三種の愛心

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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そもそも仏教では「愛」という言葉は否定的に使われる。
渇愛とか愛欲とか愛執など、いわゆる心を悩ませるものとして愛という語を使うことが多い。
例えば、最古層に属する聖典といわれるダンマパダでは、以下のように言う

210、 愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

211、 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいの絆が存在しない。

212、 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

213、 愛情から憂いが生じ、愛情から恐れが生ずる。愛情を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?

林遊は莫迦だから、人を愛したり裏切られたり、そして傷ついたりり苦しんだりすることが人生の妙味だと思っていたりもする。本当に愛し合えない存在だからこそ、返って愛おしくなるということもあるのだが、それは置いておいて三種の愛心という言葉がある。

三種の愛心とは、人が死に臨んだ時におこる三つの執着をいう。
WikiArcにUPした文章なのだが転載する。

「三種の愛心」

境界愛・自体愛・当生愛の三種類の愛心(執着心)のこと。

人の臨終の際に起こす三つの執着の心のこと。家族や財産などへの愛着である境界愛、自分自身の存在そのものに対する執着である自体愛、自身は死後どのようになるのかと憂える当生愛をいう。このような衆生の三種の愛心の障りを仏は安然として見ていられないので臨終に来迎するとされた。
法然聖人は、『阿弥陀経』の異訳である『称讃浄土仏摂受経』の「命終の時に臨みて、無量寿仏、其の無量の声聞の弟子菩薩衆と倶に、前後に囲繞し、其の前に来住して、慈悲加祐し、心をして乱れざらしむ。」の文から、来迎があるから正念に住するのであり、正念であるから来迎があるのではないとされた。つまり念仏を称えることによって仏の来迎があるという説を否定されている。(*)

親鸞聖人はこの法然聖人の来迎正念説を継承発展され、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「破闇満願釈」(*)

と、南無阿弥陀仏が正念であり、他力の念仏を称える行者は、すでに摂取不捨の身であるから来迎の儀則を固守すべきではないとされている。
となれば、なんまんだぶの行者は、ジタバタして死んでいけばいいのである。畳を掻き毟って三種の愛心に悩み苦しんで死ねばいいのである。
不安でいられるのは本当に安心できるものに出遇えたから、安心して不安でいられるのである。心の底から不安であるからこそ、その不安な心の、自分でも気が付かない闇の底まで、重誓名超声(聞)十方と重ねて今、すでに、口に称えられる、なんまんだぶが正念なのである。

よかったですね。遇い難い阿弥陀さまのご法義に出遇い、仏様の名前を口にする者にまで育てて頂いたのは、信玄袋を下げてお寺参りするばあちゃんの後姿や、なんまんだぶせんかい、と策励して下さった、じいいちゃんのお育てでした。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ