むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました。
その頃、世間で物騒な事件が起きて、
各家々では戸締りを厳重にしていました。
そんなある晩の事でした。
夜中に台所でドスーンと大きな音がします。
この音に驚いて目が覚めたお婆さんは、隣に寝ているお爺さんを揺り起こし、
お爺さん、台所で物音がした、ひょとしたら泥棒が来たのかも。
と、言いました。お爺さんは、
よし、ワシが見てくる、危ないからお前はここにじっとしておれ。
と、言ってそばにあった箒を掴んで、そろそろと台所へむかいます。
お婆さんは布団の上で、こう思いました。
ひょっとして最近うわさの強盗じゃたらどうしよう。
お爺さんが、強盗に刃物で刺さたらどうしよう。
私も刃物で刺されて殺されるかもしれん。
こう考えると怖くてたまらず、布団の上でブルブルと震えていました。
その時、お爺さんの大きな声が聞こえました。
ネコじゃ、となりのドラ猫のトロが戸棚の上の鰹節の箱をひっくり返した音じゃ。
この声を聞いたとたん、お婆さんの震えは止まってホッっと安心しましたとさ。
昔じいさんに聞いた話を昔話風にしてみた。
じいさんは、この話をしてから、
布団の上の婆さんは、台所での猫の悪さを見ていないが、爺さんの声で安心する。
「見聞一致」というのは、これと同じで覚りの世界を仏さまが見て話す言葉を聞くのが聴聞だと言っていた。
見て知る事と聞いて知る事は同じだと常に言っていたものだ。
御開山は「真仏土巻」に涅槃経を引文して、眼見と聞見という事を仰っている。
衆生が、色もなければ形もない仏さまの世界を知らせてもらうのは聞見だとの仰せだ。
「信巻」でその聞見のお勧めを、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
との仰せである。
浄土真宗は、阿弥陀様がいるのかいないのかを見て信じるご法義ではない。
ただただ、仏願の生起本末を聞くだけのご法義である。
「仏願の生起」とは覚りの世界へ行く力の全くない林遊がいるから、「本末」とは、そのような林遊のために願をおこし行を積んでで(本)、現在、なんまんだぶという仏となり、林遊に救いを喚び続けて下さっている(末)のだな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
眼見と聞見
林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート,
15
11月
2009
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