おっぱいの話

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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言葉には流行りすたりがあって、生きて来た時代が違うと意味の通じないものになってしまう。
おっぱいという幼児語の語源探索はさておき、’70年代に流行った歌謡に、
「ボインはぁ~赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」 (月亭可朝:嘆きのボイン
と、いうのがあった。今では擬態語から派生した、このボインという言葉は死語であろうと思ふ。

さて、ボインの方のおっぱいではなく、母乳の方のおっぱいの話である。

最近はどうであるか知らないのだが、昔は赤ちゃんに母親が母乳を飲ませる風景は一般的であり、ほほえましく、かつ崇高な行為であった。赤ちゃんは、時・所を考えずに、お腹が空いたことを訴え、その要求を、泣き声で母親に知らせたものである。初めてお母さんになった女性は、そんな赤ちゃんの泣き声に応じて、恥じらいながらも胸元を開き、赤ちゃんのために授乳したものである。ほほえましくも崇高な姿である。

この母親の全面的な赤ちゃんへの無償の行為を題材にし、全分他力のお喩えとして浄土教では母の慈愛としての法話が語られて来た。もちろん譬喩であるから一分(物事の一部分を表わすこと)であり、阿弥陀如来の救済と比較にならない喩えではある。

おっぱい(母乳)は、母親によって造られるものでありながら、母親には何の用事もないものである。おっぱい(母乳)は、初っめから赤ちゃんのために造られるものであり、母親には必要のないものである。まるで、要求もないのに一方的に衆生の為に建立して下さった阿弥陀如来の本願のようである。浄土教では、このような無私なる母の慈悲を題材として阿弥陀如来の全分他力の救済を喩えて法話してきた。参考までに『往生要集』の「礼拝門」には極大慈悲母という表現がある。御開山も「行文類」で引用なさっておられるのだが、衆生をを包摂する阿弥陀如来の慈悲に母性にを感じられたのであろう。

さて、浄土真宗の教えに近いといわれる浄土宗西山派でも全分他力を説く。
隣の部屋で赤ちゃんが泣いている。母親がよしよし、お腹すいたね、と言って赤ちゃんの泣き声を聞いて立ち上がり、部屋の襖を開けて授乳するのが西山派の言う全分他力説である。赤ちゃんの助命という泣くという声に応じて、立ち上がって下さるのが阿弥陀様である、と表現するのが西山派の教えである。これはもちろん全分他力であって赤ちゃんの造作は無用であるといえる。(浄土宗鎮西派は半自力半他力説であるから、このような喩えは使わない)

ところが、御開山の全分他力説の浄土真宗との違いは、赤ちゃんが泣く必要があるという点である。泣くことすらも知らない赤ちゃんはどうなるのか。
その泣く力も無い赤ちゃんに視点を合わせた大悲のまなざしが、御開山のお示しになる本願力回向の浄土真宗である。南無と泣く手を差し出すことも出来ない衆生を抱いて抱えて摂取するというのが、御開山の仰る浄土真宗であった。
大河のど真ん中で、溺れている者にロープを投げて、このロープに掴まれ掴まれ、南無の手を出して掴まれというのが、西山派の教説である。我が浄土真宗は、ロープを掴まえる力もない溺れた者を、大河の中に飛び込んで抱いて抱えて摂取するという阿弥陀さまのご法義である。

若い頃は、「悪人正機」などという教えは、世間の道理に合わないと思っていたものだが、南無と差し出す手もない林遊の為に、元来は南無とタノム機の側の行為である南無を、阿弥陀如来の本願招喚の勅命(呼び声)であると、南無の機までも成就して下さったご法義が、なんまんだぶというご法義である。

正像末和讃」に、
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
と、あるが、まさに世間にあって、苦悩の有情の為に成就されたのが、阿弥陀如来の救済の本願であった。
この、苦悩の有情を首(はじめ、第一、中心の意)とするのが、慈悲の至極であると、御開山の仰せであった。
これを、聞いた上からは、限りなき御恩報謝の道が用意されているのだが、林遊の場合は煩悩の林の中で遊び、往生浄土までの御恩報謝の暇つぶしで遊んでいたりするのである。

御恩報謝の論理については、暇があったら書いてみようと思うのだが、覚如上人の言われる「信心正因・称名報恩説」が、今ひとつしっくり来ないのでパス(笑

おきそ同行の話

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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ネットでは言葉だけの世界だから、コミュニケーションにおける言葉による誤解や錯覚も多い。
林遊の場合は、攻撃的な性格からか、つい、あほとか莫迦という罵倒語を多用するので、より誤解されやすい。言っている当人が一番愚かである事を知っているから、つい相手も同じであろうとキーボードを叩いてしまう。
『涅槃経』には、畢竟軟語畢竟呵責軟語呵責 とあるが、本当の意味での言葉を使われるのは、菩薩・諸仏だけなのであろう。

さて、阿弥陀さまの法の前で、誰が愚かかという話である。

稲城和上から聞いた法話。

山口におきそという三十路(みそじ)を過ぎてなお嫁(とつ)がない浄土真宗の門徒がいた。

おきそ同行は心の変調からか少し頭が足りないと世間で言われている。

そんな、おきそ同行は、毎朝自宅の前を役場へ向かう人力車の村長に声をかけるのが日課だった。両腕を頭の後ろで組んで、

「村長さんは気の毒やなあ」

毎日の事であるから、村長さんも慣れていたのだが、ある日の事少し虫の居所が悪かったのだろう、

「コラッ、おきそ、世間ではお前の事を馬鹿の天保銭のおきそと言っているのを知っているのか、この八文め」

と、人力車を止めておきそ同行を詰問した。

おきそ曰く、

「村長さんは一円銀貨じゃから先が見えん、おきそは穴開き銭(天保銭)の八文じゃから先の後生が見える」

と、言ったそうな。

蓮如上人の御文章には、

「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」(八万の法蔵章

と仰せだが、生死を超えた浄土の世界を後世と定めたおきそ同行の言葉に、村長さんもビックリしただろうな。

以下、この法話の時代背景。




明治4年12月19日発令の新貨条令では天保銭10枚を以て八銭となり1枚が八厘(八文)となる。当百が八文通用で、一人前に百文で通用しないので、囃子言葉で馬鹿の八文天保銭と呼んだ。
林遊の子供の頃には、何回同じ事をさせても出来ない林遊に「お前は八文かぁ」と言われた記憶がある。
言葉は歴史的な背景の中で語るものであり、権利とか人権という翻訳語の上でご法義を語るのは、歴史を時間というカンニングペーパーの上で語るような虚しさがあるな。

大人の宗教

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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高森会という、似非真宗団体の会員のブログをウォッチしてるのだが、宗教的深みがないというか、まるで中高生の宗教ゴッコのようである。
学生時代に偽装勧誘で入会し、社会経験ゼロで教祖のねじまげた似て非なる教義を刷り込まれてしまったためだろう。
時々、社会経験の浅い浄土真宗の坊さんにもこのような輩がいるのだが、煩悩という心の闇を見つめる力が不足しているのではないかと思ふ。浄土真宗のご法義は、浅ましい生活をしているなあという、自らの煩悩の中に、阿弥陀如来から回向された他力(利他力)を仰いでいくご法義である。

以下、梯和上の『親鸞聖人の教え問答集』から、引用。

Q.わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。

A.その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは自分の力をたのみしして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。

それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛憎や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始るのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称えるものは、必ず往生させましょう。もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし五逆罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます)

馬鹿は死ななきゃ治らない、とかいうが、死ななければならないほどの、自分でもてあますどうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きていかざるを得ないのが林遊のような存在である。生きている限りは、煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということである。

これを慚愧し、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」というのが浄土真宗のご法義である。若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自己の覚りと林遊の往生を不二と誓われたのが本願である。愛憎の煩悩に苦しむ者にとって、煩悩の寂滅した世界があり、その世界を目指して生きよというのが本願の言葉である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

三恒河沙の諸仏の

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
正像末和讃

このご和讃は、『安楽集』「発心の久近」から材を採られたものである。

『安楽集』では、『涅槃経』の意を引いて、今、お念仏を称えこの教えを聞くようになったのは、ただ事ではない。実は三恒河沙のガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏にお会いしたから、この『無量寿経』の第十八願を聞き、お念仏する者になったという意味である。

しかし、御開山は、この『安楽集』の意味を転じていらっしゃる。
ガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏の前で菩提心を発して善行に励んで来たのに、何故いまも煩悩具足の凡夫でいるのかという問いである。
それは、諸仏の前で菩提心を発したが、それは自力の菩提心であったからというのが前掲の和讃の意味である。もちろん仏道において菩提心は大切であって、御開山も「大菩提心おこせども」と大の字を使っておられる。それは、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に、世自在王仏の前で発した大菩提心であって、末世の凡夫が発すようなものではないからである。

菩提心については「度断学成 (どだんがくじょう)」でも触れたが、全ての菩薩が発すという四弘誓願が基本である。この四弘誓願については『往生要集』の作願門に説明がある。(*)

御開山は、『無量寿経』に説かれる生因三願を分別(ぶんべつ)され、仮を捨て真に帰せよとの意から真仮を分判して下さった。それが「願海真仮論」である。

三 願 三 経 三 門 三 藏 三 機 三往生
第十八願 仏説無量寿経 弘願 福智蔵 正定聚 難思議往生
第十九願 仏説観無量寿経 要門 福徳蔵 邪定聚 双樹林下往生
第二十願 仏説阿弥陀経 真門 功徳蔵 不定聚 難思往生

つまり、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を、それぞれ『無量寿経』の三願に配当し、第十九願や第二十願の道を行くのではないですよ、と懇ろにお勧めくださってある。また、下図のように二双四重の教判によって、浄土真宗では、横超、弘願、頓教のご法義であって、今晩聞いて今晩助かる頓教の第十八願を示して下さってある。これが本願力回向の浄土真宗というご法義である。御開山は、自力の要門や真門に迷うのではないですよと懇切丁寧にお示しである。




さて、『無量寿経』の第十九願に、は、「十方衆生発菩提心修諸功徳」(十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修せ)とある。御開山のお心を窺えば、これは『観無量寿経』に説かれた仮の教説であり、邪定聚への道であって捨てるべきものである。

しかるに、第十九願の菩提心を発して往生を欣求せよと教える輩がいる。汝らは菩提心とはどういうものか知っているのかと問いたいのだが、彼の輩は「善のすすめ」といって行じて修するということを説き人々を騙している。

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり

と、御開山が自力の菩提心や回向する善を否定しているのも関わらず、第十九願の菩提心を勧め「修諸功徳」という名での善を勧励し、自らの名聞利養を図るのである。
菩提心は我々が発すのではなく、阿弥陀如来の菩提心に感動し、それに包まれて生と死を越えて行くのが浄土真宗のご法義である。

昔の布教使は、このような修善に迷う人には「あんたぁ、果遂の願があるからもう一回りしてくるこっちゃ」などと言っていたが、彼の善を奨める団体では、なんまんだぶを称えないから一回りではなく、御開山の仰るように「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」「真門決釈」ではある。
仮のご法義を示す「化身土巻」で説かれる三願転入の文は、私はこのような経過をたどりましたが、皆さんは決してこのような道に迷うのではないですよと、簡非して下さっている文である。某団体の教祖は、私もゼロから出発してこのような御殿を建てたのだから、あなた達もその道を歩みなさいと言っているそうだが、御開山のお心と比較対照にならない言葉ではある。

そもそも蓮師の言われる、後生ほどの一大事を自らが判断して学ぶこともなく、ただ一人の妄説を吐く一個の人格に委ねることが間違いなのだが、最初の刷り込みによって本物と偽者の区別がつかなくなったのであろう。悲しむことではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

気持ちのいい言葉ほど危ないものはない

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 仏教SNSからリモート
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真宗教団で、「生かされているいのち」とか、「尊いいのち」とか「いのちがあなたを生きている」など耳障りのよい言葉が多すぎる。

未来の見えない派遣労働で働く兄ちゃんや、リストカットを繰り返すお姉ちゃんや、病院のベッドにくくられているボケ老人にも命はあるのである。

悪人という語が、世間倫理の枠から外れ、聖道門仏教からも相手にされない者を指すならば、悪人正機を標榜する浄土真宗に、気持ちのいい言葉は似合わない。
正機とは傍機に対する言葉である。阿弥陀仏の慈悲の眼(まなこ)が、誰に焦点を結んでいるかが正機という表現である。

美しい耳障りのよい言葉を使い続けることは、本当にご法義をお伝えしなければならない方たちとの交渉を絶つ事だと思ふ。

「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。心偏に常没の衆生を愍念す」「玄義分」なのだから。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

[20080803]

後悔と懺悔

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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人は後悔をする。あの時ああすればとか、こうしておいたらという後悔の念を抱いたことのない人はいないであろう。
しかし、後悔というものに沈潜している限り、救いのない状態が続いているだけであって、本当の解決にはならない。

西田幾多郎は、わが子を亡くしたことを綴って以下のように言う。

最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。『我が子の死』西田幾多郎

西田幾多郎は、後悔の思いが起こるのは自らを信じているからだという。後悔することは自らの心の中での、逡巡でありそのような行為には救いがないということであろう。
仏教では「懺悔」という行為がある。

懺悔
懺は梵語クシャマ(kşama 懺摩)の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、悔過の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・大衆に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。

仏に対して懺悔することにより、仏がその懺悔を摂受して下さることにより、為した行為が許されるというのが懺悔である。自らで始末のつかない後悔を、自らの力で乗り越えていくことは出来ない。自らを超えたものによってこそ許しがあり救いがあるのであろう。

親鸞聖人は、『尊号真像銘文』で「称仏六字 即嘆仏即懺悔」を釈し、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。『唐朝光明寺善導和尚真像銘文

と、仰せである。
一声、ひとこえのなんまんだぶつが、如来の徳を讃嘆することになり、そして自らの行為を懺悔することになると仰るのである。自らが自らを裁き許しを乞うのではなく、仏のみ名を称えることにより阿弥陀如来が懺悔を摂受して下さるのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝

[20100727]過去日記より

暑い夏、熱い夏

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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     火葬場の少年


少年はけなげに弟の骸(むくろ)を背負い、そして歯を食いしばって何を見ているのだろう。

8月6日
広島平和記念日,広島原爆忌

1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空で世界初の原子爆弾リトルボーイを投下した。市街は壊滅し約14万人の死者を出した。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、辛いよなあ

度断学成 (どだんがくじょう)

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート, 管窺録
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衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
あらゆる生き物をすべて救済するという誓願

煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願

法門無量誓願学(ほうもんむじんせいががく)
法門は無尽だが、すべて学び尽くそうという誓願

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願

大乗仏教の全ての菩薩が発すという総願の四弘誓願である。

♪しゅ~じょぉむへんせいがんだ~ん♪等とお寺などで唱和する機会もあるので知っている人も多いと思ふ。

衆生無辺誓願度、とあらゆる生きとし生ける者(衆生)を済度(救う)するという一番目の願がメインで、後の三願はそれを実行しようという菩薩の決意の願である。

ある和上が、この四弘誓願について、本当にこの願を発そうとしたら人間は死んでいる暇は無い。ありとあらゆる迷いの世界(此岸)の衆生を、さとりの世界(彼岸)に渡すことを発願するというような言葉は人間の世界から生まれて来るような言葉ではない、と仰った事がある。

ちょっとビックリした。言葉と言葉が指し示す意味内容を何も判らずに唱和していた事に恥ずかしさを覚えた事であった。
同時に、そのような誓願の中に願われ、重ねて『本当に疑いなく私の国に生まれるのだと欲(おも)え、そして私の名を称えながら生きていけ』という、なんまんだぶつの御本願がたのもしかった。

私が願(菩提心)を発すのではない。菩薩の発した願に包まれ、願の意味を聴かせて下さる仏教がある事の再発見ではあったな、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……
[20080804] SNS

善知識にあふことも

林遊@なんまんだぶつ Posted in 管窺録
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善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし

この和讃は、『無量寿経』の流通分の文意を釈された「大経讃」である。
この和讃のこころは、「要門」・「真門」などの仮門を捨てて第十八願の他力の念仏往生の願に帰せよとの意である。

そのことは『化身土巻』の「勧信経文証」の文でわかる。

如来の興世、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞 きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなし き、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし。「勧信経文証」
現代語:
「如来がお出ましになった世に生れることは難しく、その如来に出会うことも難しい。また、仏がたの教えを聞くこともむつかしい。菩薩のすぐれた教えや六波 羅蜜の行について聞くことも難しく、善知識に出会って教えを聞き、信じてたもち続けることはもっとも難しいことであって、これより難しいことは他にない。 そうであるから、わたしはこのように仏となり、さとりへの道を示し、阿弥陀仏の教えを説くのである。そなたたちは、ただこれを信じて、教えのままに修行 するがよい」

この流通分の文を和讃されたのが以下の和讃である。

(68)
如来の興世にあひがたく
諸仏の経道ききがたし
菩薩の勝法きくことも
無量劫にもまれらなり
(69)
善知識にあふことも
をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなほかたし

(70)
一代諸教の信よりも
弘願の信楽なほかたし
難中之難とときたまひ
無過此難とのべたまふ
「大経讃」

ここに法に値(あ)うことの難を説かれてあるのは、第十八願を疑惑して信順しないことを戒められているのである。浄土真宗のご法義は、今晩聞いて今晩助かるご法義である。しかるに三願転入論などに迷い、善悪を超えた阿弥陀如来の救済を疑うから難なのである。法が難なのではなく、が難にしているのである。
まさに御開山が「正信念仏偈」で、

弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
(万人を平等に救う法として如来より与えられる本願の念仏は、自力をたのむ邪見で倣慢な悪人が、どれほど信じようとしても、難中の難であって、絶対に不可能なことである。)

と、いわれる所以である。

そして、その回向された本願の信心というものが、一切の成仏の因であるということを、上記の「勧信経文証」の文に続いて、『涅槃経』の「もし信心を説けばすなはちすでに摂尽しぬ」という以下の経文によって証明されているのである。

なお、ここでいう善知識とは、一連の涅槃経の引文に「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。」と、あるように、真如法性を悟っている菩薩・諸仏であってけっして某会の教祖のことではない(笑 「涅槃経の引文」

究極的な善知識とは第十七願で、なんまんだぶをお勧め下さる諸仏のことである。

『無量寿経』を未来に流布し伝持する結びの「流通分」で、

「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。 」「一念大利」
(「 無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。」)

と、諸仏のひとりである釈尊が、なんまんだぶの一念(一声)を、弥勒菩薩に、付属されたのがその意である。

御開山は『教文類』で、

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。「教文類」

と、真実の利を示された。この「群萌を拯ひ恵むに真実の利」といわれた、真実の利が、流通分の乃至一念のなんまんだぶである。
浄土真宗のご法義は、本願(第十八願)が宗であり名号を体とするご法義である。

前掲の和讃の次下に、

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
(72)
聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ
「大経讃」

と、「念仏成仏これ真宗」と、なんまんだぶを称えることが真宗であるといわれ、権実真仮の分斉が分らずに、権仮の方便である、聖道門や第十九願・第二十願の者を戒めておられるのがこの一連の和讃である。
『十住毘婆沙論』で、龍樹菩薩が「阿弥陀等の仏およびもろもろの大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得。」(*)とされる、なんまんだぶを称えることが往生の業因であり、それを受け容れた心が回向されたご信心である。これを大乗の至極のご法義というのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

 

ある日の事でございます。

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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ある日の事でございます。御釈迦様さまは極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
参照;青空文庫 蜘蛛の糸
うそ付け、極楽は阿弥陀さまで、お釈迦さまなら無勝浄土なんだけど(笑
(浄土とは一般名詞であり、極楽は阿弥陀さまの国のことで固有名詞である)

というわけで、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』である。

利己主義がいけないということを、カンダタの行為になぞらえて教える児童文学作品である。

家内が「読み聞かせ」というボランティアをやっているので、この話を、ビハーラの仲間とお寺の子供会でしたそうである。

子供の感想を聞く中で、一人の子が、

僕だったら、みんなを先にのぼらせて僕が最後にのぼるのに。

と、言ったそうである。
お寺へ出入りしている子は優しい子がいるのね、という家内の感想だった。

この話を聞いて、自未得度 他先度(じみとくど たせんど)という言葉を思い出した。
自らはまだ得ていなくても、まず先に他を救済(済度)しようという、大乗菩薩の利他のこころである。

浄土真宗のご法義では、このような菩薩の菩提心を、願作仏心 度衆生心(仏になろうという心は衆生を救済しようという心である)という。

『歎異抄』で、

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。(*)

と、示されるのもその意であろう。
そしてまた、阿弥陀さまの利他(他力)に生かされる者として、自分を犠牲にするのは嫌だが、少しだけ御恩報謝の真似に生きるという道も用意されているのが、このご法義であろうと思ふ。
御恩報謝とは、主体が私ではなく阿弥陀さまであるから、阿弥陀さまの好きな事はするように、阿弥陀さまの嫌いな事はせぬようにという生き方である。
仏さまの捨てたものは捨てなさい。
仏さまの好きなことはやるように。
仏さまが近づくなというところへは近づくな。『愚禿鈔』の第五深信の「唯信仏語」釈の意

しかし、これがなかなか難しいのではあるが……。

ちなみに、「自未得度先度他」という言葉は、『大般涅槃経』にある言葉である。
大正新脩大藏經テキストデータベース

「仏の行ぜ遣めたまふをば、すなはち行ず」
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ