電車間違えた

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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幸福行き大阪駅で東京行きの電車に乗ろうとして、福岡行きの電車に乗ってしまったら悲惨である。
途中で間違いに気が付かないと、時間が経てば経つほど目的地の東京が遠くなる。
しかし、東京へ行くためには、必ず福岡行きの電車に乗る必要があるという人がいる。

TS会の会長であるT氏である。
T氏が駅にやってきた。
ホームへ出てみたら上り「報土行」の線路と下り「化土行」の線路がある。
目的地は上り線の報土なのだが、なぜ上り線と下り線の線路があるのだろうとT氏は考えた。
上りの線路だけでよいのに下りの化土行きの線路があるには、きっと意味があるはずだ。
上りの線路だけで良いならば、下りの線路があるはずがない。

「なにしろ自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、絶対の幸福まで導くことは難中の難事。どうしても善巧方便が不可欠だった」『文証で破る』p16より

という論理である。

さて、T会長は駅のホームで叫ぶのである。
報土へ行きたいなら「化土行」の電車に乗ろう、「化土行」の電車に乗ることこそが報土へ行く早道なのだ。
絶対の幸福とは方便の彼方にあるのだ。方便があってこその報土だ。
方便の善を積まずにどうして善が不要であるという真実の報土へ行くことが出来るか、無駄な線路がある筈がないではないか、と。

通常の思考の人間ならこんな戯言は聞かないのだが、時々人の言葉を真に受ける真面目な人が存在する。
このような人は、T氏に騙され「絶対の幸福」行きの列車と思い込み「化土行」の電車に乗るのである。

しかし、途中でひょっとして間違っているのではないか、と思うのだが周囲の誰も言い出さない。しかたがないので、乗客(会員)は報土行きの列車であると必死に思い込もうとする。
なにせ蓮如上人以来の偉い善知識さまであるから、疑問を抱くことは謗法である、と進んで思考停止状態になる。

たまに間違いに気付いて列車を乗り換える(真実へ転入する)人が出てくる。
すると、全員で降りた人を地獄行きとか謗法罪と罵って残った乗客の団結を固めようとする。列車内では、「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」などと煽られ所持金と貴重な時間を吸い取られる。
「善に励んだら善が出来ないと知らされる」という名の電車そのものが間違っているのだが、乗客は「ゆで蛙症候群」に陥って、深い御心で茹であげられていく。

もっともっとと励んで、修諸功徳の電車の果てである行き着く先は臨終である。ここで積んできた善の真価が問われる。
第十九の発菩提心と修諸功徳に合致しているかいないかの判定である。
「寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」の第十九願であるから、臨終に阿弥陀如来の来迎がなかった場合は、全ての修善行為は失敗であり、やり直しであって化土までも往生できない。善因善果・悪因悪果の自業自得の因果論に迷い善悪を超えた阿弥陀如来の仏智不思議を疑い「造毒の善」を励んできた結果である。

かくて、化土行きの列車に乗っている時間が長ければ長いほど、真実の浄土(大願清浄の報土)への距離は開いていくばかりである。
(乗ってる電車が違うのにねえ)

ちなみに、T氏の主張、

「なにしろ自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、絶対の幸福まで導くことは難中の難事。どうしても善巧方便が不可欠だった」

この主張は第十八願を謗法しているのだがT氏は気付いていない。
『歎異抄』に、

「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。

とある。

『無量寿経』に「難中之難無過此難」とあり、阿弥陀経』には「難信之法」とある。
この難は、衆生に善が出来るという自力根性によって本願力を疑う衆生側の<難>を指すのである。

T氏は「難中の難事」と、弥陀の救済力を難事であると言っている。
これは第十八願の十方衆生一切を救うという本願力を疑い謗法している立場だ。「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか」このような誹謗を吐くのであろうか。

『浄土論』荘厳不虚作住持功徳成就には、

なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。「不虚作住持功徳成就」とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。
{中略}
いふところの「不虚作住持」とは、本(もと)法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然な らず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」と いふ。
[註釈版聖典七祖篇p.130]

親鸞聖人は、この句を喜ばれ、和讃(やわらげほめ)されている。

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし

T氏は、ひとり第十八願の念仏往生の願だけが成就していないというのであろうか。
善の奨めは、実は善を出来ない人を排除している論理なのだが、病院のベッドでなんまんだぶつを称えているばあちゃんには阿弥陀如来の救済力は届いていないというのであろうか。
このような善を強制するT氏の立場こそ、善悪を超えて衆生を救済する、阿弥陀如来の本願力を疑う誹謗正法であると言わずして何と言うのであろうか。
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