人は後悔をする。あの時ああすればとか、こうしておいたらという後悔の念を抱いたことのない人はいないであろう。
しかし、後悔というものに沈潜している限り、救いのない状態が続いているだけであって、本当の解決にはならない。
西田幾多郎は、わが子を亡くしたことを綴って以下のように言う。
最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。『我が子の死』西田幾多郎
西田幾多郎は、後悔の思いが起こるのは自らを信じているからだという。後悔することは自らの心の中での、逡巡でありそのような行為には救いがないということであろう。
仏教では「懺悔」という行為がある。
懺悔:
懺は梵語クシャマ(kşama 懺摩)の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、悔過の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・大衆に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。
仏に対して懺悔することにより、仏がその懺悔を摂受して下さることにより、為した行為が許されるというのが懺悔である。自らで始末のつかない後悔を、自らの力で乗り越えていくことは出来ない。自らを超えたものによってこそ許しがあり救いがあるのであろう。
親鸞聖人は、『尊号真像銘文』で「称仏六字 即嘆仏即懺悔」を釈し、
「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。『唐朝光明寺善導和尚真像銘文』
と、仰せである。
一声、ひとこえのなんまんだぶつが、如来の徳を讃嘆することになり、そして自らの行為を懺悔することになると仰るのである。自らが自らを裁き許しを乞うのではなく、仏のみ名を称えることにより阿弥陀如来が懺悔を摂受して下さるのである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝
[20100727]過去日記より