「信巻」(末)の現生十種の益。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。
http://wikidharma.org/4ad132af1325b
この文章は少しおかしい文章です。
通常の時系列なら、金剛の真心を獲得すれば、かならず現生に十種の益を獲て、横に五趣八難の道を超え、となる筈です。
信心→十種の益→成仏
ところが、「横に五趣八難の道を超え」と五趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天という生存状態)八難(仏に成る事が難しい八つの難)を超えて仏に成ることが先に出され、現生十種の益を後にされている。
信心→成仏→十種の益
これを昔の布教使は、米獲ろうと思たら藁まで採れた、と表現したものです。
米(成仏)を獲ることを目的としていたら、ついでに藁(十種の益)まで採れたということで、仏教は米という成仏が目的であるということです。
現生十種の益には、「十には正定聚に入る益なり」と、正定聚にいる益が説かれていますがこれは信心の利益です。
成仏が決定しているその仲間に入っているという利益のことです。
浄土真宗では「信心正因」といいますが、信心は因であって果ではありません。
果はあくまで成仏であり、信心はその果へ至る為の因であって目的ではありません。
ある団体ではこれを勘違いして、信心を獲れば全ての難が解決し(絶対の幸福)まるでさとりを得たような状態になると教えています。
親鸞聖人は、この正定聚に入っているにも関わらず、
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと
http://wikidharma.org/4b8b4b1606300
と、述懐なさっておられます。
極論をすれば、信心獲得とは藁ほどの利益です。
米を獲る為に稲作をするのであって、藁を採ろうとして稲を作るならばそれはおかしいと言わざるを得ません。
しかし、ある団体では藁を採ることを前面に打ち出して米を獲ることを教えていません。
念仏成仏これ真宗であり、本願を信じ念仏を申せば仏に成るのが浄土真宗というご法義です。
五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
弥勒菩薩は、五十六億七千万年後にこの娑婆世界で竜華樹の下で悟りを開いて仏に成るといわれますが、念仏の衆生は阿弥陀如来の回向された金剛心を得ているから、臨終一念にたちまち完全なさとりを開くというのが浄土真宗のご法義でした。
藁に目を眩まされるのじゃないですよ、今度というこんどは、完全なさとりを開く弥勒と同じ位にまで巻き上げられていて、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証するのですよ、というのが御開山親鸞聖人の思し召しでありましょう。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね
追記
→「現生十益」
→「藁幹喩経」