御開山のお勧めは、ひたすら阿弥陀如来の御本意の願である第十八願である。
しかし、「化巻」に説かれる三願転入をもって「十八願へ転入させるための方便として、阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのです」と公言する浄土系新興宗教の一派がある。
全く、御開山の本意と違う教えをもって、如来の選択摂取されたご本願の教えを曲解し隠蔽する集団である。
この集団では、「善をしなければ信仰は進みませんよ」と、財施や人集めの造毒の善を奨めながら、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」は、間違いだと教えている。
ほとんど理解不能な理屈なのだが、この一派で多用する「人生の目的・なぜ生きるか」のキーワードから判断するに、人間の行動には目的がある、という目的論で浄土真宗というご法義を理解しているようだ。如来の救済をあらわす他力という言葉の解釈を誤っているのであろう。
自己を主体として自己の外部に「他」を措定し、その他へ向かう行為を「信仰が進む」としているのであろう。これは全く浄土真宗でいう他力という概念を誤解し錯覚していることから起る異解である。
有名な二河白道の譬喩では、釈尊は「仁者(きみ)ただ決定してこの道を尋ねて行け。」と発遣し、阿弥陀如来は「汝(なんじ)一心に正念にしてただちに来れ」と招喚される。「七祖p.467」
御開山は『愚禿鈔』の中で、「汝」の言は行者なりと示され、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、とお示しである。「p.538」
法蔵菩薩は兆載永劫に、菩薩としての自利・利他の二利の行を積み 「もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ(大経p.27)」と、往生成仏の功徳を衆生の為に成就された。
これを他を利益するから利他という。
さて、御開山は、利他円満の大行(浄土文類聚鈔)、利他の真心(信巻)、利他円満の妙位(証巻)、と「行」「信」「証」のそれぞれにわたって利他という言葉を使われている。
これは何を表現されようとしておられるのであろうか。利他の他とはいったい誰を指しているのであろう。
ここまで読まれた方はもうお判りであろう、利他の他は衆生である。
釈尊から仁者(きみ)として呼ばれ、阿弥陀如来から汝(なんじ)として呼ばれている者が他である。他とは衆生が自己を主体として自己の外なる仏を他とするのではなく、仏から見て他なる救済対象を他というのである。これを御開山は他力というのである。そして、他を利益する力を本願力というのである。「→他力」
件の一派のスローガンを借りれば「人生の目的・なぜ生きるか」の答えは、仏から汝として喚(よ)ばれ続けていた「汝としての我の発見」であろう。
私の目的が仏ではなく、仏の目的が仏から見て他なる私なのである。
「善をしなければ信仰は進みませんよ」などと、自己を中心として仏を他とするような考え方とは全く違うのである。
まさにコペルニクス的転回であって、自己を中心する妄想の世界観ではなく、仏を自とし中心とする世界を表現する言葉が他力という言葉だったのである。
この一派の教祖である高森顕徹氏自身が、全く御開山の示される浄土の真宗というご法義を理解していないところから来る異端の説であろう。もしくは高森氏が、浄土真宗という宗教を利用し自らの名聞利養を目的として、末端の会員を搾取する確信犯であるのかも知れない。
「私の白道」によれば、最初は高森氏は以下のように主張していたそうである。
高森先生「会報第5集」59-61P
「一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に見当たるのか。どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。真宗の道俗はさも易く「あれはまだ十九願だ」「あれは二十願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない人達ばかりだから、本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗には、いないといってよいのだ」
と、十九願、二十願を明確に否定していた。
しかるに、同じく「私の白道」によれば、
○三願転入の説法始まる
しかし平成5年の「親鸞会結成35周年大会」で遂に、三願転入の説法が開始されたのである。驚いた人はどれだけあったでしょうか。
「親鸞聖人の教行信証は三願転入が説かれている。
我々に19願、20願いらぬ、18願だけでいいと公然という学者もいるが、皆三願転入を根基として書かれている。御和讃もそうだ。十方衆生が選択の願海(18願)に救われるのは、19、20願通ってであり、通らねばアリ一匹救われぬ」
(平成18年4月30日教学講義にもそう言われた)
と、ある。
これは、明らかに退歩であり浄土真宗の教義の異解であり、選択摂取された如来のご本意の十八願を貶める立場である。
全分他力のご法義に衆生の側からの「善を奨める」高森氏は、伊藤氏や大沼氏の著書の剽窃に忙しくて『教行証文類』を読んだ事がないのであろうか。
それとも、十八願には善の奨めがないので、十九願の修諸功徳の善をもって会員からの財施を募る意で、教えを変更したのであろうか。
三願を読めば、
(十八) たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(十九) たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。
(二十) たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。
十九願には「もろもろの功徳を修して」という善があり、二十願には「もろもろの徳本を植ゑて」という善がある。
ひとり十八願にはこのような有漏の善の勧めはない。
なぜ、阿弥陀如来の根本願である十八願には善の勧めはないのか。
法然上人の『選択本願念仏集』によれば
念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。「七祖p.1209」
と、あるようにあらゆる衆生を無条件で摂取しようという平等の慈悲だからである。
高森一派は善を奨めるが、善を奨めても善を出来ない人はどうなるのですか、という問いにはどう答えるのであろうか。
この高森一派の善の奨めの根拠が『大経』の十九願であるが、御開山のお示しによれば「観経」を所依とする「邪定聚」の教説である。
御開山の浄土三部経のお示しには、『大経』『観経』『小経』について「三経一致」の立場と「三経差別」の立場がある。
三経一致でみられる場合は、三経の根底に説かれているものは、南無阿弥陀仏という称名一行であり、三経差別の場合は『大経』の第十八願を根本とされ、『観経』『小経』の教説は枝末とされる。
浄土真宗を目的へ至るプロセスとみるこの高森一派では、御開山がこれは捨てるべきですよ、と懇ろに示された「化巻」の「六三法門」を悪用し金集め人集めに利用している。
法然聖人は、十九願であらわされる定善・散善の善を、
「まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。」「七祖p.1273」
と、随他意(観経で韋提希が願った意をあらわす「他の意に随う」)の法であり仏の本意ではないとされる。そして定散の善をなせと善を説くのは、仏の本当の真意である随自意(仏が自らの意に随ってあらわす真意「念仏の一門」)をあらわさんが為であると決判されておられる。
そもそも善を勧める『観経』(十九願の意)は、善導大師のおこころによれば、釈尊と阿弥陀如来の合説である。
釈尊は教位に立ち諸善を勧め、阿弥陀如来はひたすら救済を告げる二重構造になっている経典であると喝破したのが善導大師である。
「娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。」「七祖p.300」
釈尊は韋提希の願いによって要門という定善・散善の教えを説かれ、阿弥陀如来は特別のおこころ(別意)から、弘願という第十八願の法を顕彰されたというのである。
これを二尊二教というが、釈尊も『観経』の結論である流通分に至って、
もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」「七祖p.117」
と、無量寿仏の名(南無阿弥陀仏)の称名を未来世の衆生に勧められている。これを二尊一教という。
御開山は、「化巻」冒頭の「結勧」で、
しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。
『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。
濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。「p.381」
現代語
以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中で特別な願であるとあらわされている。
また、『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。
五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。
この文は『往生要集』の「念仏証拠」の
三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。「七祖p.1098」
から引文され、第十八願を特別の願の中の別願であるとされる。つまり十九・二十願に依るのではないぞといわれている。
また、『観経』の定散の諸機(定善・散善を行じている諸機)は、その定散二善を捨てて、そして「極重悪人ただ弥陀を称せよ」と称名の一行を勧励しておられる。
つまり『大経』も『観経』の何れも称名一行を専修せよというのが両経の本意である、とお示しである。
そして「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよ」と、善が出来ると思いあがっている者を戒めておられるのである。
重ねて「道俗勧誡」では「しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。」とのお示しである。
なお、この、極重悪人唯称仏の文と「雑略観」の我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我の文を「正信念仏偈」で依用されている。
以上のように、御開山のお勧めは、阿弥陀如来の御本意の願である第十八願にあるという事は当然のことである。
有漏の善を奨め、有漏の善によって、「十八願へ転入させるための方便として、阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのです」というような立場は、仏智の不思議を疑い、選択摂取された念仏を誹謗していると言えるであろう。
念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ 「p.607」
悲しきことである。
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