こんな話を聴いたことがある。
講の集まりでのエピソードである。
(講とは浄土真宗のご法義を讃嘆する仲間の集まりのこと)
私は、今朝、家を出がけに浅ましいものを見ました。
実は、隣の爺さんが死にかかっているので可哀想に想い訪ねてみました。
隣の爺さんは、骨と皮ばかりの姿で布団に横たわり、
死にとうない、死にとうないと、寝巻きをはだけ胸を叩いて悶えていました。
その姿を見て、ああ、仏法を聴かん者(もん)は哀れなもんじゃな。
このように浅ましく死んでいくとは、なんと哀れなもんじゃ。
やっぱり、人間は仏法を聴かんと、あのような浅ましい姿で死んでいくのですね。
この言葉が終わるやいなや、声を挙げた同行があった。
あんたは、そのおじいさんの死に様(ざま)以外の死に方が出来るんですか。
ここは、畳を掻き毟りながら、死にとうない、死にとうない、と喚きながら死んでいくことしか出来ない者の講ですよ。
死にたくないという不安におののきながら、その不安ごと抱き取って、必ず浄土へ迎え取るというのが阿弥陀さまのご法義でしたね。
こんな話だった。
なんまんだぶのご法義は、不安の中にありながらその不安ごと抱きしめて下さるというご法義である。
私が不安であるからこそ、阿弥陀さまは、金剛不壊の如来の絶対安心のご信心を決定して下さったのである。
仏願の正起本末を聞くといくことは、私の不安を材料とした阿弥陀さまのご信心を聞くということである。
凡夫の定義に畏怖心の去らぬ者というのがある。
まさに、死におびえ生に苦悩している、そのいのちの現場に飛び込んで、お前は不安でいいよ、お前の不安が私の救いが成就する場である、と阿弥陀さまは仰るのである。その呼び声が、口に称えられる、なんまんだぶであった。
お前が不安であるからこそ、安心して不安なままでいいのだよ、その不安ごと抱きしめて摂取するというのが摂取不捨の意味である。
『無量寿経』には「欲拯群萌 恵以真実之利」(群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり)と、ある。この真実の利(益)とは下巻末で説かれるなんまんだぶの名号であるが、なんまんだぶとは、不安なままで、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞという、仏の名号(なのり)であった。
ありがたいこっちゃな。林遊がしっかりしないから、阿弥陀さまがしっかりして下さるのだな。これが「他力といふは如来の本願力なり」ということである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、ようこそ、ようこそ
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2011年7月23日 5:58 PM
臨済宗の仙厓和上を思い浮かべて、日記を書こうと思ったのだが、脳内のシナプスの奥底にあった話しを思い出して書いた。
死にたくないが、死なねばならぬ。死なねばならぬが、死にたくない。死にたくないが、死なねばならぬ。死なねばならぬが、死にたくない。
無限ループを組みそうな話であるが、死ぬのではない、往生するという言葉によって死の恐怖を浄土へ生まれるとおもえという教説は、人間の智恵では出でこない言葉だなと思ふ。