18願の教えさえ説いておれば良いのです。

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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なんのこっちゃという事で、ちょっと書いておく。

> 結論からいえば、仏教は「対機説法」ですから、誰に対しても同じように18願の教えさえ説いておれば良いという考えは間違いです。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-355.html

これは仏の説法について語っているのか清森氏自身について言っているのか不明だが、ご当流は「18願の教えさえ説いておれば良い」のである。
浄土真宗の「真」とは仮に対し偽に対する言葉であることが分からないから、上記のような発想になるのであろうか。
それとも自らが仏と同じように「対機説法」が出来ると思いあがっているのであろうか。

『正信念仏偈』に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。)とあるように、本願を以って宗と為(本願為宗)すのが浄土真宗である。そして、その体は名号である(名号為体)。「教文類」
http://wikidharma.org/4abd9e917a5df

『正信念仏偈』の「唯説弥陀本願海」とは、阿弥陀仏の四十八願海のことであり、別しては生因三願のことである。究極的には十八願のご法義の事である。
さて、生因三願とは、十八願・十九願・二十願をいうが、その願海に真・仮があると親鸞聖人は言われる。

「真仮対弁」
「しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。{中略}すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」
http://wikidharma.org/4aeed4d670688
真実の教・行・信・証を説かれ、その淵源である真仏土巻の末尾で、願海に真・仮ありと対弁されておられる。
そして、「化身土」を説くのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」ることがないよう「仮の仏土とは、下にありて知るべし」と化身土を顕わす理由を述べておられる。

真とは真実のことで、真実は、偽と仮に対しているといわれる。
「真仏弟子釈」
「真の言は偽に対し仮に対するなり」
http://wikidharma.org/4b7b6f3fcbcaf
ただ単に「真実」を真実とするのではなく、真実とは、偽と仮に対しているから真実ということが言えるのだとされる。

「仮」とは方便という意味であり、第十九願・第二十願がそれである。
ここでの方便は善巧方便ではなく、権仮方便であって簡非(真仮廃立)するものである。

『浄土和讃』
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
http://wikidharma.org/4ad5c0bab8f33

「仮門」とは、
『愚禿鈔』に依れば、
「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。 」
http://wikidharma.org/4b90b7e2ca00b
阿弥陀如来の選択本願(十八願)以外の、浄土門の教(十九願・二十願)は浄土「回向」「発願」自力方便であり、仮門であるとされる。(回向は二十願の至心回向、発願は十九願の至心発願のこと)
なお、この「選択本願」という標挙は「大信釈」、
「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。」
http://wikidharma.org/4b90be0cb120a
にあり、第十八願のことであるのは言うまでもない。

「権実真仮」とは、
『六要鈔』には、「真実というは、これ仮権に対す」とある。
権は実に対し、真は仮に対する語であるから、仮と権は真実の反対という言葉である。
権←→実・真←→仮のように相反する概念なのである。
つまり、権を廃して実を取り、仮を棄てて真を選び、第十八願だけが真であり実ということである。

浄土真宗のご法義を聴く人は教学や論理を聞きたいのではなく、自らが救われる<真実の法>を聞きたいのである。
救いの法が自己に先行して、名号法として届けられており、それを受け入れ称えることが「念仏成仏これ真宗」という阿弥陀如来の第十八願の真実のご法義である。

これ以外の何を説き、何を「対機説法」として語ろうとしているのか。
謎である(笑

この記事のみ反論用にTBのみ受け付けておこう。

二双四重の教判

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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二双四重

仏教にはすべからく「教相判釈」といって、経典をその形式・内容などによって分類・体系化し、価値を判定して仏の究極の教えがどれであるかを解釈することが最重要である。「教相判釈」がなければ、何を信じ何を行ずるかが解からないからである。

親鸞聖人には別掲の「二双四重」の教判がある。全仏教を竪と横に分け、それぞれに出(権教)と超(実教)を組み合わせた教判である。
竪の聖道門に成仏の遅速に応じて漸教と頓教を分けられ、竪出、竪超とされる。

横の浄土門も、漸次に修行して長時間の後に仏果を得る自力の漸教と、すみやかに仏果を得る他力の頓教に分類し、横出、横超とし、二双四重の判釈をされたのである。

この二双四重の教判は、諸所で説いておられる。

「信巻末」横超釈

【73】 横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b

「化身土巻」三経通顕(真仮分判)

【35】 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
http://wikidharma.org/4b936885c5865

信巻本」菩提心釈(菩提心=信)

【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
http://wikidharma.org/4b93a105abf98

愚禿鈔(上)

聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、      二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
一には頓教、        二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
http://wikidharma.org/4b93a35c8a81a

「行文類」一乗釈では、

大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
http://wikidharma.org/4b9399ba7bf3a

と、横超・弘願・頓教・実教である第十八願の誓願一仏乗こそが真実の仏道であるとされるのである。
しかるに、TS会では、歴劫迂回の要門・漸教(権教)の辺地・懈慢の往生を会員に勧めている。
これは、会長が『教行証文類』を読んだことがなく、他者の解説書か何かを剽窃して利己心から「教相判釈」をしているのであろうか。

親鸞聖人が畢生の力を込めて顕わされた「二双四重」の教判を歪め、利己心から勝手に教判をし悪用して会員を騙し、あまつさえ会員に真実の浄土真宗の教えである第十八願への道を遮蔽して来たのであれば、その罪は重いと言わざるを得ない。

また、昨今TS会の歪んだ教義解釈に対する批判が行われているにも関わらず、脱会せずに歪(いびつ)な教えを説く事に協力している人々も同罪であるといえよう。

外典の「論語」にも、過(あやま)ちて改めざる是(これ)を過ちという、とある。
過ちは誰でも犯しやすいものだが、過ちを過ちと知っていながら悔い改めないならば、まさに本当の過ちを犯しているのである。