TS会最後の砦「要門」であるが、判りやすく図にしてみた。
要門・真門・弘願という言葉は善導大師が使われた用語である。
この用語を三願・三経に配当し、真仮を分判されたのが親鸞聖人の願海真仮論であり、『無量寿経』の三願を三願・三経・三門・三藏・三機・三往生の六種に分けて六三法門と呼ぶ。
「六三法門」
この六三法門を見れば三願転入などという発想は起きない筈なのだが、TS会では時間の方向の捉え方がおかしいので盛んにこれをいう。
宿善とは現在から過去を振り返る時に使う用語なのだが、TS会ではこれを未来へ使おうとする。
同じように、御開山が過去を振り返って、この道は行くのではないですよ、と仰っている三願転入を未来を示す求道用語として使うから論理が無茶苦茶になるのである。
浄土真宗というご法義は、求道も修行も全て因位の法蔵菩薩がなされ「弥陀如来は如より来生して」下さる如・来するご法義である。
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
「浄土和讃」
この御和讃にもあるように浄土真宗は、今・いま・今の、今現在に無明煩悩の衆生に名号法となって届けられているご法義である。この今現在の救済を三願転入などといって拒否し/拒否させているのがTS会である。
三願転入派は、本物を知るためには偽者(仮)を知らなければならないという発想なのだろうが、贋物は100万年たっても偽物である。本物を知ることによって贋物が偽物であることが判るのである。
これが本物であると第十八願の弘願を示されてあるのに何故偽者である「仮」を選ぶのかMCとは怖いものである。
なお、善導大師は、すでに要門と弘願の二門の違いを判定されている。
たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。 ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。 「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
『観経疏』要弘二門
これによれば、『観経』には、釈尊の要門の教えと阿弥陀如来の弘願による救済が述べられていることが判る。
『観経』には、
かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。『観無量寿経』
と、世福(世俗の善)・戒福(戒善)・行福(行善)の三福を挙げられて、全ての仏教をこの観経一巻に納められていることが判る。
釈尊は八万四千の仏教を小乗仏教も含めて『観経』一巻に納めて要門として説かれ、安楽世界の救主である阿弥陀如来は、特別のお心で別意の弘願を 顕彰して下さっているのが『観経』という経典である。
つまり、要弘二門釈で、この『観経』に代表される聖道門の教えを要門とし凝集し、この教えと阿弥陀如来の弘願(第十八願)とを対判されているのである。
仏教では「行は願によって転ず」というように、行ないというものは願いによってその意味を変えるものである。本来此土入聖の聖道門の行をもって往生浄土をせしめようというのが『観経』であり、これを聖道門から浄土門へ入らしめる肝要の法門であるから要門というのである。
ちなみに最後の経典を後世に伝える流通分には、釈尊も『観経』の結論として、阿弥陀如来と同じに、なんまんだぶをお勧めになる。
もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語 を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。
『観無量寿経』「流通分」
このように一見すれば、聖道門の発菩提心と修諸功徳が説かれているように見える『観経』は、聖道門仏教から浄土門仏教へという異の方便、欣慕浄土の仮の法門であるというのが親鸞聖人のお心である。
しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如 来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導 生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
「化身土巻」「要門釈、第十九願開説、観経の意」
浄土門仏教は阿弥陀如来が救い主であって、釈尊はその道を教えて下さった教え主なのだが、救主と教主を混同するからTS会のように聖道と浄土を混雑させたわけの判らない思考になるのだろう。
« Prev:他力の他は私です 俵山夏安居:Next »