話がうますぎる (笑

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輝く讃歌 正信偈を仰ぐ(賞雅哲然)より
http://tinyurl.com/kke88y

>>引用開始

私はこのことを思う時に行信教校時代に、道念厚く信仰の深かった先輩高田慈光法兄<元行信教校教授高田慈昭師尊父>から聞いたお話を思い浮べるのであります。

この先輩のお寺に見知らぬ人が訪ねて来られました。何かの機縁で道を求める心が起こりキリスト教、真言宗、天理教と転々と熱心に道を求めて遍歴されましたが、どうしても落ち着く事が出来ません。それで親鸞聖人の教えを聞かしてほしいと訪ねて来られたのであります。

この先輩は信仰厚く真面目な方でした。本堂に迎えて諄々と聖人の教えを話されて、私が救いを求める前に、すでに救われてくれよと呼び給う大悲のみ親のあることを話されました。

この時この方は「私にはいよいよ解らなくなりました」と言われるのです。その理由を聞かれますと、「外の教えは私には一応理解出来ます。それは、キリスト教では罪を懺悔してお祈りしなさい。それによって神の愛を受けることが出来ると説かれ、又真言宗の教えでは私達は大日如来と一体で、私の身体は大日如来の分身である。然し煩悩によって汚されているから三密加持の修行<真言宗の修行の方法>によって煩悩を断ち切れば、仏になることが出来ると説かれます。
又天理教では、人間は神の子であるが欲によって汚されている。その為病気をしたり、いろんな災難を受ける。だから『欲を捨て、悪しきを払って助けたまえ天理王のみこと』とお祈りすることによって御利益を頂き幸福になれると説かれています。

これらの教えは一応私には頷けますが、問題はそれが出来るかどうかにあります。しかし真宗の教えは私には全然解りません。」
と言われるのです。どうしてですかと問われたら、それでは余りにも話がうますぎると答えられたそうです。

私は四十数年前放課後、この先輩と信仰談義に花を咲かせている時に聞いたこの話が今も鮮かに浮んでまいります。み仏の仰せに素直に従うことがどんなに難しいかが、しみじみ思われ、親鸞聖人にこの境地<他力信心>がひらかれるまでに二十年間の自力修行のあったことも今素直にうなずけます。それでは私達は他力の信仰に入るのには聖人のような求道が必要かという問題が残ります。聖人の求道、修行に代わるものが聞法なのです。聞法の積重ねの上に開かれ行くのが他力信仰の世界であります。
>>

本願を信じ念仏を申せば仏になる(歎異抄)。簡単中のかんたんな事ができないんだよなあ。
梯和上が仰っていたが、阿弥陀さまの仰せを仰せの通り聞信するだけだな。

>>引用開始

そこで、このような智慧の言葉を聞く時に一番大事なこころがけは、自分の既成観念や概念的思考をもって理解しようとしない事です。自分が本来持っている理解力で「盡十方无碍光如来」の領域を理解しようとしたら絶対に分からないように出来ているのです。

分別を超えた領域を分別しようとしても出来ないことは当然です。分けて知ることの出来ない領域を、分けて知ったとすれば、それは理解したのじゃなくて誤解しているだけです。ですから『大経』でも『阿弥陀経』でもそうですが、凡夫の理解力のとどかないさとりの領域を説き表しているのだから、この教を、凡夫の地力で読んでも決して分かりませんよ、といわれます。

『大経』の一番最後のところに、聖道門の教えはまだ理解することが出来ようが、「若し斯の経を聞きて信楽受持することは、難の中の難、此れに過ぎたる難は無けん」といわれています。

『大経』の法義を聞いて、それをよく理解し、信楽し、受持することは、難の中の難、これ以上の困難はないといわれているのです。絶対にお前には分からない真実を説いたのだよといわれています。

『阿弥陀経』もそうです、「極難信」といわれています。それでは一体どうしたらいいのかというと、お経に説かれていることを、自分の既成観念で理解しようとせずに、仰せのままをただ素直に頂けばよいといわれるのです。

解って信じるのではなくて、私には納得できないけれども、如来さまの仰せが真実であるとはからいなくみ言葉を受け入れるのです。するとその言葉が、全く新しい領域を開いてくださるのです。(聖典による学び)

>>

どう考えても死ぬとしか思えないのに、わが国に生まれるんだと欲(おも)え、と仰るんだから、左様でございましたかと聞くだけなんだよなあ。

なんまんだぶつ

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業と輪廻

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林遊は、業と輪廻の思想を抜きにして仏教を語っても、それは単なる世俗の生き方にしかならないと思うのだが、ちょっといい文章を紹介。
 
悪夢に泣く子供に母親が「夢ですよ」という場合、それは夢であるから目覚めなさいということである。
 
同様に業と輪廻--六道輪廻の思想も有情についての単なる存在判断ではない。
 
それは初めから終わりまで覚醒への呼びかけであり、呼びかけられた者にはこの命題は一つの当為であり命令であるはずであった。(しかし業や輪廻は今日では通常そのような仕方で理解されてはいない。)
 
だから業と輪廻は対象的に見られると、まったく生存の運命的必然性を強調する教義と考えられるであろう。
 
しかし、主体的には、それとは逆に解脱と自由のためのものである。
 
それはあたかもすべてのものがその色濃き印影をその物の背後に投げかけるときに、その物自身はかえってそれの正面の輪郭をくっきりと白日の下に浮き出させているようなものである。
 
業と輪廻の暗い論理の影絵には、それからの解放と超越の喜びが輝いている、他の一面がある。
 
業の理論はいわば跳躍版であって、宗教的実存は、一度はそれにしっかりと足をふまえることによって、つぎに身をおどらせて解脱と解放の自由に躍入する。
 
業と輪廻の思想は最初にそれを理論的にまとまった姿を与えたウパニシャッドの哲人(ヤージニャヴルクヤ)によって、すでにこのような内面に火花を持った概念に作り上げられていた。
 
ウパニシャッドを読む人は、この暗転する業と宿命の流れのなかから、ときどき一瞬解脱の光りがさっと輝き出るのを感じるであろう。
 
というのは業や輪廻の思想は、上述のようにただこの解脱の光に照らされたときだけ、それと知りうる人間存在の暗さであり、私と私を包む世界との根源的な運命的時間である。
 
だから輪廻を知ることは、ヤージニャヴルクヤのいうように、「蛇が自分のぬけがらを見るごとく」でなければならない。
 
流転や輪廻の世界は、ただそこからの解脱が同時にそれとともに強調されるときにだけ意味のある事実であり、解脱の光のもとでだけそれと見られうるような事実なのである。
 
だからこの哲人は業についての自分の思索を秘教的なものと考えていた。
それは「私と汝が手を重ね合い、ただ二人だけで語り合うべき」性質のものであった。
 
-中略-
 
このような業と輪廻の肯定と否定とに対して、仏陀の立場はいわばそこに親鸞の横超(他力による横超)の次元に当たるものを切り拓くことによって、両者を止揚した中道の立場に立とうとするのである。
 
とにかく原始仏教にみなぎる解脱への激しい渇望は、業や輪廻の自覚なしには考えることができない。
 
その宿望は今や満たされた。
仏陀は「生は尽きた、梵行は修せられた、作すべきことはなされた。再びこの状態(輪廻の状態)に来たらない」と自覚して真の解脱に達し、彼の弟子達に「来たって見よ」と教える。
 
そうしてこの仏陀の立場に立つとき、実はそこで初めて業の世界、輪廻や転生が本当には何であったか--人間の生存の事実性において、何を意味していたかが判然と知られるのである。
 
あたかも眠りより目覚めた者(覚者ー仏陀)が、初めて眠りの何であったかを知り、また眠っている者のところに行ってその眠りから彼を覚醒させることができるように、業の真相の理解者は業を超えることによってこれをその根底から知悉し、そうして再びこれにつながれている他者に立ち向かって彼をその繋縛から解放し、相ともに他者の超脱と覚醒へのための実践に進ましめる事が可能となる。
 
『親鸞と現代 武内義範』より

信心正因って?

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先日の勉強会で坊さんとの雑談。
 
浄土真宗では信心正因っていうけど、正因って因、つまり原因の事だよな。
 
「そう」
 
じゃさ、その信心に対する果は何よ。
 
「それはお浄土で仏さまになるってことやろ」
 
うん、そうだけど言いたいのは、信心というものに対応するものが何かという事を言いたいんだけどな。
 
「う~ん」
 
信心に対応するのは仏心じゃないのかな。
 
「仏心って仏の心の仏心?」
 
そう、果において仏心であるような信心が往生成仏という目覚めた仏に成るという正因でしょ。
 
「う~ん………」
 
今日の講義の唯信鈔文意で、
 
<「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。>
 
この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、ってあるけど、「この」は、如来の心を指しているので衆生の心じゃないんでしょ。
 
だったら信心というものは仏心であるわけでしょ。
如来の仏心が十方微塵世界の林遊に至って、林遊をブッダにするという話だよ。
 
だから、人間が仏に成るなんてとんでもない話だけど、仏心が林遊に至り届いてこの仏心が往生して即成仏する事は何の不思議も無い訳だろ。賜りたる信心ってこういう事でしょ。
 
「う~ん………」
 
いつも思うけど、坊さんは「信心正因」ってあまり言わない方がいいと思うな。
 
それよりも、お念仏しましょう、なんまんだぶを称えましょう。
 
これは阿弥陀如来が選択して下さった、本願に順じた業因ですから称えましょうねっていう宣伝をすべきだと林遊は思うな。
 
と、こんな事ばっかり言うから林遊さんは煙たがられるのね (笑

聴聞雑記から転載

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↑ 丸岡城
 
城の石垣 
 
小生の住む在所の近くに丸岡城という日本で一番古い天守閣をもつ城があります。
子供の頃に遠足に行った時、友達と競いあって天守閣に登り景色を楽しんだものでした。
遠くに自分の家が見えないかと眼をこらして景色を眺めたものでした。
 
やがて景色を見るのに飽き天守閣から降りて、城の石垣を登ったり石垣の大きさを両手で測ったりして遊んだものです。
 
小生に、教学は城の石垣のようなものだと教えて下さった勧学和上様がありました。
 
なんまんだぶつの城の天守閣に登って阿弥陀様のお慈悲を眺め、なんまんだぶつのいわれを聞けばそれで十分ではないか。何の不足があるのかとのお示しでした。
 
そして今少し暇があるなら、なんまんだぶつの城の石垣の組み方を勉強するのは御恩報謝です、とのお言葉でした。
 
そうでした。石垣の組み方を学んでから信じる宗教ではありませんでした。大丈夫だろうかと石垣の構造をひねくり回して安心するご法義ではありません。
なんまんだぶつとたのませて(憑)なんまんだぶつと称えさせ、なんまんだぶつと迎え取るのが浄土真宗のご法義です。
 
後は暇にまかせてお聖教を拝読し、うまく組んであるなあと先達の釈を讃嘆し楽しむのは、こちら側の目的のない遊びです。
 
遊びですから自分の解釈にあまり一生懸命になってはいけないのです。一生懸命になって説いて伝えて下さった、内容・目的を聞信するだけなのでしょう。

旧HPからの転載

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10数年前に書いたHPの文章から転送。

私ひとりの五劫

夕飯の時じいさんと話をしていて、何で阿弥陀様は五劫もかかんなさったんにゃろ。一劫くらいで解からんかったんにゃろか、という話になった時の事。

ひょっとして法蔵菩薩は一人ひとりの人生を、隈(くま)無く一回やんなさったに違いないと言うことになりました。
人が悩み苦しんでいるときには辛く悲しいものです。そして誰か私のこの苦しい気持ちを解って欲しいと思っても、誰も当人のようには解ってくれません。

かえって他者がこの気持ちを解ってくれない事に苦悩が倍増する事もあります。あなたの気持ちは解るなどと口でいくら言ってくれても、現に経験している苦悩は、経験しているその人にしか解りません。

その経験すらもそれぞれの境遇や生きてきた道のりなど、一人として同じものはないのですから、共感にはなりえても苦悩を共有することはできません。

そりゃそうです。自分自身が他者の苦悩を、自己の苦悩のように苦しみ悲しみそして解ってさしあげた事など、未だかってないのですから。

法蔵菩薩、五劫兆載永劫の時あらゆるいのちを一度経験し、あらゆる衆生の苦悩をつぶさに経験して下さって、仕上げて下さったなんまんだぶつです。
小生のいのちを、人生を、苦悩を一通り経験して下さったからこそ、これで間違いないと建てられたご本願でした。
何をしでかすか危ぶまれてならない、このいのちを目当てに、苦悩を材料としてのなんまんだぶつです。
この人生は、法蔵菩薩の経験して下さった人生を、苦悩を、悲しみをもう一度なぞっていく人生なのかも知れません。
腹がねじ切れるような煩悩に襲われた時、法蔵菩薩さんもこの想いを経験なさったのだなあ。この悲しみ、寂しさ、怒り、そして喜びも。あらゆる想いを経験して下さったから、そのままでいいんだよ、間違いないよと催促してまで聞こえて下さる喚び声なのだ。

胸をたたき、おなかをさすり、ここがあなたのお宿りの場所。よぉかったなぁ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ。あまり阿弥陀様に心配かけんようにしょうっと。

なんまんだぶ、なんまんだぶ 、なんまんだぶ、称名相続 ...

仏教における善悪

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講義録から引文


仏教で善悪と言うのはどういう事かと言うと、善悪というのは行為の倫理的な価値判断の言葉です。

その行為が良い行為であるか悪い行為であるかというので善悪という言葉を使う訳です。

行いの倫理的な価値判断を善悪と言う訳です。行いの事を仏教ではカルマンとかカルマという言葉を使います。翻訳して業と言います。それは行いという事です。自らの自由な意志によって決断をして身体で口で心である行為を行う。そういう行為を業という言葉で顕わしております。

その行為の倫理的な価値判断の言葉が善悪という言葉です。精密に言いますともう一つあります。善・悪・無記というのです。無記というのは善とも悪とも判定できない行為の事を無記という言葉で言います。そこで正確に言いますと善・悪・無記という三つの倫理的な性質というので、これを三性という言葉で顕わします。行為の倫理的性質の事です。

善というのは何かと言ったら、その行いによって自他の上に安らかな状況を作り上げていくような行いを善と言うのだ。善というのは安穏なる結果をもたらす行為です。安穏というのは安らかな穏やかなという事で、その行為の結果、自分も人も安らかな穏やかな生き方ができるような行為の事を善と呼ぶのです。

それに対して悪というのは非安穏なる結果です。この非安穏なる結果とは何かと言ったら苦悩です。安穏なる結果というのは苦悩に対して楽です。だから非安穏なる結果、つまり苦悩を生み出していくような行為を悪と呼ぶ訳です。だから悪というのは苦果を招くもの、善というのは楽果を招くものと昔から言うのです。

苦とか楽というのは結果なのです。行いによってもたらされる結果なのです。苦とか楽というのは善でも悪でもないのです。苦楽は善でも悪でもありません。苦は悪ではありません。楽は善ではありません。善・悪というのはそういう状況を造り出していく行いの事に名付けるのです。これは非常に精密な言葉です。

例えば地獄というのは苦しみの一番最たるものですが、地獄は悪ではないのです。あれは悪によって造り出していく結果であって地獄そのものは無記なのです。善でも悪でもない。幸せな状況というものも善でも悪でもない。それも無記な状況です。

だから地獄においては善を造る事もできる。天上界という楽なる所において悪を造る事もできる訳です。ですから善悪というのは私達の行為に対して倫理的に判断した言葉が善悪という言葉で、これは精密に言葉を使わないと意味をなしません。

この行為の事を仏教では業と言います、業という言葉はどうも誤解がありますので使いません。誤解する言葉は使わない方が良いのです。だから行為としておきます。それで良いのです。カルマという事は行為という事です。行為というのは何かと言うと、先ず行為の主体は自由な意志を持った者です。自由な意志を持った者でなかったら行為はできません。物が動いてるという事と行為とは別です。行為というのは必ず自由な意志によって決断して行っていく事です。意志によって決断して行っていく事を行為と言う訳です。意志的なはたらきの事です。従ってそういう意志的な決断によって行った行為の結果についての責任は自分が持たねばならないという事です。反対に自分の行為によって行った結果でないものに対しては責任を持つ必要はありません。これはハッキリしております。何に対して責任を持つか、何に対して責任を持たなくて良いのか、これは仏教はハッキリさせています。郵便ポストが赤いのも私のせいでございます。そんな事を言いはしません。

自分が自由なる意志の決断によって行った結果、その結果に対して自分が責任を持つのです。ただし自分が決断すべき事を決断しなかったという事も勿論自分の責任になります。だけど責任というのは意志的な決断によって行為をし、それによって受ける結果に対して責任を持つという事です。全く自由な意志がはたらかない状況において生み出していった結果に対しては責任を持つ必要はないのです。だから例えば心身喪失の状態で行った犯罪に対しては、その責任は問わないという事です。これは当然です。それは自由なる意志によって決断した行為ではないのですから。逆に意志的に決断して行った行為に対する責任は絶対逃れてはいけない、逃げようとしてはいけないという事です。そういう点が非常にキッチリした事を語る訳です。

  ・・善=安穏なる結果(楽)をもたらす行為
三性・・悪=非安穏なる結果(苦悩)をもたらす行為
  ・・無記=善とも悪とも判定できない行為

そこで話を元へ戻しますが、善と悪と無記というのはこういう事です。自分と及び人に対して安穏なる結果をもたらすような行為を善と言い、自分と人に対して非安穏なる結果をもたらすような、苦しみの結果をもたらすような行為を悪と言うのだという風に定義をしております。

そうしますと悪い事をするという事は何かと言うと、自分と人と苦しめるという事です。自他を苦しめていく、そういう状況を悪と言う訳です。だから悪をなす者というのは一番惨めな者だという事です。憐れむべき存在であるという事です。善なる行為を行っておるという事は、それは称讃されるべき者である。自分自身ものびのびとした安らかな生き方ができるし、また称讃に値する人である。

だけど自ら悪を造って苦しみの中に沈んでいく人は当然非難されるべき存在です。これは当然の事です。これが善悪という言葉の持つ意味です。だから仏様が悪人を救うと言ったら。この悪人をどうする事なのかと言いますと、ちょうどお医者さんが病人の病気を治して健康にしていくように、もう悪に染まる事のない者に仕上げていくという事が救いなのです。


ダンマパタ
67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。

68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。

お月さんいくつ

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を月(讃?) 幾ツ 十三七ツ
画像は仙厓和尚の手であるが全く関係の無い話。

宗教は科学や論理の所産ではない。
人が生きるという事はどういう事なのかを追求するものである。
(尤も、煩悩と言う欲望を刺激する邪教もあるので、本物と偽者を見分けることは難しい)

さて、お月さんに人を送ろうという計画を実行に移したのは、米国のケネディ大統領だった。
いわゆる科学の粋を集めたアポロ計画というものがそれである。

お月さんには兎が住んでいるとか、月の光りを月光菩薩と呼んでいた宗教という蒙昧迷信に一大鉄槌を下す科学の勝利の目論見である。

しかし、国の命令でアポロ宇宙船に搭乗する事になった乗組員や家族の思いは違う。

どれだけNASAの科学者が口を酸っぱくして安全だと言っても、宇宙船に乗るのは人間である。

ひょっとしたら、ロケットの打ち上げが失敗して宇宙船が爆発するのではなかろうか。

俺が死んだらワイフは新しい男と一緒になって俺のことを忘れてしまうのではないか。

政府や科学者は宇宙船は安全で大丈夫だというが、ひょっとしたら夫は帰らない人になるのではなかろうか。

あなた、死んじゃ駄目よ。どれだけ補償金を貰っても、あなたの子供の父親はあなたしかいないのよ。

などなど、科学の粋を集めたアポロには、煩悩一杯の男を載せて宇宙船は打ち上げられるのだった。

科学を否定するのではない、しかし科学という名によって消され抹殺された人の思いを忘れないで欲しい。そしてそれが宗教という人の生きる道なのである。

タバコを吸えば肺癌になる可能性が高くなるという医学的見地は百も承知である。酒という名のキチガイ水を飲めば正常な人間でいられないという事も合点している。

それでもタバコを止められず、旨しの酒に浮世の憂さを晴らす人がいる事を忘れないで欲しいと思ふ。
私という存在は、科学の論理の世界には居ないのである。悩んで苦しんで、どうしようもない現場に生きているのが私であった。
これはこれ、酔っ払いの戯言である。

を月さんいくつ、十三ななつ…
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キリスト教の笑い話

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日本のクリスマス
 
ある日本人がクリスマスの時期に教会の前を通りかかった。教会の門のわきにクリスマス礼拝の案内が出ているのを見て、言った。
「へー、最近じゃあ教会でもクリスマスをやるのか」
 
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/joke/index.htm
宗教関係の薀蓄がなくても味わえる面白いページかな。
 
仏教関係は落語に面白いネタがいっぱいある。ちなみに落語は法話(お説教)から生まれたというのは定説。
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慈悲は罪悪機中に味わう

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今日の言の葉で思い出した講義録をUP

>>
「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへるなり」ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。

これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。

ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相を信というのです。だから信というのは法が機にある相(すがた)です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。

だから信を得るといいますが、信に体はありません。信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。

「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。

必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心っというもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。

だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。

これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。

「如来の誓願疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまえるなり」これは不思議な表現です。これはギリギリこうしか言えないのです。「如来の心に疑いがないのですか。それとも私の方に疑いがないのですか」この文章読んだらちょっと解らないでしょう。「如来の誓願に疑いがないのですか。私の心に疑いがないと言うのですか」と聞いたら「それは一つの事ではないか」と親鸞聖人は仰います。それは一つの事なのです。

如来に疑いがないという事は、私に疑いがないという事だし、私に疑いがないという事は、如来に疑いがないという事です。それが一つの事である様に法は聞けという事なのです。それが真宗の信心というものです。親鸞聖人の表現は相当に難しい。これは実に凄いギリギリの表現なのです。

私が「疑い無くなろう」なんて幾ら考えてもそれは無理です。人間の心は疑いの塊みたいなものですから、だからそんな人間の心を疑い無くしようと思ったって、それは無理というものです。死ぬまでその心の性は無くならないのです。それが人間の心の持ち前なのです。ですからどうしようもない。その自分の心をチャンと疑いのない綺麗な心にしろなんて仰ってはないのです。ですから疑いのない心というのは自分の方に見たらダメです。

それを「信は仏辺に仰げ」と言うのです。信心は仏様の側に仰ぐのだと。信心は自分の方にありながら仏のものだから信は仏辺に仰げというのです。そして反対に「慈悲は仏様の側に見るのではない」というのです。如来のお慈悲といったら仏様の方を見ようとする。だから解らなくなるのです。

よく「仏様が解りません」といいます。仏様が解らないというのは仏様の側にお慈悲を見ようとするから解らなくなるのです。お慈悲は罪悪機中に味わうのです。お慈悲を味わうのは何処で味わうのかと言うと煩悩具足の相であり、死ぬまで煩悩具足の凡夫であるという所に如来のお慈悲を味わうのです。

自分の心を見れば煩悩がよく解ります。煩悩があるという事は解るでしょう。その煩悩こそが如来様の大悲の救済の目当てなのですから、その煩悩が見えたらそれで如来の慈悲がそこに味わえる筈です。だから如来の慈悲は煩悩の中に見ていくのです。

そして信は煩悩の心の中に見ないで如来の側に仰ぐのです。これは反対なのです。普通は信心を自分の方に見て、そして慈悲を仏様の方に見ようとするでしょう。だから解らなくなるのです。昔の和上方というのは随分ご親切に仰っておられます。

断鎧師の詩だったと思うのですが「久しく妄心をせめて真心を求む」自分の迷いの心の中に信心をたずねる。しかしいつまでたっても見つからなかった。

それは丁度「断弦をせめて」この断弦というのは弦の切れたという事です。例えば弦の切れた琴を弾こうとしても弾かれません。弦の切れたバイオリンを弾いても音は出ない。ちょうど自分の妄念の心に信心をたずねてみても何の音も出て来ないという有名な詩があります。詩の正確な言葉は忘れましたがそういう内容です。

だから信心というのは自分の心にたずねるものではなくて如来の本願を聞く事です。本願には「お前を疑いなく救う」と仰っている。間違いなく救うと仰っている。その摂取決定の心を聞いたら「そうしたら私はこのまま参らせて頂く」という事になりますから、それが疑蓋雑わる事なしという事なのです。

その「疑蓋雑わる事なし」という事を信と名付けるのだ。信というのは疑蓋間雑なしという事を信というのです。疑いという蓋を機と法との間に雑えないという事を信というのだ。だから信というのは疑いのない状態です。では積極的に何があるのだというと法があるのです。本願の言葉だけがあるのです。それを信というのだ。だから信心の徳というのは何かというと本願の徳なのです。本願の徳を信心の徳というのです。
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