生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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 生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし。http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=J16_0336A02

FBで見かけた、法然聖人の御法語である。
ありがたい御法語であるが、また一面誤解されやすいのかもしれない。下手をすると生きている時に、念仏の功(功徳)を積んで、その功徳の回向によって死んで浄土へ往生するという意(臨終業成説)と捉えられるかもしれないからである。

法然聖人は、『選択本願念仏集」二行章)(*)で、なんまんだぶの称名を「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる 」と、お示しであった。この「自然に往生の業となる 」という意を、本願力回向であるとされたのは御開山であった。

さて、この御法語の、「念仏の功つもり」と仰るのは、銀行の預金通帳に金をつむような功徳の積植(しゃくじき)をいうのではありません。お念仏によるお育てのことを「功つもり」と仰っているのです、とお示し下さったことがある。
そこで、林遊が下手な文章を弄するよりもと思い、以下に梯實圓和上の講演録の一部を抜粋して、この御法語を味あわせていただこう。

 

親鸞聖人の生死観
{中略}
親鸞聖人のお師匠さんに法然聖人という方がいらっしゃいました。
あの法然聖人は自分の生と死をこういう言葉で顕わしています。
「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし」
と言い切っています。
さすが達人だなという感じでございます。
「生死ともにわずらいなし」死ぬ事も生きる事も素晴らしいではないかと言っている様な所がありましてさすが達人だな。
私には中々「生死ともにわずらいなし」という所までいきませんが、しかし「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」という視野の開けというのは私にも微かながらも「あぁなるほど。そういう事もあるな」という事を此頃しみじみと思うのでございます。
「お前はどんな風に生きているのだ」と云われたら「私はお念仏を申さして頂く為に生きています。
そして仏を念じながら、仏様によって開かれた真理の領域を私なりに確認させて頂く為にこの命を与えられているのだ」と思います。
「お前は死んだらどうなるのだ」と云われたら「限りない命の世界に帰っていきます」とズバッと言えたら良いのではないですか、それで死ねます。死ねる様な生き方したいと思います。
何か押しつぶされる様に死んでいく、そんな死に方はしたくないですね。
いろんな辛い事や嫌な事や悲しい事の多い人生、それをひたむきに生きてきた、皆それぞれそうだと思うのです。

人から見れば「あいつは甲斐性無しだ」と云われるかもしれません。
人から見れば「あいつは愚かだ」と云われるかもしれませんが、本人は精一杯生きているのです。
そしてこれしか生き様が無かったというのっぴきならない生き方を私達はしてきたのでございます。
その自分の人生を空しい愚痴の中で終わってしまったら自分が惨めすぎるし、自分が可愛そう過ぎると思う。
辛い事もあったし嫌な事もあったけれども、しかし私にとってこの一生は有り難い一生でございましたと言える様な、思い出深い生涯でございましたと言える様な、そんな人生を全うじてみたいものだなという感じがするのです。
その為にはやはりどうしても一つ生と死を超えた領域に出てこないと、そこからものを考えないと落ち着かないという所がございます。

さて法然聖人が「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」と云われたのでございますが、これは阿弥陀様の本願、仏様の願いの中に自分を見い出した時に出てくる言葉でございます。
「念仏の功つもり」というのは、お念仏を通してそして人生の様々な出来事の中に真実を聞き開いていく、尊いものを見い出していく、そういう人生を生きるという事でしょう。
この世の中には無駄なものなんて一つもないのだという事があるのではないですか?。
無駄なものなんて本当は一つもないのでしょう。ただ無駄を作るのが人間の妄念かもしれません。
人間の分別だけが無駄を作るのです。
しかしこの世には本当は無駄なものなんて一つもないのです。どんなものだって尊い意味をもって輝いている。
その全てが尊い意味をもって輝いている様な事柄を、それを少しづつでも知らして貰う。
そして真実のものに触れていく様な、そんな生き方を仏様の御名を称えながら、そういう生き方をさせて貰う。
一日生きれば「あぁこんな事に気付かして頂いた」三年生きれば「あぁこんな事に気付かして頂いた」そんな事がやはり有ります。
私も時々そう思う。
昔読んだ時には何の感動も無かった本を今読んでみると「あぁ素晴らしい言葉だな」という言葉に触れる事がある。
そんな時に三十年・四十年というこの年月は無駄ではなかったなという感じがします。
ただ無駄飯を食っているのではないのだと言える所があります。
仏様に育てられる、それは死ぬるまで成長し続けるのだっていう所もある様です。

一つでも善い素晴らしい事に気が付いたら、今まで生きてきた全てが輝いてくる、そんな所がやはあります。
「命が法の宝だ」と昔の人がおっしゃっておりますが、なるほどなぁという所があります。
「生けなば念仏の功つもり」という世界はそういう世界です。
仏様のお言葉を通して人生の深みに触れ、命の深みに触れて感動する様な、そういう世界を味わった人だけが念仏によって育てられたという喜び、それが「念仏の功つもり」という生き方だと思うのです。
そして「死なば浄土にまいりなん」とズバリ言ってのける。あんな時にはぐずぐず言っていたらダメなのですね。
ズバッと言わないとダメなのです。
そういう世界が一つある。
こういう世界を開くのが仏様の願いだという事です。
これを本願という言葉で顕わしている。
如来様が私達にかけた願いの言葉がある。
その願いの言葉を聞き、その願いの言葉の中に自己の生と死を見い出していくのが浄土真宗でございます。

少し難しい言葉なのですが『大無量寿経』というお経の中に
「たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲いて、乃至十念せん。もし生まれずば正覚を取らじ。」
という言葉があるのです。
短い言葉ですが、この言葉の中に込められた意味を、この言葉の中に込められた深い心を、それを聞き開いていこうする歴史が仏教の歴史だったのでございます。
「たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとしいける全てのものがほんまに疑いなく私の国に生まれる事が出来ると思うて、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がないのだ」という言葉なのです。
もっと言い替えますと
「お願いだから本当に疑いなく私の国に生まれる事が出来ると思ってくれ。限りない命の世界に生まれる事が出来ると思ってくれ。限りない光の世界に生まれていくのだと思ってくれ。
そしてお願いだから私の名を呼びながら、私を永遠な命の親と呼びながら生きてくれ。
そのお前をもし私の世界に、悟りの世界に導く事が出来ない様なら私は仏とは呼ばれる資格がない。目覚めたものと呼ばれる資格がないのだ。」
こういう願いをおっしゃっているのです。
これが阿弥陀仏の願いだ。
いやこの願いが躍動する世界を阿弥陀仏というのだという風におっしゃっている訳です。

阿弥陀仏というのは限りない命、限りない光という意味です。
アミターバ(Amit-bha)アミターユス(Amit-yus)というのは「限りない命、限りない光」という意味なのです。
この人生に限りない光をもたらす、限りある命なるものに限りない命への目覚めを与えるものを阿弥陀仏と呼んでいるのです。
その阿弥陀の願い、この願いの言葉の中に自分の生きる事の意味と方向を聞き開くのです。
先ほど申しました様に、私はこの世に何をする為に生まれてきたのかも知らないし、私が何者であるかも知らない。
その私に「お前は仏の子なのだよ、仏の子として目覚めてくれよ」とおっしゃっているのです。
そして「私の国に、この限りない命の領域を帰るべき命のふるさとと思ってくれ」と願っていらっしゃるというのです。
この願いの言葉を受け入れる事を信心と呼ぶのです。
「そうですか。私は何も判りませんけれども、それでは貴方のおっしゃる通りに私は貴方の所へ生まれていくのだと思います。
死ぬのではなくて生まれていくのだと思いましょう。
そして私は貴方の子であったと思い取らして頂きましょう」こう返事をさせて貰いましたら、仏様は「そうか、お前は私のいう事を聞いてくれるのか。
ではお前は私の仲間だよ」とこうおっしゃって下さいますので、私はその時から仏様の仲間に入れて貰ったという事になるのでしょう。
できたら仏様の仲間として親鸞聖人に「貴方もここに居られたのですか」と言える様な、また法然聖人にも「貴方もここに居られたのですか」と言える様な領域を生きていくというのが念仏者というものなのでしょう。
{以下略}

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数。
(功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。 )
「本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰入した人は、  阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。」
ありがたいことである。

なお、『法然上人行状画図』(勅修御伝)には、
いけらば念佛の功つもり、しなば浄土へまいりてなん。とてもかくても、此身には思ひわずらふ事ぞなきと思ぬれば、死生共にわづらひなし。
と、あるが意は同じである。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ようこそようこそ

引用と引文

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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最近、ブログに書く種(ねた)がないので、FB(Facebook)に投稿した文章の再利用。

御開山って、自分の言葉で語るのではなく、自分の言いたいことを経典の文言をして語らしめようと意図されたのであろうか。
このような手法は単なる経典の引用ではなく、引文によって経典の表現を超えて自己の思想を顕わそうとする試みだが、大胆にして常識を超えているとしか思えん。
《引用》とは一義的には他の著作を自己の著作で紹介することであるが、御開山の場合は原典の文章を、原典の本来の意図した意味を超えて《引文》されておられる。つまり経・論・釈の文章を一応は用いるのだが本来の意味を転意されておられる。このような意味から御開山は単に経・論・釈を引用されたのではなく引文されたのであるといわれている。
このことは、経・論・釈の引文によって自己の著作を権威づける為ではなく、元の文章を乃至したり抄要とされておられることからも窺える。
実は、それが浄土真宗の御開山である御開山たる魅力でもあるのだが、後世の者は苦労するところでもある。信心の智慧によって開かれる世界はこのような世界をいうのであろう。ともあれ、その信心の世界が、なんまんだぶと口に称えられることは、ありがたいことである。
「仏性は大信心と名づく」(*)

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往生の一大事

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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浄土真宗に於ける信心は、他力(利他力)のご信心といい、宗教一般でいう信心と大きな違いがある。
浄土真宗とは『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の選択本願のご法義であり、具体的には弘願他力の念仏成仏の教えをいう。しかるに、世間一般でいわれる信心と綱格がまったく違うので、この本願力回向のご信心に迷う者が多い。特に信心を求めようとして、聴聞を重ね苦闘してきた方ほどその傾向が強い。もちろん真剣な求道ということを全否定するのではないが、このような求道者は信心と自覚を混同してしまい、本願に願われているということの意味を逸失してしまうのである。
この浄土真宗のおいてのご信心の構造については、末尾に参照用の文章へのリンクをしておいたが、いまここでは、七里恒順和上(1835-1900)の『七里恒順和上法話集』の一節を窺ってみよう。

問い
長いあいだ往生の大事(阿弥陀如来に救われて浄土に生まれる大問題)を心にかけ、絶えずお聞かせにあずかっていますが、一念帰命の味わいが、どうしてもわかりませぬ。願力の不思議ということも、名号ひとつのお用(はたら)き、ということも疑いませぬが、なぜ安堵のこころに住することができないのでしょうか。

答え
それは二つの病気があるからである。一つは願力の不思議と聞きながら善根を貯えようなどというこころはないけれど、落ちつきたい、落ちつきたいと思うこころが、しきりに起こる。法のお手許(てもと)をお聞かせにあずかることが後になって、安堵心がえたいと思うこころに値打ちをもたせ、信心を認めようとする。

これは多くの人が落ちいりやすい所で、このような人は、まず、そのこころの方向をかえて、お助けのお手許を、よくよく聞かねばならぬ。自分で往生の大事を気にかけて心配するよりは、五劫という長いあいだにわたって、ご心配くださったものをと思い、自分で、わが胸をながめて早く落ちつきたい、早く落ちつきたいと思うよりは、十劫正覚のあかつきから、おたがいの往生一定の時節を待ちわびたもう大悲のおこころはいかばかりであらせられるかと、附(伏?)して安じる心の向きをかえ、仰いで法のお手許をお聞かせにあずかるがよい。そうすれば、なんの疑うべきことがあろう。
「弥陀の大悲の誓海を、深く信ずる」ということは、この法のお手許のお力の強いのを、そのまま真受けにさせて頂いたことをいうのである。わが心を深めて信ずるのではないのじゃ。

二つには、往生を認めようと思う心が先になって本願を後にする病。
われらの信心は浄土を目当てにして起こすのではない。本願のお力で安堵するのである。こちらはただ、本願におまかせすればよいのじゃ。往生は仏の願力の不思議として治定せしめたもうのである。宗祖親鸞聖人も「ただ不思議と信じさせていただく上はとかくのはからいをたのんではならぬ」とおおせられてある。
わが胸のうちをながめて、とやかく思うのは、みな自力のはからいであって、このように安堵心をえたいと思うこころに値打ちをもたせ、信心を認めようと思うのは、自力の病気のせいであると思い、ひとすじに如来の願力に任せたてまつることである。

浄土真宗の信心の特色についてのリンク
→たまわりたる信心 梯實圓和上
→信心の語義 梯實圓和上
→他力の信の特色 稲城選恵和上

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知られる私

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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自力によって自力を捨てようとすれば無限遡及に陥るということを記したブログを見て、ふと20数年前に記した文章を思い出したのでサルベージして再掲。

知られる私

他力とか自力とか物を二つに分けて理解することが、分かるということなのでしょうか。分かるということは字のごとく物を分けることから分かるといいます。ここから我と他、彼と此が出てくるわけですね。だから「我他彼此」(ガタピシ)と毎日忙しいことです。忙という字は心が亡くなると書くぐらいですから。

さて、私が私を知るということは可能な事なのだろうか。確かに私に知られる側の私は、私によって知ることができますが、知る側の私を私が知る事はできません。知る側の私を私が知ったとき、それは知られている私であって、知る私ではなくなります。

そうすると知る私であったものが、知られる私になって、これを知る私をまた知ろうとして永遠に無限ループに落ち込みます。

例えばお寺参りを始めた婆ちゃん達は「機の深信」の話を聞いてすぐに、私は罪深い者でありました、助からないという自覚の私でありましたと言います。

そのうち聴聞を重ねますと、私は助からない者でしたと見ている側の私が、実は善人の立場で私を裁いている事に気がついて、この私を罪深いと見ている私こそが、本当に罪深い悪い奴だということになります。

これではいかんという事で、本当に悪いこの私こそをハッキリ知らせてもらおうと聴聞に励みます。ある宗門(小生も門徒)では機の深信の話が中心ですから、これはいよいよ救いのない私でした、どん底の無有出離の私でしたとなります。

この頃からは最初なじみのなかった仏教用語も判ったような気になり、仏教用語を使って自分の中の私を見ようとします。宿業とか罪悪感とか罪悪生死の凡夫とかの言葉に囚われて、どちらかというと自虐的な立場が強くなります。

聴聞では相変わらず「助からない者を助けると自覚しろ」などとあおるものですから、いよいよに罪の深さを知らにゃぁいかんとなり、また世間や回りを見れば私がこんなに真剣に聴聞しているのに何たることかと、世間に対する働きかけが始まります。自信教人信の教人信の立場に立ちます。

しかし、ふと自分を考えてみるとそのような立場に立っていた私こそが、実は根本的にどうしようもない奴で、地獄行き間違いのない悪い奴だとなって、地獄行きである私を知らせてもらうためにいっそう聴聞に励みます。

聴聞では相変わらず、阿弥陀様のレントゲンに照らされて罪の深さを自覚しろ等の布教師の説教が続けられています・・・・・・・・・・・・。

かくて私を知るために、知る側の私を否定し、否定した私を否定しこれをまた否定し、四句百非を絶し去ったつもりでまた否定し、と延々と続きます。これを繰り返しますと「ええぃ、もうヤメタ」となって判らないままのお助けと自分で勝手に決めて聴聞にも行かないようになります。

小生の田舎には「大きな信心十六ぺん。チョコチョコ安心数知れず」という言葉がありますが、このような事を繰り返してきた先達が、機の深信の話や、布教師にだまされるなよという警句なのなのだと密かに思っています。

西の岸の上に人有りて喚ばひて言はく、汝一心正念にして直ちに来れ。我能く汝を護らむ。衆て水火の難に堕することを畏れざれ

と。 有名な二河喩のなかで善導大師は、私のことを【汝】として喚びかけられている側 であり、阿弥陀様を【我】として喚んでいる側であるとお示しです。

阿弥陀様が私を知る側で(主体)私は阿弥陀様によって知られる側(客体)です。 私が私を知るのではなく、阿弥陀様の方が私を知っていて下さるのでしたね。

どうしようもない教育も訂正もできない者と、私を見抜いて下さったからこその ご本願でした。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひ て、乃至十念せん
とあなたが願われたのですから、私には私を知ることもできませんし、このいのち、何処から来て何処へ往くのか、また生も死も私には解りません。

ただあなたの願いに自分の人生を託して「なんまんだ仏」といのちの意味を見つめていきます。「なんまんだ仏」と声になって下さったあなたとともに、何が起こるか判らない、また何をしでかすか判らないこの私ですがあなたに願われていることの意味を聴き拓かせていただきます。

あなたが、「もし生ぜずは、正覚を取らじ」と誓って下さってあるので、あなたの言葉どおりに、あなたの処へ、お浄土へ生まれさせて頂くいのちと思い定めて生きさせていただきます。

あなたの誓願には、度衆生心までも用意しての往生成仏の浄土真宗と宗祖から伺いました。

あなたのお名前は「南無阿弥陀仏」と伺いました。この上は「なんまんだ仏、なんまんだ仏」とせめてあなたのお名前を称えながら、煩悩のどまんなかで貪愛瞋憎と遊びながら、このいのちを生きてまいります。

御開山の主著である『教行証文類』を、サッパリ訳がわからんと意味も判らず拝読していた頃に記したものではあるが、知られる私としての、汝としての我の発見ではあった。私が助かろうとして法をきくのでは無く、私を助ける法が本願力回向のご法義であった。救いの法が、聞くより先にちゃんと届いていたことの驚きであった。ありがたいこっちゃな。

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高見順「ガラス」

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三好達治について書いたことがあるのだが、越前三国町に生まれた高見順は越前産である。当時の福井県知事の庶子である。そのような意味では越前生まれということを忌避したのであろうが、晩年「おれは荒磯(ありそ)の生まれなのだ」という言葉を残している。冬の三国の日本海は、鉛色の空と岩に打ち寄せ白い飛沫をあげる荒磯の寂寥とした風景だけであるのだが、東尋坊へ続く荒磯遊歩道には彼の句碑もある。
そんな高見順に「ガラス」という句がある。
このガラスとは仏教の語彙では瑠璃(るり)とか玻璃(はり)と表現されて、閻魔大王が亡者の生前の行跡を判定するために参照する、瑠璃玻璃鏡(亡者の行為の過去を記録してある記録DVDを写す鏡)である(笑
それはそれとして、外来語でビードロとかギヤマンという蘭語のglasから硝石を使うという意味をあてて硝子(がらす)という言葉が生まれたのであろう。

高見順「ガラス」

ガラスが
すきとほるのは
それはガラスの性質であって
ガラスの働きではないが
性質がそのまま働きになっているのは
素晴らしいことだ

なんまんだぶと称えさせて生と死を超えさしめようというのが本願の本質であり性質であり意味である。
それは、本願そのものの本質であって《用》(はたらき)とは区別されるものだが、本願が、なんまんだぶと称えられて、生死を超えるはららきとなっているのは素晴らしいことだ。なんまんだぶと称える行為は、仏作仏行(仏のなす仏の行)であったのである。
自分で再読しても意味がわからん文章だけど、どうでもいいや。

なんまんだぶ、なんんまんだぶ、なんまんだぶ

今日は久しぶりの勉強会。

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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浄土教は《事》を強調するので法話などでは阿弥陀如来の慈悲を強調する。その慈悲を生み出した背景である悟りの智慧を説くことは少ない。しこうして、勉強会などでは仏法の《理》である仏陀の智慧の領域を学べるので面白い。
夏目漱石は『草枕』の冒頭で、

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

と、人間の心を知・情・意に分けて述べている。たしかに人間社会においては、慈悲を強調すれば情に流されて足元をすくわれ、仏陀の智慧の理を説けば他者と衝突するものではある。とかくに人の世は住みにくいものである。

さて、御開山は晩年になればなるほど智慧を強調される。もちろん救われる喜びもあるのだが、慈悲とその慈悲を生み出した背景の阿弥陀如来の覚りの世界を強調される。ふつうなら八十歳を過ぎた老境であれば慈悲に関心が向くのだが、御開山は慈悲よりも覚りの智慧の世界に関心がおありであったのであろう。もちろん智慧と慈悲は一体のものであり別のものではない。
家の爺さんは、
真実は真実だけでは真実にならん。真実は真実ならざるものによって真実を顕すんじゃ、これが本当の真実じゃ。
と、よく言っていたものだが、阿弥陀如来の覚りの智慧は、慈悲を通して感受でき、またその慈悲によってその慈悲を生み出す智慧の世界を窺えるのであろう。

と、いうわけで、今日は阿弥陀如来の智慧の世界を堪能してくるとしよう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

お聖教の論理

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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論理といえば、同一律(AはAである)、 矛盾律(Aは非Aではない)、 排中律(Aと非Aの中間の存在はない)の、いわゆる西洋の形式論理の三原理というものがあるそうである。
これは人がものを考える時の基本的な法則だといわれるのだが、林遊には、よお解らんので困ったものだ(笑

梯實圓和上は、『聖典による学び』(*)で、

ところで、私どもがものを考える時に必ず従わねばならない基本的な法則がありますね。思考の法則があるでしょう。ギリシャ以来、私達がものを考える時には、必ずその思考が守らねばならない法則があります。自明の法則があります。それは、AはAである(A=A)という、いわゆる自同律ですね。

AはAである、従ってAはAでないものではない、Aは非Aではないという矛盾律が成立します。そしてAと非Aとの間に中間は存在しないという排中律と合わせますと三つの法則になりますが、中心は自同律と矛盾律でしょうね。それは私は私であるという事と、私は私でないという事と、これは矛盾します。ですから、AはAであるということ、これは守らねばならない約束事です。

とにかくAはAである。Aは非Aでないというと、これはものを考えるときには必ず守らねばならない法則です。このAと非Aを「有る」と「無い」といってもいいですね。「有」と「無」これは決して両立しない事柄です。ところで悟りの境地は、一切の束縛から解放された境地であるというので「解脱」の境地ともいいますが、「和讃」にはその境地を

解脱の光輪きはもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ

というような言葉で讃嘆されています。それは「有無」をはなれた境地であるというのです。

「有」というのは「有る」であり、「無」というのは「無い」であって、判断でいえば、「・・・・である」という肯定と「・・・・でない」という否定ですね。これの両者を超えている、これが解脱とか、悟りというものだ、こう言われているわけです。

だからどうゆう事かといいますとそこではAはAであるという形でものを考えないということです。しかしそれではものが考えられないじゃないかといわれでしょうが、実は本当に具体的な存在は「AはAである」という考え方では捉えられないということを顕しているわけです。

「AはAである」ということは、具体的には「私は私である」という事でしょうね。これは言葉でいいますと「私」は「私」であるといったら同語反復のようです。ところが少し違う、我々が具体的に「私は私である」といった時には、「私」は「私」以外の者ではないと強調しようとしているわけです。

だからどうしたのだといったら、「私」は人とは違った「私しか生きられない私の人生を生きるのだ」といいたいわけでしょう。ここで「私は私である」といった時には、「私は私でないものではない」ということを通して、だから、「私は私である」といった時には、この初めの「私」(主語)と後の「私」(述語)とでは自覚内容が違っております。

そうすると「私」は「私」であるといった時には、ただ同語反復しているのではないのです。だから「私」は誰の生き方でもない「私」の生き方をするのだ、という自覚と自立を顕わしています。

そうしますと初めの「私」は自覚以前の「私」、それを「私である」といった時の後の「私」は自覚し自立している「私」ですから明らかに「私」の内容が違っています。そうすると初めの私(A)と後の私(A)とは違いますよ、つまり「私でないもの」(非A)を媒介とする以前の私(A)と、私でない(非A)というものを否定的に媒介して成立した後のAとではAの内容が違うということになりましょう。

違うとすれば、Aは非Aであるということになりましょう。これが現実にあるものの姿なのです。つまり現実に有るのは、AはAであるというだけでは表せない内容を持っているということになります。そうするとAはAであって、非Aではないと云う論理は崩れていくということになりますね。すこしややこしくなってきました。

お釈迦さまがおさとりになった境地というものは、AはAであって、決して非Aではないという論理では表せない領域であったのです。その意味では不思議といわねばなりませんが、実はそれが、もっとも具体的な、もののあるがままの姿を見極めておられたのだといわれています。

そこでその境地を真如(本当にあるがままのありよう)とも実相(まことのすがた)ともいわれているのです。

しかしそのような領域は、人間の分別的な思考では捉えることが出来ませんから、無分別智の領域であるともいい、二元的、対立的な言葉では言い表すことも考えることもできませんから一如ともいい、不可思議、不可説ともいいならわしてきたのです。

お釈迦さまのお経というのは、そのようなおさとりの境地に立って、その境地に私たちを導くために説き表されたものですから、言葉を超えた世界を告げる言葉であるといわねばなりません。私がお聖教の言葉は、私どもが日常使っている言葉とは質が違うともうしましたのはその故です。

お釈迦さまがおなくなりになって数百年たった西暦二・三世紀頃に南インドに龍樹菩薩が出現されて、私ども人間がその知性によって概念的に把握している世界というものは、実は分別が作り上げた虚構の世界だといい、私どもは自分が概念によって作り上げた虚構の世界を、言葉によって作り上げた虚構の世界をまるで実在であるかの如く考えて実体視し、とらわれて身動きが出来ないような状態になっている。それを迷いという。  この妄念を突き破るために如来は言葉を設けて呼びかけておられるといい、「諸仏は、二諦によって法を説く」と云われています。

二諦というのは、真諦と世俗諦のことです。真諦とは、一切の分別を超え言葉を超え離れた悟りの境地そのものをいい、その真諦を分別的な言葉で言い表して人々と接点を持ち、救うていくために教えを説くことを世俗諦というのです。つまり言葉をもって言葉を超えた世界に導くのが経典であるというのです。

お経を読んでいると面白い言葉が沢山出てきます。たとえば『金剛般若経』などには、「仏は仏でないから仏である、衆生は衆生でないから衆生である」というような言葉が幾らでも出てきます。AはAで無いからAであるというのですから、もう「AはAである」というような形式論理学ではどうしようもない表現が用いられているわけです。

鈴木大拙という方は、これを「般若即非の論理」といわれていますが、まさに、人間の概念的に物事を理解していこうとしていることに対する、破壊的な表現であるといわねばなりません。しかし先にも申しましたように、概念的にきちっと分別すれば、ただしく物事が捉えられるかといえば、どうもそうではないところがでてきます。

と、論述されておられる。
道元禅師は、私でないもの」(非A)を媒介とする私(A)、つまり、私でない(非A)を、「万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と、他己と呼ばれているのもそのような意味であろう。いわゆる他なる己である。
しかして、なんまんだぶのご法義は本願力のはたらく対象を他とする他力のご法義であり、救済されるべき他を「若不生者 不取正覚」といい、衆生の往生浄土と自己の正覚を一体に誓われた不二のご法義である、他己なる非Aであるわたくしと自らの覚りを一体であると示されるのが第十八願の念仏往生の願であった。
それを、御開山は、斯心 即是 出於念仏往生之願。 (この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり)(*)と示されるのである。乃至十念の、我が名を称えよという教説であった。

と、いうわけで(どんなわけやろ)、お聖教を読んでいるとよく出てくる四句分別についての面白い考察があったのでWikiArcの四句(*)のページに追記してみた。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、安心も信心も、なんまんだぶと称えるこの声となって耳に聞き口に誦して顕現しているのである。

 

おもふ

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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おもふ、という日本語がある。

人は誰でも「おもふ」という言葉を使うのだが、この言葉は多義的概念であって、判っているようで解らない言葉だったりする。
日本語は同音異義語が多いので、おもふという言葉の意味の把握がやっかいである。漢字語では、意、惟、謂、憶、懐、顧、思、想、念という区別があるのだが、日本語ではこれらを含めて「思ふ」という言葉に集約するのであろう。

さて、自我意識に目覚める林遊の中学生の頃か「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉に、外部世界の現象は、わたくしの描く妄想であり、我の感じる「おもふ」という直感だけがわたくしであると思っていたものである。
今にしておもえば、いわゆる主客二分以前の言葉によって分節することの出来ない世界を表出する言葉が「思ふ」という言葉だと思っていたのである。しかして、この「思ふ」という自己の内面世界を人に理解してもらえるように伝えるには言語による表現によるべきであると思い、片っ端から本を読み辞書を読み語彙を増やすことに専念していたのが中学生の頃ではあった。結果は、お前のいうことは意味が解らんであった(笑

爾来、言葉によって自己の内面世界の「思い」である内部言語を、外部言語に翻訳する作業を止めた。《恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす》という言葉があるが、言葉によって意味を固定するより、思いを言葉につむぎだす以前の「おもふ」という世界があるのであろう。御開山は、聞思莫遅慮(聞思して遅慮することなかれ)と仰せだが、この思という言葉に万感の思いを込めておられるのかもと「思ふ」。
それは、それとして、以下の丸山 圭三郎 氏の著書、『文化のフェティシズム』による「思ふ」という言葉の考察は面白かった。

成人してから西欧語をいくつか学ぶ機会をもったが、日本語の「思う」にあたる言葉に出会ったためしが一度もないような気がする。小倉百人一首には、百種中二十余首のなかに「思ふ」という動詞が現れている。

思いつくままにそのうちの数首をあげれば、いずれも「ものを思ふ心」を詩っていて、この「もの」が「物」でも「モノ」でもないことはいうまでもあるまい。

忍ぶれど色に出でにけりわが恋は
ものや思ふと人の問ふまで

逢ひ見ての後の心にくらぶれば
むかしは物を おもはざりけり

長からむ心も知らず黒髪の
乱れて今朝はものをこそ思へ

嘆けとて月やはものを思はする
かこち顔なるわが涙かな

人もをし 人も恨あぢきなく
世を思ふ故にもの思ふ身は

「思う」は{分別智}としての倫理的思索でも合理的思考でもない。
それは「ねがい」であり「憂い」であり「恋い慕うこといつくしむこと」であり<来し方・行末>をめぐる追憶と予見・想像でもあって、さらには理性/感性といった二分法以前の身体的パフォーマンスとしての{顔の表情}でもある。
「おもへり」なる大和ことばは面貌を意味し、「おももち、おもかげ」とともに「思ふ」と同根と聞く。(万葉「物悲しらに思えりし吾子の吾子の刀自を…」)

ボードレールは……黄昏の海と空の無限を前にした自我が、限りなく拡散し消失するのと同時に限りなく収斂し充足する経験を詩って、これこそ「音楽的思考、絵画的思考だ」と言っている。しかしそれは、「音楽的」とか「絵画的」とか「詭弁や三段論法や演繹なしに」いう修飾語の助けを借りざるを得ない。「思考する」という動詞であった。「思う」はこれらを一語で表すばかりか、「さしも知らじな燃ゆる思ひ」という火のイメージをも生み出すのである。『文化のフェティシズム』p.252

日本海の海原に沈んでいく、真紅な夕日の前に一人の人間として立つとき、自己が崩壊し夕日に溶け込むような思いがある。西行は伊勢の神宮に参拝して、

なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

と、詠ったそうだが、彼が日本海に沈む夕日を前にしたならば、
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えることしか出来なかったであろう。言葉を超えた世界から言葉になって届く、ことばであった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、これが浄土教の救いである。

 

迷いがおもしろい

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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鈴木大拙師、曾我量深師、金子大榮師の鼎談を西谷啓治師が司会された『親鸞の世界』という大谷派の書籍から引用。

迷いがおもしろい

鈴木 迷うておるということがあるが……。

曾我 迷うておるということは、やはり如がなければ迷わない。

鈴木 迷うているのもおもしろいというようなところはないんですか。

曾我 え?

鈴木 迷うておるところが…….

曾我 けど、それは先生は悟っているから、迷うのはおもしろいと──、迷うている人はおもしろくも何ともない。(笑い)

鈴木 いやこういうことがあるですね。まあなにかことがあるだろう? そうするっちゅうと理屈からいえば、もうみなちゃんときまっているので、死ぬものは死ぬ、生きるものは生きるですね。しかしながら、まあここに癌で困っている人があるとするな。これはもう医者の方でみればとうていもう死ぬんだと、こう思うですね。
けれどもだ、こっちの方から見るとだね、医者では死ぬんだが、また何かで生きるっちゅうことがあってだね。どうぞ……、というその、願いですね。もういかんのだときまっておっても、それにもかかわらず何とかよくなってくれと……。それから人が外へ旅するだろう。今日はもう電車で衝突したり。汽車がひっくり返ったり、いくらでもあるが、しかし何とかしてそういうことのないように無事にむこうに着いて、そして帰ってきてくれと、その願いが出るですね。これは理屈からいえば馬鹿なはなしだね。なるようになるんだから…….けれどもそれがわかっておってもだね。その迷いの心というか、何とかいう願いがやまないですね。わしはそこがおもしろいと思うんだ。おもしろいちゅうといかんかも知れんが、人情で苦しんで悲しんでいながら、そこになにか暖かいものを感じてだね、それですべてが包まれていくと、そんなだと迷いがおもしろくなる。

曾我 それはまあ、ただ苦しんでいないで、苦しんでいるなかにやはり楽しみがあると、こういうんですね。

鈴木 楽しみといっちゃいけないんだ。これはみんな苦しみだ、その苦しみは七転八倒の苦しみだけれども…….

曾我 何か暖かいものがなければ苦しみもしませんね。(笑い)

鈴木 そうです、(笑い) そこで金子さんはありがたいとおっしゃるかも知れんが、そういう点をだね……。

金子 ええ。

鈴木 弥陀の光りにおいてそういうことがいえるんだからね。わしの方じゃありがたいというよりも、むしろおもしろいんだ。(笑い)

曾我 いや、おもしろいということもあるし、両方あるんでしょう。(笑い)

鈴木 そうすると、そうね……、世の中を見るっちゅうと、そうなっちまうがね。

曾我 おもしろいことがなけりゃ、しょうがないですね。(笑い)

 

少しく対話がかみ合っていない気がする。曾我師は善悪相対の二元論の立場で語られるし、鈴木師は相対の上の一元論の立場で語っておられるのだろう。御開山にはこの両方があり、穢土と浄土の相対二元を本願力回向という概念ですっぽり包みこんで一元的に見られているのでややこしい。(笑

御開山は、ご自身の法に遇いえたよろこびを語られるとき、現在形と未来形でよろこびを語っておられる。『一念多念証文』で、

10】 「其有得聞彼仏名号」(大経・下)といふは、本願の名号を信ずべしと、釈尊説きたまへる御のりなり。「歓喜踊躍乃至一念」といふは、「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきかたちなり、慶楽するありさまをあらはすなり。

慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたちをあらはすなり。「乃至」は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす。(*)

と、されて、「うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」は、娑婆から浄土へ往生する二元的未来形のよろこびであり、「うべきことをえてのちによろこぶこころなり」という表現は、現在いまここで、なんまんだぶを称える者に顕現する、一元的な本願力回向の念仏衆生摂取不捨の「超世希有の正法」である。なんまんだぶを称え、本願のなんまんだぶの声に包摂されているからこそ、往生浄土という将(まさ)に来たるという将来する浄土という世界が開かれつつあるのであろう。このような意味で本願に包摂されている生き方は、迷いがおもしろいということもいえるのであろう。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

WikiArcページへのリンクへの仕方。

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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自分の整理用にWikiArcへのリンク方法をメモ。

WikiArcでは、ブログやHPなどで浄土真宗聖典のページを参照したい場合に、ページや段落番号などへのリンクができます。なおページNoは、[PageNO表示]をクリックして表示させることが出来ます。 以下の説明中でNはアラビア数字のことで、Pおよびnや記号も半角(1byte文字)です。

単にページへリンクする場合。
http://labo.wikidharma.org/index.php/ページ名

注釈版(七祖版も含む)のページNNNへリンクする場合。
http://labo.wikidharma.org/index.php/ページ名#P–NNN
ページの段落 番号(N)へリンクする場合。
http://labo.wikidharma.org/index.php/ページ名#noNN
また、Wikiの場合ページ名がURLエンコードによって長くなるため、各ページにあるショートカット、WD:Shortcutを使いページ名を短縮することも出来ます。 この場合ページ名は単にWD:Shortcut名の置き換えになりますから、#P–及び#noNNというリンク形式も利用できます。単にページ名の置き換えとしてWD:Shortcutが使える。
例:
『教行証』行文類の段落番号12へのリンク。
ショートカットを利用
http://labo.wikidharma.org/index.php/WD:Gyou#no12

漢字表記によるリンク(ブラウザ及び使用する漢字コードに依っては不可)
http://labo.wikidharma.org/index.php/顕浄土真実行文類#no12

漢字コードをUTFエンコードしてリンクする場合。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E6%96%87%E9%A1%9E#no12

上記の三例は同じリンク結果になるはずですが、用途によって使い分けすれば便利です。
なお、親鸞聖人が引文された七祖聖教については[inmon]というボタンをクリックすることによって経・論・釈の引文部分を赤の破線で囲んで表示できます。ただし、親鸞聖人はいわゆる漢文の訓点を替えるとか、また、~したまえりという表現で引文された文章を受動形で表現されて本願力回向の宗議を発揮されておられますから注意が必要です。詳細は、註釈版聖典七祖篇を読むのページを参照。