浄土真宗では信心をご信心と表現することが多い。
信について、『教行証文類』「三心字訓釈」で、「信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり…」とある。
これは信心とは真実など全くない衆生の側で論ずるのではなく、阿弥陀如来の信心が衆生のために恵まれることを意味している。このようなわけで如来の信心であるから「ご信心」と言い慣わしてきています。
ところが、信心というものを勘違いして、自分が思いこむ事を浄土真宗のご信心だと説く団体がある。「信巻末」の信一念釈を誤解しているのだが、このような人は「行巻」の行一念釈も知らないから、選択摂取されたお念仏を軽視するので困ったものだ。
そこで、如来の信心という梯實圓和上の講義の抜書きをUPしてみる。
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如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。その決定摂取に対した時に私の方から「助かるだろうか、どうだろうか」という様なものがある訳がない。向こうが「助ける」と仰っているのに、こちらが助かるかどうかという事を案じるという事は如来の仰せを聞いていないという証拠です。如来の仰せを仰せの通りに聞けば疑いようがないのです。疑いを雑えるという事はまことに失礼な事だという事です。如来の仰せを誤解している事ですから如来様に対して非常に失礼な事なのです。
そこで「如来の誓願疑蓋雑わることなし」故に私の領受また疑蓋雑わることなし。それが信楽という事だ。だから信楽というのは如来の心でもあり衆生の心でもある。衆生の心でもあり、そのままが如来の決定摂取の心でもある。それが信楽というものだという事です。だから涅槃の真因決定という事になる訳です。これが「三一問答」の結論なのです。
三心一心の問答というのは、これが言いたいのです。「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへる」ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。
心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相(*すがたのこと)を信というのです。だから信というのは法が機にある相です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。だから信を得るといいますが、信に体はありません。信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。
では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。
だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心っというもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。
しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。
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補足:
ここは、三経通顕(真仮分判)釈についての講義の一部です。
「ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。」「註釈版p.393」
ここの文章の疑蓋の蓋という漢字に「フタ」という左訓(文字の意味を示したカナ)がされていて、それについての講義から画像をUPしました。「原典版」ではp.496です。元来、疑蓋とは五蓋の欲貪蓋・瞋恚蓋・惛眠蓋・掉悔蓋・疑蓋の疑蓋のことで煩悩の異名。ゆえに通常は蓋にはカイと右訓されている。
高森親鸞会の人は「信一念釈」がお好きらしく、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「註釈版p251」
を、よく依用します。意味が判っていないのでしょうが、これは原文では、
聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也 言信心者 則本願力廻向之信心也。
ここでは聞によって信をあらわしておられるのですが、この無有疑心を『一念多念証文』では、
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふ は、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。「註釈版p.678」
と、仰って、信心とは「疑ふこころのなきなり」とされています
ない状態を信心と仰っているのであって、高森親鸞会でいう、ハッキリしたとか、只の只のただじゃった、というような感情の爆発のような心のない状態を信心というのだと仰せです。
ところが、高森顕徹氏は、「無有疑心」を「疑いの無い心」が有ると思いこみ、それを信心であると思ったのが長い高森親鸞会の不幸の始まりでした。いわゆる一時の感情の爆発を信心と高森氏は錯覚してしまったのでしょう。こういう人は自分が真剣な求道をしていると思っている人に結構居ます。
「信一念釈」の一念は本願の名号を領受した初めの時間の瞬間をいうのですが、何か物柄が自分の心に出来上がったことのように領解してしまったのでしょう。
一念岩をも通すなどというように、ひたすら心に深く思いこむことを一念であり信心であると誤解した立場なのでしょう。
高森氏は軍国少年だったそうですが、一念という言葉を当時の軍国主義の影響から、一念岩をも通すのようにひたすら心に深く思いこむことと受け取ったのでしょう。「行一念釈」と「信一念釈」は不離であり古来から行信不離といわれています。
これは、私が助かる法を聴く聴き方と、私を助ける法を聴く聴き方では聞き方が違うのですが、前者の求道主義者は、一念をひたすら心に深く思いこむことと取り誤ってしまうのです。「単信無称」の観念論に陥ってしまうのです。
越前でも「信心乞食」といって、このご法義の信心を勘違いして、確かな物柄というか体験を欲しがり、聴聞に苦しんでいる人が沢山いらっしゃっいましたが、救済の法で苦しむなんて本末転倒ですね。
富士の白雪ゃ朝日で溶ける
凡夫疑い晴らさにゃ解けぬ
とけよとけよというよりも
晴れたお慈悲を聞きほれる
などと越前の先達は言っていましたが、私の心に着目するよりも私を助ける法に着目すべきなのです。
そして、それを聞信している相(すがた)が、このご法義の信心です。
弥勒菩薩でさえ成仏するには56億7千万年もかかるというのに、末世の凡夫が拵えた信心では往生成仏は不可能です。
「信巻」では、衆生には、「法爾として真実の信楽なし。」とされていますが、光に向かってこれを求めよというTS会はおかしい人の集団であるとしか思えません。
阿弥陀如来のご信心であるからこそ、涅槃の真因に成り得るのです。
凡夫がどのように「身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。」「至誠心釈p.455」と善導大師が仰っているように、真実(至誠心)は凡夫の側にはありえないのです。
ましてや、
・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ
などの雑毒の善を奨め三願転入しなければ救われないと教えるに至っては、まさに
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
現代語:
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。
ですね。
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