正しく読む『正信念仏偈』

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」というブログがある。

このブログは高森親鸞会講師のブログであり(宗祖の御名前を使うのにしのびないので以下TS会という)、ここで提示された「一切衆生 必堕無間」なる用語に関して脱会者諸兄と議論があった。

この「一切衆生 必堕無間」の例は、TS会会長の高森顕徹著(昭和44年五月五日発行 平成19年1月5日 第22版)の、『こんなことが知りたい①』のp.7に

経典に釈尊は「一切衆生 必堕無間」と説かれています。これは、総ての人間は必ず無間地獄へ堕ちて苦しむということです」

と、経典に釈尊は、とあるがその釈尊が説かれた「一切衆生 必堕無間」という経典とは何かという議論である。

聖典とは聖智を開いた覚者の言葉をいうのであるが、TS会では会長の高森顕徹氏が編纂した短冊に羅列した文言を『教学聖典』と呼称し、会員に暗記を奨めている。このような聖典を編纂できるほどの力量がある人が間違っても経典に釈尊は、と経典の言葉を創作するとは思えない(たとえ日蓮上人の『撰時抄』が、その根拠にしても)。

そのような意味で、元会員が「一切衆生 必堕無間」の出拠、出典を問うことは当然の行為であり、高森顕徹氏が、もしまともな仏教者であるならば真摯にその問いに答えるべきであろう。

さて、件のTS会ブログでは、「一切衆生 必堕無間」なる語の出拠が提示できないため、「正信念仏偈」から、道綽讃「一生造悪値弘誓」、源信讃の「極重悪人唯称仏」を出してきた。言葉というものは使われた歴史やその思想の背景を把握しなければ、正確にその言葉の持っている意味を領解できないものである。しかるにTS会は自説に都合のよい言葉だけを集め元の文章を断章する。これはTS会の会長が他者の著作を剽窃し、自己に都合のよい部分だけを切り張りしてきた習性なのであろうか。

断章して言葉の意味を入れ替え、文脈から切り離した解釈をするのはTS会の常套手段であり、件のブログで引用している「正信念仏偈」の文は、TS会の特徴の断章であり、「正信念仏偈」を破壊するような引用の仕方をしている。

そもそも、「正信念仏偈」は、以下の偈前の文にもあるように、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上 五一)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。{以上}

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、「正信念仏偈」偈前の文

と、「正信念仏偈」は、知恩報徳のための讃嘆の偈頌であるとその造由を述べておられる。
TS会では、南無阿弥陀仏という行なき信を標榜するせいであろうか、「正信」という信と「念仏」という行の行信が理解できないのであろう。
また、この『正信念仏偈』は、「また方便の行信あり」と仰るように『方便化身土文類』に説かれる、TS会の主張する『観無量寿経』に説かれる行信に対している。このことは、浄土三部経のそれぞれの教説を、三願・三経・三門・三藏・三機・三往生に分類された「願海真仮論」から明らかである。

さて、「一生造悪値弘誓」である。これは「正信念仏偈」道綽讃の、

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

の、一生造悪値弘誓からの引文であろう。「七祖聖教」を読むことが禁止されているTS会の講師/会員には意味不明だろうが、これは善を修す仏教と信の仏教の違いをあらわす『安楽集』の「聖浄二門」の言葉である。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。 このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。『安楽集』「聖浄二門

リンク先の文章の文を見るまでも無く、「縦令一生造悪」のものが、自力の行を離れ如来回向のなんまんだぶを称えることによって安養界(浄土)の妙果を証すというのが道綽禅師の文の意である。

さて、次は「極重悪人唯称仏」だ。これは源信僧都の『往生要集』念仏証拠門からの引文である。

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
極重悪人 無他方便 唯称念仏 得生極楽  『往生要集』念仏証拠門

ここでも、唯々なんまんだぶを称えることを勧められ極楽に往生するとされているのであって、一切衆生が悪人であるという意味ではない。
ちなみに、我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我の句は、『往生要集』雑略観の、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無惓常照我身  往生要集』雑略観

からであり、この文の前に「またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。」と念仏衆生 摂取不捨のなんまんだぶを称えるゆえの摂取が顕されている。この一段は親鸞聖人が『尊号真像銘文』で、「「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。」とあることからもあきらかである。

至誠心については、「至誠心釈」、「雑毒の善」でふれたので参照されたし。

信心の語義

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗では「信心正因」といい、浄土へ往生するには信心が正しい因であるとする。
しかし、その信心というものが世間一般で使われている意味と大きく異なっていることから、さまざまな誤解を生むのである。

蓮師の『お文』には、「信心獲得」とか「信心決定」などという語が多いのだが、これをもって衆生の側に信心という物柄を得るように錯覚することが多い。
古来から浄土真宗では、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれ、信を自らの側に見ないという特徴がある。「若不生者」(もし浄土に生まれさせなければ、正覚を取らず)という、如来の信を仰いでいくのが浄土真宗の信であるからである。

さて、それでは、信心という語の意味を『一念多念文意講讃』梯實圓著から窺ってみよう。以下の引用は、『一念多念文意』の本願成就文についての解説からの引用である。なお、それぞれの引文については出拠を示すために『浄土真宗聖典』WIKIARCへリンクを作成しておいた。

信心の語義

「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」といわれるように、親鸞聖人は、信心とは本願を疑う心がないことであると定義された。いわゆる無疑心である。法然聖人が『選択集』「三心章」(『註釈版聖典七祖篇』一二四八頁)に信疑決判を行い、「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」といわれた釈を承けて、悟りと迷いとを信と疑によって分けるという信疑対を強調し、信の反対概念を疑とされていたからである。
「信文類」の字訓釈(『註釈版聖典』二三0頁)や法義釈(『同』二三四頁)にもそのことが見られる。
そこには「疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく」といい、無疑を信楽すなわち信心の名義とされていた。この疑蓋間雑の「蓋」とは、一般的には煩悩の異名で、真理をおおいかくすという意味を表していた。
しかしここでは本願を疑う心は、ちょうどコップに蓋をしたままで水を注いでいるような状態であるというので蓋という言葉を用いられたと考えられる。いくら本願の法水を注がれても自力の「はからい」という蓋をしていたのでは法が心に届かない。「疑いという蓋を法と機の間に雑えない状態を信心という」と知らせようとされたのであろう。

このように本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞いていることは、如来の仰せに随順していることであるから、信は信順と熟字して随順の意味とされる。「信文類」(『同』二二六頁)に引用された善導大師の「二河白道の譬喩」のなかに「いま二尊の意に信順して」といわれているものがそれである。釈尊の発遣と、弥陀の招喚にはからいなく随順して、南無阿弥陀仏という願力の道を我が道と領解したことを信心というのである。

ところで親鸞聖人は、『尊号真像銘文』(『同』六五一頁)に「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」といわれているように、如釆の勅命に随順することを帰命の語義としても用いられていた。
こうして信心と帰命とは、元来別の言葉であったのを、親鸞聖人はどちらも如来のおおせにしたがうという共通の意味をもたせることによって同義語として使われていくのである。

また親鸞聖人は、信心のことを「たのむ」という和語であらわされることがある。『唯信鈔文意』(『同』六九九頁)の初めに「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」といわれたものがそれである。信心とはわが身をたのむ自力のはからいをすてて、本願他力をたのみたてまつることであるといわれる。
この「たのむ」という言葉は、「行文類」(『原典版聖典』二一一頁)の六字釈にも帰命の帰の字の訓としても用いられていた。
すなわち「帰説(きえつ)也」の左訓に「よりたのむなり」とあり、「帰説(きせい)也」の左訓に「よりかかるなり」といわれたものがそれであって、「本願招喚の勅命」にわが身をまかせている状態をあらわしていた。
「たのむ」には現代では「たよりにする。あてにする。信頼する。たよるものとして身をゆだねる。懇願する」などの意味があるが、親鸞聖人の「たのむ」の用法のなかには「懇願する」という意味は全くなく、「たよりにする、まかせる」という意味でのみ用いられている。それは「たのむ」を漢字で書かれる場合には必ず「憑」を用い、他の漢字に当てはめることがなかったことによって明らかである。「憑」は、「よりたのむ・よりかかる・まかせる」という意味をもち、決して懇願するというような意味はなかったからである。
のちに蓮如上人が信心を専ら「弥陀をたのむ」といい表されたのはこの用法を踏襲されたものである。

また親鸞聖人は信心を「真」の意味とされている。「信文類」(『註釈版聖典』二三0頁)の字訓釈に「信とはすなはちこれ真なり、実なり」といわれたものがそれである。もともと「信」は「真」という意味であり、「真」には「実」という意味があるところから、信を真実といわれたのである。親鸞聖人が、信をつねに真実と関連させ、如来の真実なる智慧と同質の信でなければ如実の信心ではないといわれるのも元来信は真であったからである。
いいかえれば聖人が信心とは「本願他力をたのむ」ことであるといわれたときには、本願こそ究極の真実であるから、はからいなく「たのむ」という信相が成立するのだということを顕したかったのであろう。

通常の仏教では「修因感果」といって、因を修することによって果を感得することが生死の迷いを離れる道であり悟りへの道であるとされる。
しかし法然聖人は、悟りと迷いは信と疑によって決定されるのだと仰るのである。これが有名な「信疑決判」であり、これによって浄土仏教は信心の仏教であると断定されている。これを承けられた親鸞聖人は、その功を「正信念仏偈」の源空讃に讃嘆されておられる。「正信念仏偈」は正信(信)と念仏(行)を偈頌されたものであり信と行は不離である。

還来生死輪転家 決以疑情為所止
(迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、
本願を疑って受けいれないからであり)
速入寂静無為楽 必以信心為能入
(すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、
善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。 )

この法然聖人の信疑決判を、曇鸞大師の『浄土論註』に説かれる本願力回向の教説により、信は阿弥陀如来より回向される行信であり、信は仏性であり智慧であり、願作仏心(他力の菩提心)であるから、往生の正因は、信心であるとされたのが「信心正因」という言葉の意味であった。
本願が真実であるからこそ、その真実をはからいなく聞信し、受けいれた念仏の行者に信心が正因ということが成立するのである。

書きかけ.

大悲の必然としての救済論

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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自業自得の救済論」で、TS会の自業自得の因果論による真宗理解の違いを述べたのだが、それに対する本願力回向の救済論について、梯實圓勧学和上の著書から窺ってみる。

大悲の必然としての救済論

親鸞聖人は、万人の救済を願い立たれた仏心を

如来の作願をたづぬれは
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり 『正像末和讃』p.606

と讃詠されている。大悲とは、すべての有情の痛みを共に痛み、苦悩を共感し、わがこととして、それを除こうと願う心である。また大慈とは、すべての悩めるものに真実の安らぎ(涅繋の楽)を与えようと願う心であった。
このように有情の苦を抜いて、真実の安楽を与えようとする大慈大悲は、自他一如、怨親平等とさとる真実の智慧の自然の流露であった。『観経』に「仏心とは大慈悲これなり」といい、仏心を大慈悲で言い表されているように、浄土教とは大智を全うじた大悲の活動に、阿弥陀如来の如来たる所以を見ようとする仏教であった。
大悲をもって苦悩の衆生と連帯していく阿弥陀如来は、衆生の要請を待たず、大悲の自然として本願の名号を救いの法として選択し、衆生に回向して救済を達成していかれる。その有様が往還二種の回向であった。『正像末和讃』には、

南無阿弥陀仏の回向の
恩徳広大不思議にて
往相匝向の利益には
還相回向に回入せり 『正像末和讃』p.609

と讃詠されている。如来が悲智の徳のすべてを名号にこめて十方の衆生に回向されるということは、むしろ、如来はみ名となって衆生のうえに顕現してくるというべきであろう。そのみ名は真実の教となり、行となり、信となり、証となって衆生の往相を成就し、また還相をあらしめていくのである。

こうした大悲の自然としての救済活動は、医療行為に似ている。治療は、患者に功績があるから行うのではない。病苦があるからである。薬は褒賞として与えられるものではなく、病苦に共感する医師自らの悲心にうながされて投薬するのである。それゆえ病苦が重ければ重いほど、医者は患者に緊密にかかわっていく。「信文類」に、

ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。 『信文類』p.297

といい、大悲の必然としての救済を医療に喩えられた所以である。このような救済論は、必然的に悪人正機説になっていくことも了解できよう。

聖人はこのような救済論をまた自然(自ずから然らしめる)と呼び、法爾(法則として然らしめる)と仰せられた。それが真実一如の必然の活動であり、法則であるとみていかれたのである。

「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀(仏)とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。 『御消息』p.768

と言われているのがそれである。人間の善悪によって救いの有無が決るのではない。南無阿弥陀仏とたのませ、迎えようとはからいたまう本願力の自然のはたらきによって決まるのである。私どもは、わたくしのはからいをまじえず、如来の不可思議の御はからいに身をゆだねて、おおせのままに念仏していくとき、是非、善悪を超えてはたらく本願力の自然のはたらきによって、無上仏にならしめられるのである。

こうした如来の自然法爾の救いの前に差別のあるはずがない。「信文類」には、

大願清浄の報土には品位階次をいはず、一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す、ゆゑに横超といふなり。『信文類』p.254

といわれている。自他の隔てを超えて、生仏一如の領域である無上涅槃に至らせようとする本願力回向のはたらく頷域に、九品の階位はない。
無上涅槃は生仏の隔てさえも超えた一如の領域であるからである。自然の真実を知らないということは、行者のはからいによって描き出している九品の浄土を真実と誤解している証拠である。
いいかえれば真仮を知らないということは、本願力回向という自然の道理に気づかず、如来の大悲を迷失していることであった。「大経讃」には、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえそしらぬ 『大経和讃』p.569

と讃詠されている。一切の虚妄分別による限定を超えた生仏一如の「自然の浄土」は、本願の念仏を与えて成仏せしめるという願力自然のはたらきによってのみ開かれていく領域である。
それは行者のはからいによって行ずる万行諸善の届く世界ではない。聖道門、要門、真門といった権仮方便の教えと、弘願真実の教えとの違いを明確に信知して、自力のはからいを離れて本願他力に帰する人にのみ無上涅槃といわれる「自然の浄土」は開けていくのである。

自業自得の因果を信じて廃悪修善を行う主体はどこまでも行者であったが、自然法爾の領域にあっては、行も信も真の主体は如来であり本願力である。したがって三願真仮論、すなわち真実と権仮方便の問題は、ただ教学上の意見の違いというようなレベルでの問題ではなく、明らかに主体の転換という回心を迫る厳しい教説だったことが分かる。
聖人が「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」といわれた所以である。

TS会では『真仏土巻』末の「真仮対弁」で説かれる「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、仮を知らなければ真は判らないと教えているそうだ。真を信知することによって第19願、第20願の仮の法門が判るのだが、いやはや何をかいわんやである。

唯除五逆誹謗正法

林遊@なんまんだぶつ Posted in 管窺録
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唯除五逆誹謗正法

これは、『無量寿経』に説かれる阿弥陀如来の四十八願中の第十八願にある言葉である。

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 )

この第十八願の唯除の文は不思議な構成をしている。
四十八願の一々の願は、「設我得仏」ではじまり「不取正覚」の定型句で終わっている。しかし、ひとり第十八願だけに不取正覚の後に「唯除五逆誹謗正法」の文が置かれている。

十方衆生を平等に救うという第十八願に、何故このような唯除の文が置かれているのか、そしてそれはどのような意味があるのかが古来から論じられ考察されてきた。

天親菩薩の『浄土論』の偈文の最後に「普共諸衆生 往生安楽国」(あまねくもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん。)とある。この「普共諸衆生」とはいかなる人を指し、いかなる衆生が往生できるのか、という問いを出し答えられているのが、曇鸞大師の『往生論註』の八番問答である。
この中の第三問答では、五逆を犯した者は救われるが、誹謗正法の者は自らの救済の正法を謗り否定しているのであるから、否定している法によって救われる筈がないではないか、と答えておられる。
五逆を犯したものは救われるが、あいかわらず誹謗正法の者は救われないのである。

しかし、善導大師は『観経疏』「散善義」において、抑止門という名目で誹謗正法の者もすくわれるのであると決せられた。以下、抑止門釋の現代語をあげておく。

「問うていう。『無量寿経』の四十八願の中に、五逆の罪を犯すものと正しい法を謗るものとが除かれるとあり、往生を許されていない。しかし、この『観無量寿経』の下品下生の文には、謗法のものだけを除いて、五逆の罪のものを摂め取るとある。それは、どのような意味なのであろうか。

答えていう。このことは、如来が罪をつくらせまいとして抑え止められる意味と理解される。四十八願の中に、謗法と五逆とを除くとあるのは、この二つの行いは、そのさわりがきわめて重いからである。

衆生がもしこの罪を犯せば、ただちに無間地獄に堕ち、限りなく長い間もがき苦しむばかりで逃れ出ることができない。そこで如来は、この二つの罪を犯すことをおそれ、慈悲の心から抑え止めて、<五逆と謗法の罪を犯すなら往生ができない>と仰せになったのである。摂め取らないということではない。

また、下品下生の文に、五逆のものは摂め取って謗法のものを除くとするのは、五逆の罪はもうすでに犯しているのであり、その罪人を見捨てて、迷いの世界に生れ変わり死に変りし続けさせてはならないと、さらに慈悲をおこし、摂め取って往生させてくださるのである。
しかし、謗法の罪はまだ犯していないから、<もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない>と止められるのである。これはまだ犯していない罪のことと理解される。
もし犯したなら、またこのものを摂め取って往生させてくださるのである。ただし浄土に往生することができたとしても、蓮の花の中に包まれて、非常に長い間その中から出ることができない。これらの罪を犯した人には、花の中にいるとき、三つのさわりがある。一つには、仏や菩薩がたに会うことができない。二つには、仏の教えを聞くことができない。三つには、他の世界の仏や菩薩がたを供養することができない。この三つのさわりを除けば、<ちょうど、比丘が第三禅の世界の楽しみを受けるようなものである>と説かれている。よく知るがよい。花の中に包まれていて、非常に長い間その花が開かないといっても、無間地獄の中で限りなく長い間さまざまな苦しみを受けるのにくらべたなら、はるかにすぐれている。以上のように、このことはまだ犯していない罪を抑え止める意味と理解することができた」

このように如来の慈悲の至極(きわまり)によって、五逆誹謗正法の者も回心すれば化土ではあるが往生できる、とされたのである。

『無量寿経』は大きく分けると衆生の救済の因果を説く「弥陀分」と、釈尊の教戒を説く「釈迦分」に大別されている。
釈迦分は釈尊の「教喩」であるから三毒段、五悪段という人間の話が説かれている。対するに弥陀分は一方的に衆生救済が説かれ、法蔵菩薩の救済の因と果が説かれている。この弥陀分には衆生の罪が説かれてはいない。
この弥陀分の中心は四十八願であり、その四十八願の中に衆生に対して誓われた願が三つある。第十八願から派生する第一九願と第二十願の三願である。
第十九願には修諸功徳の善が説かれ、第二十願には衆生の善根を回向することが説かれているが、第十八願には善も回向も説かれてはいない。乃至十念のお念仏が説かれているだけである

この第十八願に説かれるのが「唯除五逆誹謗正法」の文である。この文が「設我得仏~不取正覚」という定型句の外に置かれていることの意味は、この言葉に注目させると同時に、第十八願は特別な願であることを知らしめるためであった、というのが浄土真宗の先達の見方であった。
第十八願には「若不生者 不取正覚」(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自らの覚りの完成と衆生の往生を挙げて生仏一体の願である。衆生を浄土に生まれさせられないならが自らも仏には成らないという自他不二の誓願である。

このような自他不二の願は、善を修し悪を廃ることを勧める第十九願や、善根を回向する第二十願とは全く違った論理構造を持つのである。それは自業自得の因果論を超えた救済論であると言わねばならない。善と悪を超えた仏智の不思議の領域の救済である。

第十八願文の「設我得仏~不取正覚」の外に、唯除五逆誹謗正法と置くことによって、犯した罪の重さに泣きながらも救済の道を求める衆生を目当てとしているのが阿弥陀如来の選択本願である。
おかした悪に苦しんでいる衆生に、悪を示し罪を告げるにはしのびないというお心から、第十八願文の「設我得仏~不取正覚」の本願文中に唯除五逆誹謗正法の文を入れることが阿弥陀如来には忍びなかったというのであろうか。

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