無量光明土

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「ノート:無量光明土」に追記

仏教で光とは智慧の意であり、親鸞聖人は阿弥陀如来の浄土を無量光明土であるとされた。

また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。『弥陀如来名号徳』(*)

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。『教行証文類』「両重因縁釈」(*)

必至無量光明土 諸有衆生皆普化(かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。)「正信念仏偈」(*)

無量光明土は、『無量寿経』の異訳である『平等覚経』の以下の文。

速疾超便可到 安楽国之世界。
至無量光明土 供養於無数仏。(*)

すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。

からのものである。 『平等覚経』の当面では、無量光明土とは、無量の諸仏のまします光明土の意であるが、御開山はこれを転じて、阿弥陀如来の浄土こそが根源的な無量の光明の土であるとされた。光で象徴される智慧の顕現している世界こそが真に無量光明土だといわれるのである。
『尊号真像銘文』で「帰命尽十方無碍光如来」を釋され、

「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。(*)

と、「無碍」と「光如来」に分節され、阿弥陀如来を「光如来」とされておられるのも同じ意である。阿弥陀仏とは智慧の光の如来であるとされるのである。また、浄土とは、この阿弥陀如来の悟りの智慧によって荘厳される世界であり、土もまた智慧の世界であるということが「無量光明土」の意味であった。この阿弥陀如来の智慧の領域が「誓願一仏乗」といわれ、あらゆる仏陀を仏陀たらしめる淵源であり、そして、あらゆる衆生を救済する本願力の根源であった。「一乗海釈」下で華厳経を引かれ、

『華厳経』にのたまはく、「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。(*)

とあるように、浄土真宗とはあらゆる仏陀が出現される無碍の一道であった。

第十七願に、

「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」(わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)

とあるように、十方世界の無量の諸仏が、林遊に、なんまんだぶを聞かしめ称えさせるというのが、念仏は無碍の一道というご法義であった。

仏の智慧が「如より来生して」大悲として「名声聞十方」と、称えられ聞こえるのが、なんまんだぶという救済の言葉であったのである。それを受け入れたことを信というのであった。

(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし(*)

と、讃詠される所以である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

子の母をおもふがごとくにて

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異なった文化が伝播された時、それを受容する文明の側では既存の文化の中から共通するものと共振させる行為が生まれるのであろう。
インドで生まれた仏教が、異質なシナ文化と触れ合った時、自らの文明の中に共鳴する文化を掘り下げて理解しようと努力するのであろう。
文化と文明という言葉の区分については、以下を参照されたし。
「文化」

我々日本人はシナ文明を漢字によって受容したのだが、ここでも文明の衝突があったのである。漢字で表現されている言葉を、自らの言葉に翻訳することによって受容するとともに、より自らの文化を深化させることができたのであろう。

(115)
子の母をおもふがごとくにて
衆生仏を憶すれば
現前当来とほからず
如来を拝見うたがはず

この和讃は、漢語によって表現されている意味内容を、和語によって再表現する試みである。「おもふ」という日本語と「憶す」と言葉は意味が違うのだが、「ごとく」と、されている御開山の発想がとてもありがたい。

さて、このご和讃の元となる『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』(略して『首楞厳経』)をネットで調べていたら以下の動画に遭遇した。
浄土教は阿弥陀如来の智慧が、慈悲へと転換する教義であり慈悲を感ずることは、その慈悲を生み出した仏教の智慧に感動することでもある。
慈しみ悲しむということは、動画中にもあるように、我々浄土真宗の門徒にはなじみの深い『正信念仏偈』(元は『無量寿経』)の、生と死の闇に呻吟している者への十二光仏の光の救済であった。

家の尋常小学校卒の爺さんは、真宗坊主の法話を聞いて、そのご法話の元になった言葉は何処にあるのですか? と、問い坊さんを困らせていた(笑
と、いうわけで、御開山のご和讃の出拠をWikiArcのノートに記した。
http://wikidharma.org/4ffe53d68b31a

ちなみに偽経を生み出す背景には、異質な文化を受容しようという先人の智慧があるのだが、大乗非仏説などを論じる輩には仏教の生み出した文化に対する視点が決定的に欠けているのだと思ふ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ これが大乗の至極だな

 

 

疑ひながらも、念仏すれば、往生す

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徒然(つれづれ)とは、退屈で手持ちぶさたということである。することがなくて暇なので、徒然なる思いを草したものに『徒然草』がある。この『徒然草』の中に、法然聖人のご法語が載せられている。

1.或人、法然上人に、「念仏の時、睡にをかされて、行を怠り侍る事、いかゞして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。

2.また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。

3.また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。〈39段)

意訳:
1.なんまんだぶを称えている時に眠たくなることがあるのですが、これはどうしたらよいのでしょうか、という問いに、法然聖人は、寝てしまったら目が醒めた時に、なんまんだぶをしたらよいであろうと答えられた。尊いことである。

2.また、なんまんだぶを称える者にとって、往生ということは、もう決まっている事であるから決定しているのであり、これを確かでないと思うなら往生は不定であると言われた。これもまた勿体ないことである。

3.また、疑いながらも、念仏すれば、往生するのだ、とも言われたのであるが、どれも尊く有難いことである。

ありがたいご法語である。
しかし、信心正因という言葉をドグマ的に理解している者にとっては、3のご法語は疑心往生説のように受けとられるのであろう。
何故ならば、なんまんだぶを称えていないからであり、仏智の不可思議の世界からの救済の言葉がなんまんだぶであるという事に、未だかって思いを致したことがないからである。

まさに善導大師が、「往生別時意」を破す論法で使われたように、

ただその願のみあるは、願すなはち虚しくしてまた至るところなし。 かならずすべからく願行あひ扶けて所為みな剋すべしと。(*)

である。
ただ、往生したいという願いのみであれば、虚しい観念の遊戯であって浄土に至ること無いのである。もちろん行のみでは「ただその行のみあるは、行すなはち孤にしてまた至るところなし。」(*)であるのはいうまでもない。
「行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫び」である、といわれるごとくである。

さて、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」のご法語であるが、ここでの疑いとは、先の「疑情」で述べた猶予不定(*)をいうのではない。
この人は、既に、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」(「南無阿弥陀仏、浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」)の、なんまんだぶを称えている行者である。
「本願名号正定業」(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。)であるという、阿弥陀如来の選択摂取された教法を実践しているのである。
本願成就文に、「聞其名号 信心歓喜」とあるごとく、なんまんだぶという名号は、林遊をして仏の名を称名させ、救いの名を聞かしめて、願うべき悟りの世界を知らせる、本願力のはたらきであった。
本願力とは論註の「荘厳不虚作住持功徳成就」にあるごとく

「願以成力 力以就願 願不徒然 力不虚設 力願相苻 畢竟不差 故曰成就」(願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに成就といふ )(*)

である。
ほとんど意味が判らないのだが、莫迦な林遊にも本願力が成就し、はたらいているという事は肯がうことが出来る。
先人の句に、

引く足も、称うる口も、拝む手も、弥陀願力の不思議なりけり

と、あるが、暇つぶしに下手な説教を聞こうと聴聞の場へ足を運ぶ思いも、なんまんだぶと称える口業も、阿弥陀様を礼拝する拝む手も、阿弥陀如来の本願力が林遊の上ではたらき顕現するすがた(相)であった。ありがたいこっちゃな。

私の口から、なんまんだぶと称えられていることの驚きが信心ですと言われた先人がいるが、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」という法然聖人のご法語は、自らの疑いという枠を越えた世界から、届けられ行じられる行業であるから、どれだけ疑っても、念仏すれば、自然に往生の業因は決定するのであった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

疑情

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組織に対する不審や指導者の説く教義に対する疑問を「疑情」と混同している輩がいるので、WikiArcの「疑情」の項目に加筆した。

ぎじょう

阿弥陀仏本願を疑いはからう心。(行巻 P.207浄文 P.489,愚禿上 P.504,高僧 P.597,正信大意 P.1038)


疑とは猶予不定(ゆうよふじょう)をいう。迷いを超える仏教の理(ことわり)に対して、猶予して決定しない精神の作用のことである。自らの描いた想念によってためらい、仏教の真理に対して決定的に思い切ることができないことを疑という。
これは煩悩の異名である五蓋の中の疑蓋に相当する。親鸞聖人は三心一心の字訓釈で、至心・信楽・欲生を、それぞれ疑蓋無雑(ぎがいむぞう)とされたのはこれに基づく。あらゆるものを救済するという阿弥陀如来の本願力を疑い、自らが拵えた疑いの蓋を雑えで遮蔽していることを疑というのである。救いの法は光明・名号摂化十方と現に届いているのであり、これを受け入れないことを真宗では痴無明と区別して疑無明とよぶ。「行巻」破闇満願釈で、「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破」す、とされる由縁である。
なお、不審と疑心は違う概念であり、これを混同すると盲信に陥る。不審とは審(つまび)らかではないという意で、より深く本願の意味を知り、かつ味わいたいということであって、本願に対する疑情とは峻別すべきものである。親鸞聖人が唯円房の問いに「親鸞もこの不審ありつるに」(歎異抄9条)と、仰せられたごとくである。
これを混同すると善知識という人師の言葉を盲目的に受け入れ、人惑 1 を受けることになる。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって右往左往するのである。あまつさえ組織や善知識に対する不審を問うことすらも、疑情とされてしまうのである。

  1. 『臨済録』に「但莫受人惑」(但だ人惑を受くる莫かれ)とある。人の言葉や人の描く、世の価値・評価・生き方・思想等に幻惑されることを戒める。 []

第二十二願の読み方

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WikiArc 常倫に…現前し への追記。

第二十二願の読み方には三種類有る。

設我得仏 他方仏土 諸菩薩衆 来生我国 究竟必至 一生補処。除其本願 自在所化 為衆生故 被弘誓鎧 積累徳本 度脱一切 遊諸仏国 修菩薩行 供養十方 諸仏如来 開化恒沙 無量衆生 使立無上 正真之道。
超出常倫 諸地之行 現前修習 普賢之徳 若不爾者 不取正覚。

 

  • 浄土論の訓
常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を 取らじ
  • 本願寺派原典版の訓
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せんをば除く。もししからずは、正覚を取らじ。
  • 本願寺派註釈版の訓
常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。

原典版及び註釈版は、除其本願の除外の係りが違うだけで文意は同じ。諸地の行とは十地の菩薩の利他行。

『浄土論』の訓では、浄土は修行の環境が勝れているので、浄土に於いて常倫の諸地の行を現前する意である。娑婆世界においては、歴劫迂回の行を修して仏果に至るのであるが、浄土では娑婆のような常倫の菩薩の諸地(十地)の行を超出するというのが『浄土論』の訓であろう。
しかし、親鸞聖人は、往生と同時に、常倫に超出して、十地の諸地の行が(娑婆世界)で現前する、という還相の相であると見られた。往生の徳として諸地の行が現前するのである。これがまさに『無量寿経』の「皆遵普賢大士之徳」(みな普賢大士の徳に遵へり)という普賢菩薩の慈悲行を実践することとされた。法蔵菩薩の菩提心(本願)に感動し、その菩提心に包まれて浄土へ往生する者には、智慧の必然としての大悲を行ずる利他行も用意されているというのである。
以下の「讃阿弥陀仏偈和讃」の普賢の徳の左訓には、「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲をまうすなり」とある。

(17)

安楽無量の大菩薩
 一生補処にいたるなり
 普賢の徳に帰してこそ
 穢国にかならず化するなれ 『浄土和讃

(36)

還相の回向ととくことは
 利他教化の果をえしめ
 すなはち諸有に回入して
 普賢の徳を修するなり 『高僧和讃

なお『教行証文類』「証巻」末尾には「還相の利益は利他の正意を顕すなり」とあり、如来の利他力による往相(往生浄土の相状)を示すことは、往生者をして還相せしめようという阿弥陀如来の本意であると御開山はみられた。

常倫に

困った時の智度論(笑

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坊さんの勉強会に出た新発意から問いがあった。
『正信念仏偈』の龍樹章の出拠云々だが、出拠の判らない文は『智度論』だろうと言われたそうである。
坊さんは判らないと困って、すぐ智度論を出してくる(笑
と、いうわけで該当しそうな文を提示した。

釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽

『入楞伽經』より。
如來滅度後 未來當有人
大慧汝諦聽 有人持我法
於南大國中 有大徳比丘
名龍樹菩薩 能破有無見
爲人説我法 大乘無上法
證得歡喜地 往生安樂國(*)

読み下し。
如来滅度の後に、未来に当(まさ)に人有り。
大慧、汝よ諦聴せよ、人有りて我が法を持せん。
南大国中に於いて、大徳の比丘有り。
龍樹菩薩と名づけ、能く有無の見を破し、
人の為に我が法の 大乗無上の法を説き、
歓喜地を証得して 安楽国に往生せむ。

1.顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
2.憶念弥陀仏本願 3.自然即時入必定
4.唯能常称如来号 5.応報大悲弘誓恩

『易行品』より対象となる語をピックアップ(*)
1.陸道歩行則苦。水道乗船則楽。
2.阿弥陀仏本願如是~是故常応憶念
3.即時入必定。
4.応以恭敬心 執持称名号
5.『易行品』には「応報大悲弘誓恩」に相当する語はないのであるが、『安楽集』引用の『大智度論』(意)に、為報恩故 常願近仏( 報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんと願ず。)(*)などとあるところの意を表現されたものであろう。

自力という言葉に対する考察

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ドメイン名に、wikidharma.orgとあるように、このブログは、WikiArcの意味内容をあれこれ論じるブログでもある。と、いうわけで新たに書き込んだ内容についてあれこれ。
いわゆる「聖典」というものは、言葉を超えた世界を、再び言葉によって表現しようとするものであるから、我々が通常使っている言葉の世界と違う意味があるということを理解しないと意味が解からなくなるのである。例せば辞書を引いも、通常使われる言葉の意味の他に「仏語」という項目があるように言葉の成立概念の違いが判らなければ「聖典」の言わんとすることを理解しえないであろう。

に依りてに依らざるべしという依義不依語(*)に立たれて、阿弥陀如来の本願力が、なんまんだぶという声になって動的にはたらいている相状をご信心という語に集約されたのが御開山であった。
言葉と言表(言葉によって表現されている意味内容)を、正確に把握しなければ、言葉によって騙され、断章取義のおかしな宗教にのめり込むような状態も生じるのであろう。

他力という言葉の意味については、WikiArcの「他力」の項に加筆したのだが、聴聞や、なんまんだぶを称える行為を「聴聞・念仏」の自力であるという書き込みをFBで見たので反応してみた。

以下、WikiArcの「自力」という項目のノートへの書き込み内容。

通常には、自力とは、自分ひとりの力の意である。

しかし、仏教で使われる自力とは、悟りへ到るための修行によって、修得した能力が自分自身に備わることを自力という。また、自分の修行による功徳・利益を、自分一人で受け取ることを自力という。
浄土門においては種々に論じられるが、浄土真宗の場合は、如(悟りの世界)より来生している阿弥陀如来の本願を疑うことを自力という。人々に功徳・利益を施して、悟りの世界を示し、救済しつつある阿弥陀如来の救済(本願)を拒絶していることを自力というのである。仏陀の悟りの智慧の顕現である本願を、疑惑する自分自身のはからいのことを自力というのである。
このように、本願に背き自己の想念に迷っていることを親鸞聖人は自力というのであって、世間にあって自助努力することを意味する自力という言葉とは、質的な次元が違う言葉なのである。 浄土真宗における自力の否定とは、阿弥陀如来の本願を疑う自らのはからいを自力として否定するのである。 この意味を取り違えると浄土真宗で自力のはからいを否定する言葉が、世間における自助努力を否定する怠惰な無力主義であるかのように誤解されるのである、
また、大乗の菩薩は、自利(自らが悟りを得る利益)と利他(他者を悟りへ誘う利益を与えること)の二利を修することで悟りへの道を歩むのであるが、親鸞聖人は、この自利を自力とし、利他を他力ともされる。何故なら真実の自利は法蔵菩薩の願行においてのみ論じられるものであり、その自力(自利)によって成就された功徳を回向される客体が、利他の対象である衆生であるからである。

 

浄土教の開宗

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天台大師智顗は、仏国土を四土に分類され四種浄土説を建てられた。(*)
いわゆる仏国土を、行者の修行の階梯に応じて、凡聖同居土・方便有余土・実報無障碍土・常寂光土の四種を措定し、阿弥陀仏の極楽(浄土という表現は一般名詞であり、極楽という語は、阿弥陀如来の居ます仏国を指し示す固有名詞)は、凡夫と聖者が同居する劣なる凡聖同居土であるとされた。凡聖同居土とは、この娑婆世界のように、釈尊や龍樹菩薩のような聖者も居られれば林遊のような凡夫も同居する土のことである。聖者と凡夫が同居する土であるから凡聖同居土という。
ただし、浄土の凡夫は、煩悩があってもそれを外にあらわさないので内凡の凡夫であり、煩悩を外へ垂れ流しの外凡の凡夫のことではない。

さて、阿弥陀仏の浄土が、なぜ凡聖同居土なのかの理由に、『無量寿経』で説かれる浄土には、人・天・声聞・菩薩・仏が同じく居るからであるとする。

たとえば『無量寿経』の第十一願に、「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。」とある。この「国中の人・天」というのはあきらかに凡夫であり、凡夫が居るような浄土は卑しくて劣っている、というのが凡聖同居土説であった。このような考え方に対して、『無量寿経』で説かれる、人・天・声聞・菩薩という呼称は、往生者が元々居た国土での名前を依用しているという反論はある。いわゆる、「昔の名前で出ています」論だが、詳細は『論註』(*)等を参照されたい。

さて、法然聖人は天台の学僧であったから、このような天台における浄土観についてよくご存知であった。そして、この天台の教説の論理の枠内にいる限り、善導大師が力説され、善導大師の教学の根本である「凡夫入報説(*)の真意はあきらかにされないと考えられたのであった。偏依善導一師(偏に善導一師に依る)の主体的決断から、どうしても既存の仏教論理のほかに往生浄土を宗とする仏教の必然性を考えられたのであった。ちなみに、浄土宗は往生浄土宗の略であり、浄土真宗は、往生浄土の真宗の略である。
以下、『拾遺漢語灯録』(原漢文)から、そのおこころを窺ってみよう。

また一時、師(法然聖人)語りていわく。
我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。
しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。
このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずや。此の如きの人は未だ旨を知らざる也。若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。
且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。『拾遺漢語灯録』

天台宗とか法相宗でいわれる浄土の理解では、凡夫が往生する浄土は卑淺であるか、あるいは、凡夫には手の届かない高次の菩薩が感得する浄土であった。このような既存の仏教体系の中にあっては凡夫は往生の道を絶たれるだけであったのである。
ここに、仏願に順ずる全く新しい仏教があると、仏の本願に立って開宗されたのが法然浄土教であった。自己の救いを、阿弥陀如来の本願の中に生死出ずべき道として発見されたのであった。
法然聖人を論難する『興福寺奏状』(*)には「新宗を立つる失」の一条があるが、順彼仏願故の文によって本願によって、仏から汝と呼ばれる自己を発見された立場での開宗であった。旧来の八宗の成立根拠とは全く意味が異なる浄土教の開宗であったのである。

親鸞聖人が、『教行証文類』の行巻で、『選択本願念仏集』にいはく、「南無阿弥陀仏 往生の業は念仏を本とす」と、された所以である。

 

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

 

順彼仏願故

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法然聖人の回心(*)を記したことがあったが、『和語灯録』から少しく引用してみる。

もし無漏の智釼なくば、いかでか悪業煩悩のきづなをたたむや。悪業煩悩の絆を断ぜずば、何ぞ生死繫縛の身を解脱する事をえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせんいかがせん。ここにわがごときは、すでに戒・定・恵の三学のうつはものにあらず、この三学の外にわが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらひしに、おしゆる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだ、なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづから身づからひらきて見しに、善導和尚の『観経の疏』{散善義}にいはく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」といふ文を見得て後、われらがごときの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、决定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。
「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。『諸人伝説の詞』(*)

法然聖人は、よろずの知者・学者の善知識を尋ねたが、だれ一人として、生死繫縛の身を解脱する道を教え示す者は、いなかったと述懐されている。
戒・定・恵の三学無分の者であるという自覚の上に立つ者には、信がないからであるとか、修行が未熟であるとかいう応答は、何の意味もないのである。そこで、なげきなげき、ひたすら聖教に向かわれた法然聖人が目にされたのが、『観無量寿経』の注釈書である『観経疏』の一文であった。「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」(*)の文の「順彼仏願故」の文である。
自己が選択し回向する行業ならば、自己の選択の過失はとりかえしのつかない事になる。しかし、仏が本願によって選択してある行業であるならば、回向の主体が仏になるのであり、衆生の側からは不回向の行業であるのが、なんまんだぶの一行であった。

「順彼仏願故」と、あるように、仏願に順する行が一心専念の、なんまんだぶであった。この「順彼仏願故」の文によって私から仏へというベクトルから、仏から私へという方向転換の教説によって回心なされたのが法然聖人であった。口に、なんまんだぶと称える行為(行業)は、私が賢しらに選択するような行ではなく、阿弥陀如来の本願の中にすでに選択されてあった行であったという驚きであった。私が選んだ行であるならば、私の選ぶという行為の禍愚に左右され、決定の行ではない。しかし、阿弥陀仏が本願に選択して下さった行業であるならば、その行を行ずる者は、本願に随って往生せしめられる決定の行であった。これが法然聖人の教学の根本である選択本願念仏の教えであった。

称えたから救われるのではなく、称えた者を救うという、阿弥陀如来の利他の本願があるから救われるのである。この利他のはたらきを他力というのであった。他力の他は阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏の、他を利益する利他の本願に随順する者を他であるというのであった。他力の他は私であったのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、彼の仏願に順ずるがゆえに。

阿弥陀さまの目的の中を生きる

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阿弥陀様がごいっしょ」から。
>>引用開始

本願寺第三代覚如上人の仰せに”如来の大悲、短命の根機を、本としたまえり”とあります。臨終命の際の者こそ、急ぎ救わねばならぬと、阿弥陀さまがナンマンダ仏のお慈悲のおすがたに現れて来て下さるとのお示しの言葉です。
余命いくばくもない命は、精神的にも肉体的にも訓練を受け続ける力はない。たとえ力があったとて充分な時間の残りはもはや有りません。
それが短命の者、命の際に臨む者なのです。そこには、教育していく時間の余裕も能力を開発してなどという見込み一つ立たない命を、取り込んで諸有衆生(あらゆるもの)を救う方便(てだて)が仕上がりました。
ナンマンダ仏、そこには身構え・気構え・体力・気力・全く見込めぬ命こそと、お慈悲きわまるところから聞こえて下さる声の如来さまがいただかれます。
さて再び法友・広兼至道君の話。 骨髄ガンの末期症状をこまかに説明をうけ、あと一月の命とも自ら承知して彼が語りました。
”真宗関係のいろんな雑誌を見舞いに貰う。然しどの文章にも大方、阿弥陀さまがおいでになりません。この世に五年も十年も生きとって、ゆるうっと読んで理解すりゃええ程度のことばかり書いてある。悠長なことです。私はあと一月長いこたぁない私には間に合う文章ではないですよ。
そこはさすが如来さまです。私を見込んで組み込んで、ナンマンダ仏五体一杯満ちて来ておいでですもんね。ナマンダ仏のお助けは、今日が目的ですもんね。極めつけの短命の機、私がお眼当てです”とお称名しきりでありました。

>>引用終了

後年耳にしたのだが、広兼至道師は、お経はいいですね、阿弥陀さまの御説法は、ひたすら救いが説かれ衆生の罪が説かれていないですから、とも仰ったそうである。
罪を犯した人に、「汝の罪は深い」と告げて何になるのであろうか。その罪もろとも抱きかかえて摂取して下さるのが、なんまんだぶの阿弥陀さまのご法義である。
ご当流は、安心を本とし教学ゴッコは末の末であるのだが、莫迦ほどお聖教の論理の網に囚われて迷うので、どもならんな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ