺ってみた。

引用開始>>
下記に引用した『大智度諭』二五(『大正蔵』二五・二四七頁)には仏の救済の対象となる機根には、各々二万一千の婬欲人根・瞋恚人根・愚痴人根・等分人根の四種があって、全部で八万四千になるからそれを対治する法も自ずから八万四千の治法根を説くとされる。いずれにせよ無数の煩悩に対して無数の法門が説かれたことを八万四千の法門というのであろう。

[大智度論]『大正蔵』二五・二四七頁。

復次二萬一千婬欲人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說

また次ぎに、二万一千の婬欲人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。

二萬一千瞋恚人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說

二万一千の瞋恚人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。

二萬一千愚癡人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說

二万一千の愚癡人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。

二萬一千等分人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說是名樂說無礙智。

二万一千の等分人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたえまり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。これを楽説無礙智と名づく。

*以下は御開山が八万四千をどのように理解されておられたかを、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』から窺う。(註とリンクは私において付した。)

「門余の釈」

聖道門では生死を離れることの出来ない者のために要門を説いて浄土門へと誘引されたわけであるが、その要門さえも如実に修業することのできない愚悪の衆生のために阿弥陀仏は弘願一乗の法を説かれたというのが序題門の心であった、親鸞聖人はそのような仏意を、序題門に説かれていた「門余八万四千(門八万四千に余れり)」という言葉の中に読み取り、聖道門を要門に誘引し、要門から弘願の宗義に帰結されていく釈尊一代の教法の権実の体系を示されるのであった。それは堪不堪から、教法の権実へと展開される釈であった。すなわち、

「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。(*)

といわれたのがそれで、これを「門余の釈」といい慣わしている。

序題門では、法門が無量であることを「門八万四千に余れり」といわれたわけであるから、「余」とは有余(ありあまる)という意味であった。それを親鸞聖人は、八万四千の法門の外に別の法門があることを表す言葉であると解釈し、「余」を「外余」(外に余っている)の意味に転用されたわけである。そして聖道八万四千の権教の外に、阿弥陀仏の本願力回向によって善悪、賢愚の隔てなく、一切の衆生が救われていく本願一乗の法門があることを表していると領解されたのであった。
{後略}

>>

通常は八万四千の法門といえば、釈尊一代の応病与薬の教法を指す。この八万四千を善導大師『観経疏』「玄義分」序題門の文、

依心起於勝行 門余八万四千
(心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。)(*)

によって、八万四千の法門の他に、別意の弘願の一乗の法があるとされた嚆矢は幸西大徳であった。この幸西大徳の示唆によって八万四千の法門は弘願へ入らしめるための方便である、と確定していかれたのが親鸞聖人であった。
これが、本願を信じさせ念仏を申させ仏になさしめる、の誓願一仏乗の本願力回向のご法義である。

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WikiArcへのノート:八万四千の法門へのリンク

信罪福心について

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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信罪福心

仏教とは智慧と慈悲の宗教である。浄土教では慈悲を強調するので、救済における阿弥陀如来の智慧に言及することが少ない。なお仏教における救済とは拯済ともいい、拯とは両手で拯(すくいあげる)という意味であり、済とは斉の字と通じてひとしいという意味で、救う者が救われる者を自らと等しい者にするという意をあらわす。つまり救う者が救われる者を自己と同一の覚りにするということが仏教における救済である。浄土真宗で弥陀同体の証(さとり・あかし)という所以である。

浄土真宗の救済(拯済)とは、阿弥陀如来の智慧が慈悲となって、本願を信じさせ念仏を称えさせ仏にならしめるご法義である。この慈悲とは阿弥陀如来の智慧が体である。もちろん智慧と慈悲は一体のものであり別のものではない。
御開山は、『正像末和讃』で、

(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし (*)

と、智慧の念仏、信心の智慧と讃詠されておれるのもそのような意であろう。
念仏は智慧であり信心もまた、因位の法蔵菩薩であった阿弥陀如来の智慧の顕現である。この阿弥陀如来から回向される智慧を拒絶し、自業自得の因果を信じ疑いの蓋をしている心を、御開山は「信罪福心」(罪福を信じる心)と云われたのであった。

(62)
罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる (*)

罪福とは因に返せば、罪とは悪であり福とは善のことで、ようするに仏教で一般的に語られる因果の、善因楽果、悪因苦果のことである。
第十八願には「若不生者 不取正覚」(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、生仏一如の善悪を超えた智慧による救済が告げられている。この娑婆の因果を超えた阿弥陀如来の智慧が慈悲となって救済しつつあることへの疑いを「化巻」で「定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。」(*)と云われたのである。なおこの御自釈は真門釈にあるが、定散の専心とあるから第十九願にも通じるのである。

この文証として『無量寿経』では、以下のように罪福を信じて善本を修習するという胎生の因が説かれている経文を引文しておられる。
ただし、「化巻」であるから仏智疑惑を戒めることが主であり一部文言を乃至されて引文しておられる。以下の文字の薄いところが乃至された部分である。
なお、より詳しく知りたい人の為に、末尾に参照用の文章へのリンクをしておいた。

【7】 またのたまはく(大経・下)、
「その胎生のものの処するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること忉利天上のごとくにして、またみな自然なり」と。
【43】  そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。
仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
【44】  また次に慈氏(弥勒)、他方仏国の諸大菩薩、発心して、無量寿仏を見たてまつり、〔無量寿仏〕およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲はん。かの菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華の中において自然に化生せん。

弥勒、まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。 その胎生のものはみな智慧なし。

五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するによしなし。菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世のとき、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。

【45】  仏、弥勒に告げたまはく、「たとへば、転輪聖王のごとき、別に七宝の宮室(牢獄)ありて種々に荘厳し、床帳を張設し、もろもろの繒旛を懸く、もしもろもろの小王子ありて、罪を王に得れば、すなはちかの宮中(獄)に内れて、繋ぐに金鎖をもつてす、

飲食・衣服・床褥・華香・妓楽を供給せんこと、転輪王のごとくして乏少するところなけん。意においていかん。このもろもろの王子、むしろかの処を楽ふや、いなや」と。
対へてまうさく、「いななり。ただ種々に方便して、もろもろの大力〔ある人〕を求めてみづから免れ出でんことを欲ふ」と。
仏、弥勒に告げたまはく、

「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。仏智を疑惑せしをもつてのゆゑに、かの〔胎生の〕宮殿に生じん。(て、)

刑罰乃至一念の悪事もあることなし。ただ五百歳のうちにおいて三宝を見たてまつらず、〔諸仏を〕供養してもろもろの善本を修することを得ず。これをもつて苦とす。余の楽ありといへども、なほかの処を楽はず。

もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離れんことを求めん。(ば、)

すなはち意のごとく、無量寿仏の所に往詣して恭敬し供養することを得、またあまねく無量無数の諸余の仏の所に至りて、もろもろの功徳を修することを得ん。

弥勒、まさに知るべし。
それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは、大利を失すとす。

上記の『無量寿経』に続いて引文される『無量寿如来会』への引文は→ここにある。

それにしても、御開山はやはり引文によって創作をなさっておられるのではあった。そのような意味では単なる辞書的な意味をもっては『教行証文類』は読めないものだという感を深くした。それでもところどころ領解できるところもあるので読んでいて楽しいものである。もちろん仏智深きがゆえに我が領解を浅しとすることは肝に銘じているのは当然である。

(34)
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ (*)

なんまんだぶ なんまんだぶ なんんまんだぶ


参照へのリンク

→信罪福心
→真仮論の救済論的意義