難しいことをやさしく

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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難しいことを やさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く、面白いことを真面目に、とは井上ひさし氏の言葉だそうだ。

なんまんだぶの、ご法義は「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(『歎異抄』)という、実にやさしい教えである。
で、このやさしいことを深く味わおうとすると、途端に難しくなる(笑
なぜ難しくなるかといえば、浄土真宗で使われる言葉は人間の側で使われる言葉ではないからである。
梯和上は、
「お聖教」は、言葉を超えた聖智の世界から言葉となって我々に届いてきた、ということを無着菩薩は『摂大乗論』に「最清浄法界等流」という言葉で表されています。{中略}
「最清浄法界等流」最も清らかな真理の領域から流れ出てきた言葉、それが「お聖教」である。(*)

と、言われておられるように、言葉を超えた最清浄法界の覚りの世界から等流する言葉であるから理解することは不可能である。

ただ、その言葉を受け入れて、その言葉が拓く世界を、言葉によって味わっていく世界であろう。御開山が「真仏土巻」で、飛錫の『念仏三昧宝王論』を引文され、「説より無説に入り、念より無念に入る」(*)と言われたのもその心であろうか。

何はともあれ、その難解な言葉を、難しいことをやさしく(全然やさしくないのだが)示して下さった祖師方の指南にしたがって、深いことを面白く、面白いことを真面目に、心のゆるみをもって学んでいくのも、このご法義の御恩報謝の楽しみではある。

そもそも、浄土真宗における信心とは、固く頑なに思い込む信ではなく、自らを解放していく信なのである。
御開山が「信巻」の真仏弟子釈で第三十三願、触光柔軟の願を引文されておられるが、「わが光明を蒙りてその身に触るるもの、身心柔軟にして」(*)とあるごとく、また『論註』の「善巧摂化章」に柔軟心(*)とあるように、自らの妄想にこだわらない生き方でもあるのだろう。

そんなこんなで、祖師方の著された聖教を、あれこれ拝読しているのだが、拝読すればするほど、真如のさとりの世界から、なんまんだぶと口に称えられ、林遊をしてやがて還相の菩薩たらしめんという名号が、ありがたいことである。

仏になるという途方も無い、難しいことを、やさしく、なんまんだぶを称えることだけと示し、そのやさしいことを深く説かれ、深いことを智慧の光によって自らの面(おもて、顔、目の前)が白くなるように面白く、面白いことを真面目に、我が名を称えよと示されるご法義は、ありがたいことである。
法然聖人は、
聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。(*)『西方指南鈔』の「浄土宗大意」
と、仰せだが、阿弥陀如来の本願(第十八願)を受け容れて、一人の愚者として、なんまんだぶを称え慶ぶまでに育てて下さったのは両親を初め、なんまんだぶを称える同行ではあった。

阿弥陀様の前で、世間怱々たる中で合掌して、なんまんだぶを称える姿によって、ご法義を相続して下さった御同朋・御同行ではあった。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

 

 

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