「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」
『教行証文類』「真仏土巻」にある言葉である。以下に引用する。
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。「真仮対弁」
(現代語:方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。これが浄土のまことの教えである。釈尊の経説、龍樹菩薩や天親菩薩の説示、浄土の祖師方の解釈を、仰いで敬い信じ、つつしんで承るべきである。よく知るがよい。)
これは、教→行→信→証→真仏土と、真実の教法を述べられた最後に、次に示す「化巻」の方便との「真仮対弁」の文である。真と仮を対弁して仮を誡められているのである。誰が読んでも、浄土の真実の教えに依るのでありで、これから説く「化巻」の方便の行や信に迷うのではないのですよ、という意味になる。当然、「真仏土巻」で説かれているのであるから、真→仮の次第であることは猿でも判る。真実の行信の分別を知らないから「化巻」の方便の行信に迷い、広大な恩徳を正しく受け取ることができないと、懇ろにお示し下さっているのである。
ところが、この「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、方便を知らなければ、真実へ至れないという意味の文である説く人がいる。この文は、仮→真のベクトルであるというのである。これほど屈折したお聖教を読解する人は、未だかって存在しなかったのだが、お聖教を、勝手に断章して切り張りして曲解するから、本物の浄土真宗が判らないのであろう。(*)
このような本物(真実)と偽物(方便)については、むかしから、以下のようなご法話でされていた。
江戸時代の両替商では、丁稚として入ってきた子供に、店の主人がその丁稚に本物の金貨を一枚渡す。丁稚はそれを懐にいれて、暇なときはいつも懐の金貨を手で触る。数年間は丁稚には金貨以外のお金を触らせずに、とにかく手で金貨を触らせる。そうこうするうちに、指先が本物の金貨に慣れ親しんで金貨の感触を丁稚は身体で覚えるようになる。このような訓練で、混じり物がある偽の金貨を触れば、すぐに違いが判るようになる。こうなってから初めて丁稚にほかのいろいろなお金を触らせるようにする。はじめに雑多なお金に触らせてしまうと、本物と偽者の微妙な区別が付かなくなるから、このような教育をした。
という内容の法話である。
偽物は本物と比べてみて、初めて偽物が偽物であると判る。偽物と偽物をたとえ千年の間比べてみても、偽物が偽物だということは判らない。本物と比べてはじめて偽物が偽物だと判るのである。
真実の山からは「仮 」の山の頂上は見えるが、仮の山からは真実の山は見えないのである。虎の絵を描きたいなら虎の絵を手本にすべきであり、決して似て非なる猫の絵を手本に描いてはいけないというではないか(笑
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……