信と覚り

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
0

仏教の目的は成仏であって覚りを得る事である。仏教とは、

仏説教(仏が説く教え)
説仏教(仏を説く教え)
成仏教(仏に成る教え)

まとめれば、仏教とは、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えである。
「正像末浄土和讃」の冒頭にあるように、

弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
夢告讃

である。
この上ない、無上の正覚をさとる、仏になる教えが浄土真宗である。
ともすれば、浄土教では救済の面が強調され、信の重要であることを語るが、このご法義の究極の目的は「無上覚をばさとるなり」である。
浄土真宗の救済とは、如来がまるで「金魚すくい」をするように衆生を網で掬うような救いではないのである。夜店の金魚すくいの屋台で、口をパクパクしている金魚を、網で掬うようなものとして「他力」を誤解している輩が多いのだが、これは大きな錯覚である。

善導大師は、救われたいという「願い」が、どれだけ真剣であっても、「行」がなければ覚りの世界へは往生できないと示されている。いわゆる、十願十行ありて具足する六字釈である。「六字釈
ただ、善導大師の六字釈と御開山の六字釈は少しく違い、御開山は、かなり複雑な六字釈をされるから面白い。
帰命(南無)を釈される結論は「ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり」と、されるのだが、これは覚りの世界から届けられる呼び声であると言われる。
愛憎を超え自他の対立を超えた仏の覚りの世界は窺う術(すべ)もないのだが、その世界から届けられる言葉が、なんまんだぶであると、御開山は仰せである。
そして、なんまんだぶを称える者を、その名義にしたがって摂取して不捨と言われるのである。
なんまんだぶは、阿弥陀如来の覚りが、声と言葉になって念仏の行者に顕現しているのである。
念仏衆生摂取不捨であるがゆえに現生正定聚であり、「帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数」(本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰入した人は、阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。)との仰せである。
眷属とは仲間ということであり、大会衆数とは阿弥陀如来の本願の法を聞く法座の会衆であるという意味である。本願を信ずるとは、自己の描く妄想や救われたいという欲望の世界ではなく、浄土という真実の世界を目指して生きる生き方をいうのである。貪瞋痴に覆われた生き方しか出来ないが、それでも浄土を目指して生きようという生き方には、もう既に生死(しょうじ)を超えた覚りの世界が味わえるのである。

「還相の利益は利他の正意を顕すなり。」
「証巻」総結

林遊を仏にしようという、他力(利他力)の正意は、林遊をして還相させようという下心であった。
ありがたいこっちゃな

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

« Prev: :Next »

Leave a Reply