善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし
この和讃は、『無量寿経』の流通分の文意を釈された「大経讃」である。
この和讃のこころは、「要門」・「真門」などの仮門を捨てて第十八願の他力の念仏往生の願に帰せよとの意である。
そのことは『化身土巻』の「勧信経文証」の文でわかる。
如来の興世、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞 きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなし き、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし。「勧信経文証」
現代語:
「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に出会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くこともむつかしい。菩薩のすぐれた教えや六波 羅蜜の行について聞くことも難しく、善知識に出会って教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。 そうであるから、わたしはこのように仏となり、さとりへの道を示し、阿弥陀仏の教えを説くのである。そなたたちは、ただこれを信じて、教えのままに修行 するがよい」
この流通分の文を和讃されたのが以下の和讃である。
(68)
如来の興世にあひがたく
諸仏の経道ききがたし
菩薩の勝法きくことも
無量劫にもまれらなり
(69)
善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし
ここに法に値(あ)うことの難を説かれてあるのは、第十八願を疑惑して信順しないことを戒められているのである。浄土真宗のご法義は、今晩聞いて今晩助かるご法義である。しかるに三願転入論などに迷い、善悪を超えた阿弥陀如来の救済を疑うから難なのである。法が難なのではなく、機が難にしているのである。
まさに御開山が「正信念仏偈」で、
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
(万人を平等に救う法として如来より与えられる本願の念仏は、自力をたのむ邪見で倣慢な悪人が、どれほど信じようとしても、難中の難であって、絶対に不可能なことである。)
と、いわれる所以である。
そして、その回向された本願の信心というものが、一切の成仏の因であるということを、上記の「勧信経文証」の文に続いて、『涅槃経』の「もし信心を説けばすなはちすでに摂尽しぬ」という以下の経文によって証明されているのである。
なお、ここでいう善知識とは、一連の涅槃経の引文に「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。」と、あるように、真如法性を悟っている菩薩・諸仏であってけっして某会の教祖のことではない(笑 「涅槃経の引文」
究極的な善知識とは第十七願で、なんまんだぶをお勧め下さる諸仏のことである。
『無量寿経』を未来に流布し伝持する結びの「流通分」で、
「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。 」「一念大利」
(「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。」)
と、諸仏のひとりである釈尊が、なんまんだぶの一念(一声)を、弥勒菩薩に、付属されたのがその意である。
御開山は『教文類』で、
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。「教文類」
と、真実の利を示された。この「群萌を拯ひ恵むに真実の利」といわれた、真実の利が、流通分の乃至一念のなんまんだぶである。
浄土真宗のご法義は、本願(第十八願)が宗であり名号を体とするご法義である。
前掲の和讃の次下に、
(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
(72)
聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ
「大経讃」
と、「念仏成仏これ真宗」と、なんまんだぶを称えることが真宗であるといわれ、権実真仮の分斉が分らずに、権仮の方便である、聖道門や第十九願・第二十願の者を戒めておられるのがこの一連の和讃である。
『十住毘婆沙論』で、龍樹菩薩が「阿弥陀等の仏およびもろもろの大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得。」(*)とされる、なんまんだぶを称えることが往生の業因であり、それを受け容れた心が回向されたご信心である。これを大乗の至極のご法義というのである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ