常に虎の説法

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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朝鮮民画 朝鮮民画(ちょうせんみんが)は、朝鮮の庶民の実用的な民俗絵画である。結婚還暦などの儀礼、装飾、魔よけ、開運などの実用的な目的のために、屏風掛軸にしたり、壁に貼ったりして用いられる。表現は稚拙ではあるが、滑稽味があり、素朴で大胆なところが、独特の味わいを出しているものが多い。{中略}
民画という言葉は、民芸運動の創始者である日本人の柳宗悦が、日本の大津絵などの民俗絵画を指して使い始めたものである。柳は、日本統治時代の朝鮮でも美術品を収集研究し、朝鮮民画の収集研究も始めた。柳によって、それまでは収集研究の対象とは考えられていなかった朝鮮民画が、注目され収集研究の対象となった。
以上、「Wikipediaの朝鮮民画の項より引用

上掲の図は、朝鮮民画の虎の絵である。素朴なタッチには惹かれるところも、ままあるのだが、美的センスのない林遊にはどうしても虎には見えず猫に見えてしまう。写実画がしっかり出来てこそ抽象画が描けるのだと聞いたことがあったが、何事も基本がしっかりしていれば派生するディティールもはっきり伝えられるのであろう。

さて、三願転入などに迷っている人に対する、浄土真宗ご法義の基本の話である。知人から貰ったTEXTだが、以下に、三願転入というプロセスに迷い如来の真実義を見失っている人に対する、某氏の古い著述を引用する。

虎の説法

信前の人に、称名念仏をはげみなさい、そうすれば早く助かると勧めなさるのは、二十願のすゝめで浄土宗の教えである。即ち『浄土和讃』に、
定散自力の称名は、
果遂のちかひに帰してこそ、
おしへざれども自然に
真如の門に転入する。
と説かれているように、一声でも念仏称えた者は一度は晴れて満足の明信仏智の第十八願の世界まで転入させずにはおかぬというのが二十願で果遂の誓というのだが、この果遂について一生の果遂、二生の果遂等があり、自力念仏の人が此の世で他力に入るのは一生の果遂であり、次生で他力に入るのは二生の果遂である。このように無窮に果遂を味うことが出来るが一度は他力の信に入らねば報土の往生は絶対に出来ないのだ。
然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。

未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

驚くべきことに、これは現在、三願転入という名目で、仮である『観経』の定善・散善の善という語に立脚して「善の勧め」を勧励している会の会長の文章である。善と称し会員の財物と時間を搾取している会長の過去の著述である。法の前では聞信するということを知らないため、自らを「教家」に擬しているのは若さゆえの過ちであろう。もちろん、彼の資質がそのようなものを内包していたのであろうが、浄土真宗史上、未だかってないような異義・異端・異安心を輩出したのみならず、多くの若者を宗教の名の下で塗炭の苦しみを味あわせてきたのである。
寺の次男坊として生まれ、参詣の老婆が称える行具の三心のなんまんだぶを知らず、若さゆえの性的リピドー の爆発を、浄土真宗のご信心と錯覚・誤解したのが若き氏であったのだろう。浄土真宗は、なんまんだぶを称えることによって往生して、証(仏の覚り)を得る宗旨である。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ 『正像末和讃

自らには、有る事のない信心を求め他者に強制し、阿弥陀如来から回向される行信を知らなかった氏は、なんまんだぶという回向されたお念仏を誹謗し遮蔽した罪によって、阿鼻地獄に堕在するのかも知れない。林遊がいうのではなく、御開山が和讃しておられるのである、為念。

ちなみに、『観経」の下中品では、不浄説法とか邪命説法を戒められている。不浄説法とあるから当然、法を説くものへの教戒である。

仏告阿難及韋提希 下品中生者 或有衆生毀 犯五戒八戒及具足戒 如此愚人 偸僧祇物 盗現前僧物 不浄説法無有慙愧 以諸悪業而自荘厳 如此罪人以 悪業故応堕地獄命欲 終時地獄 衆火一時倶至
意訳:釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。 「 次に下品中生について説こう。五戒や八斎戒や具足戒などを犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物を奪い、僧侶に施されたものをも盗み、さらに私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。 この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいにその人の前に押し寄せてくる。」

命終わる時に火の車に載せらて動転し、嘆き悲しむときの臨終説法には、なんまんだぶを称える人を招きなさいよ。これが本当の善知識だから……
そうそう「阿鼻の炎も毘盧の依正」というから、心を入れ換えて本物のご法義を説けば、阿鼻地獄に堕ちても、なんまんだぶの救いが聴けるかもですね(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

 

 

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