(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
『正像末和讃』
このご和讃は、『安楽集』「発心の久近」から材を採られたものである。
『安楽集』では、『涅槃経』の意を引いて、今、お念仏を称えこの教えを聞くようになったのは、ただ事ではない。実は三恒河沙のガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏にお会いしたから、この『無量寿経』の第十八願を聞き、お念仏する者になったという意味である。
しかし、御開山は、この『安楽集』の意味を転じていらっしゃる。
ガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏の前で菩提心を発して善行に励んで来たのに、何故いまも煩悩具足の凡夫でいるのかという問いである。
それは、諸仏の前で菩提心を発したが、それは自力の菩提心であったからというのが前掲の和讃の意味である。もちろん仏道において菩提心は大切であって、御開山も「大菩提心おこせども」と大の字を使っておられる。それは、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に、世自在王仏の前で発した大菩提心であって、末世の凡夫が発すようなものではないからである。
菩提心については「度断学成 (どだんがくじょう)」でも触れたが、全ての菩薩が発すという四弘誓願が基本である。この四弘誓願については『往生要集』の作願門に説明がある。(*)
御開山は、『無量寿経』に説かれる生因三願を分別(ぶんべつ)され、仮を捨て真に帰せよとの意から真仮を分判して下さった。それが「願海真仮論」である。
三 願 | 三 経 | 三 門 | 三 藏 | 三 機 | 三往生 |
第十八願 | 仏説無量寿経 | 弘願 | 福智蔵 | 正定聚 | 難思議往生 |
第十九願 | 仏説観無量寿経 | 要門 | 福徳蔵 | 邪定聚 | 双樹林下往生 |
第二十願 | 仏説阿弥陀経 | 真門 | 功徳蔵 | 不定聚 | 難思往生 |
つまり、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を、それぞれ『無量寿経』の三願に配当し、第十九願や第二十願の道を行くのではないですよ、と懇ろにお勧めくださってある。また、下図のように二双四重の教判によって、浄土真宗では、横超、弘願、頓教のご法義であって、今晩聞いて今晩助かる頓教の第十八願を示して下さってある。これが本願力回向の浄土真宗というご法義である。御開山は、自力の要門や真門に迷うのではないですよと懇切丁寧にお示しである。
さて、『無量寿経』の第十九願に、は、「十方衆生発菩提心修諸功徳」(十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修せ)とある。御開山のお心を窺えば、これは『観無量寿経』に説かれた仮の教説であり、邪定聚への道であって捨てるべきものである。
しかるに、第十九願の菩提心を発して往生を欣求せよと教える輩がいる。汝らは菩提心とはどういうものか知っているのかと問いたいのだが、彼の輩は「善のすすめ」といって行じて修するということを説き人々を騙している。
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
と、御開山が自力の菩提心や回向する善を否定しているのも関わらず、第十九願の菩提心を勧め「修諸功徳」という名での善を勧励し、自らの名聞利養を図るのである。
菩提心は我々が発すのではなく、阿弥陀如来の菩提心に感動し、それに包まれて生と死を越えて行くのが浄土真宗のご法義である。
昔の布教使は、このような修善に迷う人には「あんたぁ、果遂の願があるからもう一回りしてくるこっちゃ」などと言っていたが、彼の善を奨める団体では、なんまんだぶを称えないから一回りではなく、御開山の仰るように「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」「真門決釈」ではある。
仮のご法義を示す「化身土巻」で説かれる三願転入の文は、私はこのような経過をたどりましたが、皆さんは決してこのような道に迷うのではないですよと、簡非して下さっている文である。某団体の教祖は、私もゼロから出発してこのような御殿を建てたのだから、あなた達もその道を歩みなさいと言っているそうだが、御開山のお心と比較対照にならない言葉ではある。
そもそも蓮師の言われる、後生ほどの一大事を自らが判断して学ぶこともなく、ただ一人の妄説を吐く一個の人格に委ねることが間違いなのだが、最初の刷り込みによって本物と偽者の区別がつかなくなったのであろう。悲しむことではある。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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