生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし。http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=J16_0336A02
FBで見かけた、法然聖人の御法語である。
ありがたい御法語であるが、また一面誤解されやすいのかもしれない。下手をすると生きている時に、念仏の功(功徳)を積んで、その功徳の回向によって死んで浄土へ往生するという意(臨終業成説)と捉えられるかもしれないからである。
法然聖人は、『選択本願念仏集」二行章)(*)で、なんまんだぶの称名を「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる 」と、お示しであった。この「自然に往生の業となる 」という意を、本願力回向であるとされたのは御開山であった。
さて、この御法語の、「念仏の功つもり」と仰るのは、銀行の預金通帳に金をつむような功徳の積植(しゃくじき)をいうのではありません。お念仏によるお育てのことを「功つもり」と仰っているのです、とお示し下さったことがある。
そこで、林遊が下手な文章を弄するよりもと思い、以下に梯實圓和上の講演録の一部を抜粋して、この御法語を味あわせていただこう。
「親鸞聖人の生死観」
{中略}
親鸞聖人のお師匠さんに法然聖人という方がいらっしゃいました。
あの法然聖人は自分の生と死をこういう言葉で顕わしています。
「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし」
と言い切っています。
さすが達人だなという感じでございます。
「生死ともにわずらいなし」死ぬ事も生きる事も素晴らしいではないかと言っている様な所がありましてさすが達人だな。
私には中々「生死ともにわずらいなし」という所までいきませんが、しかし「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」という視野の開けというのは私にも微かながらも「あぁなるほど。そういう事もあるな」という事を此頃しみじみと思うのでございます。
「お前はどんな風に生きているのだ」と云われたら「私はお念仏を申さして頂く為に生きています。
そして仏を念じながら、仏様によって開かれた真理の領域を私なりに確認させて頂く為にこの命を与えられているのだ」と思います。
「お前は死んだらどうなるのだ」と云われたら「限りない命の世界に帰っていきます」とズバッと言えたら良いのではないですか、それで死ねます。死ねる様な生き方したいと思います。
何か押しつぶされる様に死んでいく、そんな死に方はしたくないですね。
いろんな辛い事や嫌な事や悲しい事の多い人生、それをひたむきに生きてきた、皆それぞれそうだと思うのです。
人から見れば「あいつは甲斐性無しだ」と云われるかもしれません。
人から見れば「あいつは愚かだ」と云われるかもしれませんが、本人は精一杯生きているのです。
そしてこれしか生き様が無かったというのっぴきならない生き方を私達はしてきたのでございます。
その自分の人生を空しい愚痴の中で終わってしまったら自分が惨めすぎるし、自分が可愛そう過ぎると思う。
辛い事もあったし嫌な事もあったけれども、しかし私にとってこの一生は有り難い一生でございましたと言える様な、思い出深い生涯でございましたと言える様な、そんな人生を全うじてみたいものだなという感じがするのです。
その為にはやはりどうしても一つ生と死を超えた領域に出てこないと、そこからものを考えないと落ち着かないという所がございます。
さて法然聖人が「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」と云われたのでございますが、これは阿弥陀様の本願、仏様の願いの中に自分を見い出した時に出てくる言葉でございます。
「念仏の功つもり」というのは、お念仏を通してそして人生の様々な出来事の中に真実を聞き開いていく、尊いものを見い出していく、そういう人生を生きるという事でしょう。
この世の中には無駄なものなんて一つもないのだという事があるのではないですか?。
無駄なものなんて本当は一つもないのでしょう。ただ無駄を作るのが人間の妄念かもしれません。
人間の分別だけが無駄を作るのです。
しかしこの世には本当は無駄なものなんて一つもないのです。どんなものだって尊い意味をもって輝いている。
その全てが尊い意味をもって輝いている様な事柄を、それを少しづつでも知らして貰う。
そして真実のものに触れていく様な、そんな生き方を仏様の御名を称えながら、そういう生き方をさせて貰う。
一日生きれば「あぁこんな事に気付かして頂いた」三年生きれば「あぁこんな事に気付かして頂いた」そんな事がやはり有ります。
私も時々そう思う。
昔読んだ時には何の感動も無かった本を今読んでみると「あぁ素晴らしい言葉だな」という言葉に触れる事がある。
そんな時に三十年・四十年というこの年月は無駄ではなかったなという感じがします。
ただ無駄飯を食っているのではないのだと言える所があります。
仏様に育てられる、それは死ぬるまで成長し続けるのだっていう所もある様です。
一つでも善い素晴らしい事に気が付いたら、今まで生きてきた全てが輝いてくる、そんな所がやはあります。
「命が法の宝だ」と昔の人がおっしゃっておりますが、なるほどなぁという所があります。
「生けなば念仏の功つもり」という世界はそういう世界です。
仏様のお言葉を通して人生の深みに触れ、命の深みに触れて感動する様な、そういう世界を味わった人だけが念仏によって育てられたという喜び、それが「念仏の功つもり」という生き方だと思うのです。
そして「死なば浄土にまいりなん」とズバリ言ってのける。あんな時にはぐずぐず言っていたらダメなのですね。
ズバッと言わないとダメなのです。
そういう世界が一つある。
こういう世界を開くのが仏様の願いだという事です。
これを本願という言葉で顕わしている。
如来様が私達にかけた願いの言葉がある。
その願いの言葉を聞き、その願いの言葉の中に自己の生と死を見い出していくのが浄土真宗でございます。
少し難しい言葉なのですが『大無量寿経』というお経の中に
「たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲いて、乃至十念せん。もし生まれずば正覚を取らじ。」
という言葉があるのです。
短い言葉ですが、この言葉の中に込められた意味を、この言葉の中に込められた深い心を、それを聞き開いていこうする歴史が仏教の歴史だったのでございます。
「たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとしいける全てのものがほんまに疑いなく私の国に生まれる事が出来ると思うて、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がないのだ」という言葉なのです。
もっと言い替えますと
「お願いだから本当に疑いなく私の国に生まれる事が出来ると思ってくれ。限りない命の世界に生まれる事が出来ると思ってくれ。限りない光の世界に生まれていくのだと思ってくれ。
そしてお願いだから私の名を呼びながら、私を永遠な命の親と呼びながら生きてくれ。
そのお前をもし私の世界に、悟りの世界に導く事が出来ない様なら私は仏とは呼ばれる資格がない。目覚めたものと呼ばれる資格がないのだ。」
こういう願いをおっしゃっているのです。
これが阿弥陀仏の願いだ。
いやこの願いが躍動する世界を阿弥陀仏というのだという風におっしゃっている訳です。
阿弥陀仏というのは限りない命、限りない光という意味です。
アミターバ(Amit-bha)アミターユス(Amit-yus)というのは「限りない命、限りない光」という意味なのです。
この人生に限りない光をもたらす、限りある命なるものに限りない命への目覚めを与えるものを阿弥陀仏と呼んでいるのです。
その阿弥陀の願い、この願いの言葉の中に自分の生きる事の意味と方向を聞き開くのです。
先ほど申しました様に、私はこの世に何をする為に生まれてきたのかも知らないし、私が何者であるかも知らない。
その私に「お前は仏の子なのだよ、仏の子として目覚めてくれよ」とおっしゃっているのです。
そして「私の国に、この限りない命の領域を帰るべき命のふるさとと思ってくれ」と願っていらっしゃるというのです。
この願いの言葉を受け入れる事を信心と呼ぶのです。
「そうですか。私は何も判りませんけれども、それでは貴方のおっしゃる通りに私は貴方の所へ生まれていくのだと思います。
死ぬのではなくて生まれていくのだと思いましょう。
そして私は貴方の子であったと思い取らして頂きましょう」こう返事をさせて貰いましたら、仏様は「そうか、お前は私のいう事を聞いてくれるのか。
ではお前は私の仲間だよ」とこうおっしゃって下さいますので、私はその時から仏様の仲間に入れて貰ったという事になるのでしょう。
できたら仏様の仲間として親鸞聖人に「貴方もここに居られたのですか」と言える様な、また法然聖人にも「貴方もここに居られたのですか」と言える様な領域を生きていくというのが念仏者というものなのでしょう。
{以下略}
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数。
(功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。 )
「本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰入した人は、 阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。」
ありがたいことである。
なお、『法然上人行状画図』(勅修御伝)には、
いけらば念佛の功つもり、しなば浄土へまいりてなん。とてもかくても、此身には思ひわずらふ事ぞなきと思ぬれば、死生共にわづらひなし。
と、あるが意は同じである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ようこそようこそ