高森親鸞会のいう縦の線と横の線について考えてみました。
まさに高森親鸞会の廃刊になった「会報」にあるごとく
「一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に見あたるか。どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。真宗の道俗はさもいと易く「あれはまだ十九願だ」「あれは二十願の人だ」といっているが願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない人達ばかりだから本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗にはないといってもよいのだ。」
であって、19願(要門)、20願(真門)は名前だけあって修する人がいない道ですね(笑
浄土真宗は第十八願の本願力回向のご法義です。
では、『正信念仏偈』から、その思し召しを少しく窺ってみましょう。
まず、龍樹菩薩は「易行道」と「難行道」との二つに分けて、
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
龍樹菩薩は、この土での修行は、険しい陸路をたどるように難行道であり、 念仏往生の道は、大船に乗って安らかに目的地へ往くような易行道であると教えられた。
そして、阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく聞き受ければ、 本願力によって、即時に必ず仏になる位に入れしめられる。
と、仰せになりました。
これは、『十住毘婆沙論』「易行品」の
仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あ り。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるい は勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。 『十住毘婆沙論』p.5
人よくこの仏の無量力威徳を念ずれ ば、即時に必定に入る。この ゆゑにわれつねに念じたてまつる。 『十住毘婆沙論』16
に、依られたものである。
天親菩薩は、この本願力回向の阿弥陀仏の本願を憶念することを一心の信心であると仰いました。
広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
本願力の回向によって、普く衆生が救われることを知らせるために、 それを受けいれる一心(信心)が往生の因であると彰された。
本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰人した人は、阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。
これは、以下の『浄土論』の内容である。
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。
阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得。
この二菩薩のお心を受けられた曇鸞大師は、
往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
往相も還相も、すべて本願力によって回向されるから、 往生の正因は疑いなく受けいれる信心一つである。
愛憎の煩悩に染まった凡夫も、信心が発るならば、生死する身でありながら、生死を超えた涅槃をさとるべき身となる。
つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品・意)を案ずるに、いはく、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」と。「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多途あり。ほぼ五三をいひて、もつて義の意を示さん。{中略}五にはただこれ自力にして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。 『浄土論』
と、本願力の一心による易行道を「他力」と表現して下さいました。
さて、ここで注意が必要なのですが、ここまでの信心という表現は、「易行道」、それを受け容れる「一心」、他力(本願力)に随順するということ、つまり阿弥陀如来の本願力を信じるということが「信心」という言葉の意味だということです。
そして、これをコペルニクス的展開で仏教を二分されたのが道綽禅師でした。自分が中心であるという天動説の世界観から、如来が中心であるという地動説の世界観を提唱されたのです。これを、「聖浄二門判」といい、仏教には「聖道門」と「浄土門」いう二種類の仏教があり、末法では「浄土門仏教」でなければ証(さとり)することが出来ないと仏教をひっくり返してしまったのです。
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
道綽禅師は、自力聖道の修行によってこの土でさとることは不可能であり、 ただ浄土に往生することのみが、さとりを得る道であると決択された。
この世でさまざまな修行をしても、かならず挫折すると自力修道を退け、あらゆる功徳が円かに具わった名号をひたすら称えることを勧められた。
これが、法然聖人の立教開宗の根拠となった「聖浄二門判」である。
大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。 このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。
当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。 このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。 『聖浄二門』
ところで、TS会の会員って、『正信念仏偈』を読誦してるのかな。真面目に読誦してれば「三願転入」などという高森氏の詭弁に騙されるはずはないのだが、ひょっとして『正信念仏偈』を意味も判らずに唱えていたのかな、謎だな。