高森会という、似非真宗団体の会員のブログをウォッチしてるのだが、宗教的深みがないというか、まるで中高生の宗教ゴッコのようである。
学生時代に偽装勧誘で入会し、社会経験ゼロで教祖のねじまげた似て非なる教義を刷り込まれてしまったためだろう。
時々、社会経験の浅い浄土真宗の坊さんにもこのような輩がいるのだが、煩悩という心の闇を見つめる力が不足しているのではないかと思ふ。浄土真宗のご法義は、浅ましい生活をしているなあという、自らの煩悩の中に、阿弥陀如来から回向された他力(利他力)を仰いでいくご法義である。
以下、梯和上の『親鸞聖人の教え問答集』から、引用。
Q.わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。
A.その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは自分の力をたのみしして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛憎や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始るのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。
設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称えるものは、必ず往生させましょう。もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし五逆罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます)
馬鹿は死ななきゃ治らない、とかいうが、死ななければならないほどの、自分でもてあますどうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きていかざるを得ないのが林遊のような存在である。生きている限りは、煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということである。
これを慚愧し、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」というのが浄土真宗のご法義である。若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自己の覚りと林遊の往生を不二と誓われたのが本願である。愛憎の煩悩に苦しむ者にとって、煩悩の寂滅した世界があり、その世界を目指して生きよというのが本願の言葉である。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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