梯實圓和上は、
何の爲に生まれてきたのか知らない。死が何であるか了解する事が出来ない。その死を必然の事として受けていかなければならないのが人間なのです。当然、悲劇的な存在なのです。死が何であるかという事は絶対に理解出来ない事なのですから。経験として持つ事が出来ないのですから。
私がよく申しますように、他の事ならば動詞は過去形と現在形と未来形と言う事は出来るけれども、「死ぬ」という動詞は、主語を「私」にした時には絶対に現在形と過去形はとりません。「私が死んだ」そんな事ありません。言っている本人は生きているのですから。「私は今死んでいます」そんな事も言えません。判断の主体が生きているのですから。判断の主体が無かったら判断は成立しない。従って死は未来形としてしか捕らえようが無いのです。自分の経験内容としては入らない言葉なのです。従って私の死に就いて我々は述語する事は出来ない。それを述語出来るというのは、述語出来ない死を述語するのですから、いい加減な事です。そういう事です。
そういう私には生が何であるか、死が何であるか全く了解不可能なのです。そういう領域がある訳です。弘法大師が『秘蔵宝鑰』の序分の所に「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の初めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」(*)と言っています。あの天才をもってしても生の何たるか、死の何たるかを説き明かす術(すべ)は無かった訳です。皆が解ったような顔しているから私も解ったような顔しているけれども本当は何にも解っていない訳です。
「お前は誰だ」と言われても知らない。「何をする為に生きているのだ」と言われても知らない。「死んで何処に行くのだ」と言われても、それも知らない。そういう自分の生きる事の意味と方向を規定していくのが本願の言葉なのです。いや、本願の言葉に依って自らの生存の意味と方向を聞き定め、見定めていこうとされたのが親鸞聖人なのです。
と、よくいわれていた。
あるとき、梯實圓和上を車の後席にお乗せしていた時に、そもそも宗教ちゃあ何でしょうねとお聞きしたら、即座に、存在理解の枠組みでしょうね、という言葉が返ってきた。ちょっと震えた。林遊の問いを越えた、実に的確な答えだったからである。やっぱり和上さんやなあと思ったものである。
宗教とは、生きる意味と死ぬ意味を、それぞれの教義の枠組みで説き、その存在の意味付けをするのである。詳しくは知らないが、ユダヤ教であれキリスト教であれイスラム教であれ、宗教ならば、存在である生と死の意味付けを提示する意では同じであろう。
ともあれ、浄土真宗は御開山聖人が示して下さった言葉に依って、自らの生と死の意味を聞きひらいていくご法義である。浄土真宗の先達は、「聴聞に極まる」という言葉を残して下さった。自らの眼で見て「眼見」して認知するのではなく、聞いて知る「聞見」ということを、「聴聞に極まる」という言葉で示して下さったのであった。生きることに意味があるように死ぬることにも意味があると、
(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
の、往生即成仏の、なんまんだぶ(念仏成仏)の真宗の浄土のご法義であった。死ぬのは嫌だけど、死の意味を、なんまんだぶと称えてなんまんだぶと聞こえる中に味わえるのはありがたいことであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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2016年2月6日 11:55 PM
お世話になります。
林遊さんは相変わらず本が好きですね。
私も見習わなければならないのですが、どうも他ごとに時間を取られます。
いや本当は酒でも飲んでいるのが好きなのかも。
ところで、梯先生の何気ないお言葉はすごく深いですね。
次の言葉が出てきません。
でもその先が聞きたくなるのですが、今となってはもう無理ですね。
そのうえで林遊さんのご意見を伺いたいのですが、
枠組みの中心はなんでしょうか。
私は空(本当の空の意味を体得しているわけではありませんが簡単に使います)だと
思うのですがどうでしょうか。
では、また
とくよしみね
2016年2月10日 4:27 PM
ここでいう「存在理解の枠組み」というのは、自らの生きる意味と死ぬ意味を体系化した教義(教えの内容・体系。主張。教理)をいいます。ですから縁起・無自性・空ということと少しく概念の建て方が違いますね。
華厳教の五教十宗判では、龍樹菩薩の『中論』や天親菩薩の『唯識』を《大乗始教》と位置づけて、その上に終教、頓教、円教を建てています。いわゆる「空」を押さえて、その積極的な用(はたらき)を展開しようとするのでした。浄土教では、この空なるものをブッダのさとりの智慧と、智慧の必然としての慈悲によって展開するのですが、まさに曇鸞大師の『浄土論註』が描いて下さる世界がそれでした。
善導大師や法然聖人は、此土と彼土という二元論で浄土を描いて下さいましたが、御開山はその二元論を『浄土論註』によって大乗仏教の本流として展開されたのでした。だから天台の五時教判で釈尊のさとりを描いたという『華厳経』や、大乗仏教の結論といわれる『涅槃経』を自由自在に引文されるのでした。だから御開山の思想は重層的なのでめちゃくちゃ解りにくいですね。
ともあれ覚如・蓮如上人が強調された「信心正因」とは、御開山のお心では菩提心正因であり、それが「願作仏心」なのでした。阿弥陀如来が、何故浄土を建立しなければならなかったかという根源のところから大乗仏教を考察されたのでした。
御開山は、自力念仏の第二十願の「植諸徳本」の「植」の語を嫌って引文されておられないのかと窺われますが、『往生要集』p930に、いい言葉があります、
知りぬべし、念仏・修善を《業因》となし、往生極楽を《華報》となし、証大菩提を《果報》となし、利益衆生を《本懐》となす。
たとへば、世間に木を《植》うれば《華》を開き、華によりて《菓(このみ)》を結び、菓を得て《餐受》するがごとし。
と、あるように往生成仏とは、浄土が目的なのではなく、大乗菩薩道としての利益衆生を本懐とするのが、なんまんだぶを称えて浄土に往生する往生浄土の真宗なのでした。
【18】 しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。 p.335
ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2016年2月10日 7:33 PM
私があの時「智慧がない、全く智慧がない」と知らされたのはどういう事なのか、しばしば振り返り考えますが、梯實圓和上のお言葉「そういう私には生が何であるか、死が何であるか全く了解不可能なのです。」だと思われます。
ですから同時に「後生お任せいたします」の心が起こさしめられ、なむあみだぶつ なむあみだぶつ 称えさせて頂くしかありませんでした。
その後、「ではご開山のお示しは?」とWikiArcを読ませて頂いていますが、なかなか難しいです。でも楽しいですね。有り難いことです。
なんまんだぶ なんまんだぶ
2016年2月11日 1:35 PM
答えは、「衆生済度」ですか。
私には無い心ですね。
それと「空」は、答えとしては十分ではないですね。
やはり深いですね。
仏様の願いは計り知れないものです。
有り難い事ですね。
私の為の教えです。
や~、自分のことしかやっぱり考えていませんね。
凡夫そのものを教えて頂きました。
ありがとうございました。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
とくよしみね
2016年2月11日 9:32 PM
どら焼きさん
「ではご開山のお示しは?」という表現はいいですね。
道に迷って方角が判らない時、
あんた道に迷ったの? 可哀想に。日も暮れてきたし雨まで降ってきたからこっちへ入りなさい。私も道に迷った時に困ったからあなたの気持ちはよく判る……云々。
世俗ではこれが親切なのですが、ご法義に於ける親切とは、これではありませんでした。
アンタ道判らんのけ!、行き先はどこや?と聞き、それはな、この道をまっすぐ行って二本目の信号の角を右に曲がって200メートル行ったとこがあんたの行き先や、ほんじゃハヨ行け!。
と言う人が本当の親切な人なのでしょう。
人間をやっていると、いろんなことを教えてくれる人がいますが、自らの生きる方向を示して下さる人は少ないです。そんな中で、たとえ乱暴でぶっきらぼうであっても道を示して下さる人が真の善知識なのでありましょう。
禅語に「人惑を受けず」という言葉がありますが、人の意見に右往左往するより、お聖教を拝読して自らの歩む道を自分に知らせてもらうことは大事なことですね。そのような意味でお聖教を拝読し「聞くところを慶び」p.132という生き方もあるのかもです。
もっとも曠劫以来迷ってきましたから、方向が判っても、まるで50万トンタンカーが転舵するように時間がかかりますが西方浄土という方向を知ったから安心なことなのでした。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2016年2月11日 9:32 PM
とくよしみねさん
【26】 またいはく(礼讃 六七一)、「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。p.166
と、「「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし」でした。
これをご法義の先人は「仏智深きが故に我が領解を浅しとす」と、仰ってましたです。
御開山は、ご消息p.737で、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」と仰ってますから、自分だけのすくいだけに安住する小乗ではなく、あらゆるものを浄土のさとりの世界へ往生させるご法義が浄土真宗でした。もちろん日々の煩悩に呻吟する私なのですが、この命が終って西方浄土へ往生した後に、あらゆる存在に寄り添える還相の菩薩と成るというご法義はありがたいことだと思ひます。
『十住毘婆沙論』p.3には、
もし声聞地、および辟支仏地に堕するは、
これを菩薩の死と名づく。すなはち一切の利を失す。
もし地獄に堕するも、かくのごとき畏れを生ぜず。
もし二乗地に堕すれば、すなはち大怖畏となす。
地獄のなかに堕するも、仏に至ることを得。
もし二乗地に堕すれば、畢竟じて仏道を遮す。
と、自利だけの声聞地、辟支仏地に堕すことは、地獄に堕するよりもなお怖畏すべきであるとされていました。
御開山は「真仏土巻」の性功徳釈p.358で、
これ必然の義なり、不改の義なり。海の性、一味にして衆流入るものかならず一味となつて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとしとなり。
と、必然(必ずそうあること。他をして必ず自身に同化させる意)と、不改(他を変えるが自身の本質は変らないという意)ということを仰っていますから、浄土へ往生した暁には、自分の事しか考えられない私が還相の菩薩に変革せしめられるのかもです。
で、超高齢女性心なのですが、自分で自分を凡夫であるという表現はあまり良くないです。判っていて使うのならいいのですが、ともすれば自分が怠惰であるということのいい訳になります。凡夫という語を多用する人に「凡夫ということをいう奴は、謙遜という名の怠惰である」と言い放って嫌われていたりする林遊でした(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2023年8月18日 7:50 PM
「惠蛄(けいこ)春秋を知らず」浄土論註
曇鸞~引用…聖人信巻
私達は夏しか知らない蝉と一緒で、一生懸命生きて苦しみ迷う有り様。現世しか知らないこの命がどこから来てらどう救われ何処へ
帰って行くのか。仏の願いが私にどう、届いておるのか聞かせてらもらう以外にない。