仏教にはすべからく「教相判釈」といって、経典をその形式・内容などによって分類・体系化し、価値を判定して仏の究極の教えがどれであるかを解釈することが最重要である。「教相判釈」がなければ、何を信じ何を行ずるかが解からないからである。
親鸞聖人には別掲の「二双四重」の教判がある。全仏教を竪と横に分け、それぞれに出(権教)と超(実教)を組み合わせた教判である。
竪の聖道門に成仏の遅速に応じて漸教と頓教を分けられ、竪出、竪超とされる。
横の浄土門も、漸次に修行して長時間の後に仏果を得る自力の漸教と、すみやかに仏果を得る他力の頓教に分類し、横出、横超とし、二双四重の判釈をされたのである。
この二双四重の教判は、諸所で説いておられる。
「信巻末」横超釈
【73】 横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b
「化身土巻」三経通顕(真仮分判)
【35】 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
http://wikidharma.org/4b936885c5865
信巻本」菩提心釈(菩提心=信)
【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
http://wikidharma.org/4b93a105abf98
愚禿鈔(上)
聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、 二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
一には頓教、 二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超 即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超 選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出 聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出 浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
http://wikidharma.org/4b93a35c8a81a
「行文類」一乗釈では、
大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
http://wikidharma.org/4b9399ba7bf3a
と、横超・弘願・頓教・実教である第十八願の誓願一仏乗こそが真実の仏道であるとされるのである。
しかるに、TS会では、歴劫迂回の要門・漸教(権教)の辺地・懈慢の往生を会員に勧めている。
これは、会長が『教行証文類』を読んだことがなく、他者の解説書か何かを剽窃して利己心から「教相判釈」をしているのであろうか。
親鸞聖人が畢生の力を込めて顕わされた「二双四重」の教判を歪め、利己心から勝手に教判をし悪用して会員を騙し、あまつさえ会員に真実の浄土真宗の教えである第十八願への道を遮蔽して来たのであれば、その罪は重いと言わざるを得ない。
また、昨今TS会の歪んだ教義解釈に対する批判が行われているにも関わらず、脱会せずに歪(いびつ)な教えを説く事に協力している人々も同罪であるといえよう。
外典の「論語」にも、過(あやま)ちて改めざる是(これ)を過ちという、とある。
過ちは誰でも犯しやすいものだが、過ちを過ちと知っていながら悔い改めないならば、まさに本当の過ちを犯しているのである。