順彼仏願故

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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法然聖人の回心(*)を記したことがあったが、『和語灯録』から少しく引用してみる。

もし無漏の智釼なくば、いかでか悪業煩悩のきづなをたたむや。悪業煩悩の絆を断ぜずば、何ぞ生死繫縛の身を解脱する事をえんや。かなしきかな、かなしきかな、いかがせんいかがせん。ここにわがごときは、すでに戒・定・恵の三学のうつはものにあらず、この三学の外にわが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やあると、よろづの智者にもとめ、もろもろの学者にとぶらひしに、おしゆる人もなく、しめすともがらもなし。
しかるあひだ、なげきなげき経蔵にいり、かなしみかなしみ聖教にむかひて、てづから身づからひらきて見しに、善導和尚の『観経の疏』{散善義}にいはく、「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」といふ文を見得て後、われらがごときの無智の身は、ひとへにこの文をあふぎ、もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、决定往生の業因にそなふべし。
ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく弥陀の弘願に順ぜり。
「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。『諸人伝説の詞』(*)

法然聖人は、よろずの知者・学者の善知識を尋ねたが、だれ一人として、生死繫縛の身を解脱する道を教え示す者は、いなかったと述懐されている。
戒・定・恵の三学無分の者であるという自覚の上に立つ者には、信がないからであるとか、修行が未熟であるとかいう応答は、何の意味もないのである。そこで、なげきなげき、ひたすら聖教に向かわれた法然聖人が目にされたのが、『観無量寿経』の注釈書である『観経疏』の一文であった。「一心専念弥陀名号、行住坐臥不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業、順彼仏願故」(*)の文の「順彼仏願故」の文である。
自己が選択し回向する行業ならば、自己の選択の過失はとりかえしのつかない事になる。しかし、仏が本願によって選択してある行業であるならば、回向の主体が仏になるのであり、衆生の側からは不回向の行業であるのが、なんまんだぶの一行であった。

「順彼仏願故」と、あるように、仏願に順する行が一心専念の、なんまんだぶであった。この「順彼仏願故」の文によって私から仏へというベクトルから、仏から私へという方向転換の教説によって回心なされたのが法然聖人であった。口に、なんまんだぶと称える行為(行業)は、私が賢しらに選択するような行ではなく、阿弥陀如来の本願の中にすでに選択されてあった行であったという驚きであった。私が選んだ行であるならば、私の選ぶという行為の禍愚に左右され、決定の行ではない。しかし、阿弥陀仏が本願に選択して下さった行業であるならば、その行を行ずる者は、本願に随って往生せしめられる決定の行であった。これが法然聖人の教学の根本である選択本願念仏の教えであった。

称えたから救われるのではなく、称えた者を救うという、阿弥陀如来の利他の本願があるから救われるのである。この利他のはたらきを他力というのであった。他力の他は阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏の、他を利益する利他の本願に随順する者を他であるというのであった。他力の他は私であったのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、彼の仏願に順ずるがゆえに。

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