後悔と懺悔

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
1

 

人は後悔をする。あの時ああすればとか、こうしておいたらという後悔の念を抱いたことのない人はいないであろう。
しかし、後悔というものに沈潜している限り、救いのない状態が続いているだけであって、本当の解決にはならない。

西田幾多郎は、わが子を亡くしたことを綴って以下のように言う。

最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。『我が子の死』西田幾多郎

西田幾多郎は、後悔の思いが起こるのは自らを信じているからだという。後悔することは自らの心の中での、逡巡でありそのような行為には救いがないということであろう。
仏教では「懺悔」という行為がある。

懺悔
懺は梵語クシャマ(kşama 懺摩)の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、悔過の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・大衆に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。

仏に対して懺悔することにより、仏がその懺悔を摂受して下さることにより、為した行為が許されるというのが懺悔である。自らで始末のつかない後悔を、自らの力で乗り越えていくことは出来ない。自らを超えたものによってこそ許しがあり救いがあるのであろう。

親鸞聖人は、『尊号真像銘文』で「称仏六字 即嘆仏即懺悔」を釈し、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。『唐朝光明寺善導和尚真像銘文

と、仰せである。
一声、ひとこえのなんまんだぶつが、如来の徳を讃嘆することになり、そして自らの行為を懺悔することになると仰るのである。自らが自らを裁き許しを乞うのではなく、仏のみ名を称えることにより阿弥陀如来が懺悔を摂受して下さるのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝

[20100727]過去日記より

暑い夏、熱い夏

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0


     火葬場の少年


少年はけなげに弟の骸(むくろ)を背負い、そして歯を食いしばって何を見ているのだろう。

8月6日
広島平和記念日,広島原爆忌

1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空で世界初の原子爆弾リトルボーイを投下した。市街は壊滅し約14万人の死者を出した。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、辛いよなあ

度断学成 (どだんがくじょう)

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
0

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
あらゆる生き物をすべて救済するという誓願

煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願

法門無量誓願学(ほうもんむじんせいががく)
法門は無尽だが、すべて学び尽くそうという誓願

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願

大乗仏教の全ての菩薩が発すという総願の四弘誓願である。

♪しゅ~じょぉむへんせいがんだ~ん♪等とお寺などで唱和する機会もあるので知っている人も多いと思ふ。

衆生無辺誓願度、とあらゆる生きとし生ける者(衆生)を済度(救う)するという一番目の願がメインで、後の三願はそれを実行しようという菩薩の決意の願である。

ある和上が、この四弘誓願について、本当にこの願を発そうとしたら人間は死んでいる暇は無い。ありとあらゆる迷いの世界(此岸)の衆生を、さとりの世界(彼岸)に渡すことを発願するというような言葉は人間の世界から生まれて来るような言葉ではない、と仰った事がある。

ちょっとビックリした。言葉と言葉が指し示す意味内容を何も判らずに唱和していた事に恥ずかしさを覚えた事であった。
同時に、そのような誓願の中に願われ、重ねて『本当に疑いなく私の国に生まれるのだと欲(おも)え、そして私の名を称えながら生きていけ』という、なんまんだぶつの御本願がたのもしかった。

私が願(菩提心)を発すのではない。菩薩の発した願に包まれ、願の意味を聴かせて下さる仏教がある事の再発見ではあったな、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……
[20080804] SNS