おっぱいの話

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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言葉には流行りすたりがあって、生きて来た時代が違うと意味の通じないものになってしまう。
おっぱいという幼児語の語源探索はさておき、’70年代に流行った歌謡に、
「ボインはぁ~赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」 (月亭可朝:嘆きのボイン
と、いうのがあった。今では擬態語から派生した、このボインという言葉は死語であろうと思ふ。

さて、ボインの方のおっぱいではなく、母乳の方のおっぱいの話である。

最近はどうであるか知らないのだが、昔は赤ちゃんに母親が母乳を飲ませる風景は一般的であり、ほほえましく、かつ崇高な行為であった。赤ちゃんは、時・所を考えずに、お腹が空いたことを訴え、その要求を、泣き声で母親に知らせたものである。初めてお母さんになった女性は、そんな赤ちゃんの泣き声に応じて、恥じらいながらも胸元を開き、赤ちゃんのために授乳したものである。ほほえましくも崇高な姿である。

この母親の全面的な赤ちゃんへの無償の行為を題材にし、全分他力のお喩えとして浄土教では母の慈愛としての法話が語られて来た。もちろん譬喩であるから一分(物事の一部分を表わすこと)であり、阿弥陀如来の救済と比較にならない喩えではある。

おっぱい(母乳)は、母親によって造られるものでありながら、母親には何の用事もないものである。おっぱい(母乳)は、初っめから赤ちゃんのために造られるものであり、母親には必要のないものである。まるで、要求もないのに一方的に衆生の為に建立して下さった阿弥陀如来の本願のようである。浄土教では、このような無私なる母の慈悲を題材として阿弥陀如来の全分他力の救済を喩えて法話してきた。参考までに『往生要集』の「礼拝門」には極大慈悲母という表現がある。御開山も「行文類」で引用なさっておられるのだが、衆生をを包摂する阿弥陀如来の慈悲に母性にを感じられたのであろう。

さて、浄土真宗の教えに近いといわれる浄土宗西山派でも全分他力を説く。
隣の部屋で赤ちゃんが泣いている。母親がよしよし、お腹すいたね、と言って赤ちゃんの泣き声を聞いて立ち上がり、部屋の襖を開けて授乳するのが西山派の言う全分他力説である。赤ちゃんの助命という泣くという声に応じて、立ち上がって下さるのが阿弥陀様である、と表現するのが西山派の教えである。これはもちろん全分他力であって赤ちゃんの造作は無用であるといえる。(浄土宗鎮西派は半自力半他力説であるから、このような喩えは使わない)

ところが、御開山の全分他力説の浄土真宗との違いは、赤ちゃんが泣く必要があるという点である。泣くことすらも知らない赤ちゃんはどうなるのか。
その泣く力も無い赤ちゃんに視点を合わせた大悲のまなざしが、御開山のお示しになる本願力回向の浄土真宗である。南無と泣く手を差し出すことも出来ない衆生を抱いて抱えて摂取するというのが、御開山の仰る浄土真宗であった。
大河のど真ん中で、溺れている者にロープを投げて、このロープに掴まれ掴まれ、南無の手を出して掴まれというのが、西山派の教説である。我が浄土真宗は、ロープを掴まえる力もない溺れた者を、大河の中に飛び込んで抱いて抱えて摂取するという阿弥陀さまのご法義である。

若い頃は、「悪人正機」などという教えは、世間の道理に合わないと思っていたものだが、南無と差し出す手もない林遊の為に、元来は南無とタノム機の側の行為である南無を、阿弥陀如来の本願招喚の勅命(呼び声)であると、南無の機までも成就して下さったご法義が、なんまんだぶというご法義である。

正像末和讃」に、
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
と、あるが、まさに世間にあって、苦悩の有情の為に成就されたのが、阿弥陀如来の救済の本願であった。
この、苦悩の有情を首(はじめ、第一、中心の意)とするのが、慈悲の至極であると、御開山の仰せであった。
これを、聞いた上からは、限りなき御恩報謝の道が用意されているのだが、林遊の場合は煩悩の林の中で遊び、往生浄土までの御恩報謝の暇つぶしで遊んでいたりするのである。

御恩報謝の論理については、暇があったら書いてみようと思うのだが、覚如上人の言われる「信心正因・称名報恩説」が、今ひとつしっくり来ないのでパス(笑