阿弥陀さまの大悲

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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中国残留孤児の話で、親を探すのではない、親に探されるということを当ブログで書いた。(*)
私が仏さまを探すのではない。仏さまが私を探し続け呼び喚け続けていて下さったという話しである。このご法義は、林遊が阿弥陀さまを知るのではなく、阿弥陀さまが林遊を知って下さるご法義である。以下、梯實圓和上の言葉をUPしてみる。

阿弥陀さまの大悲

 法然聖人において、回心以前の大悲観と、回心以後の大悲観は異なるのでしょうか。

 そうですね。やはり異なっているでしょう。それは自分自身が大悲に包まれて、そのなかで味わっていることと、大悲を外から味わっているというのとの違いがあります。
どこが違うのかといますと、お慈悲は私が知るものではなくして、私はお慈悲に見護られているということが味わえるようになっています。私は仏さまを知るものであり、お慈悲を知るものであると考えている時は、わからないことが苦になります。
しかし、私は知るものではなくて、常に知られるものであり見護られている者であると気付けば、知らないことが苦にならず、忘れたことも苦にならず、また聞かせていただき、知らせていただくことを楽しむようになります。
こういった違いが出てくるかと思います。このことはとても大事なことなのでございますので、よく味わっていただきたいと思います。

果てしなき求道という道で苦しんでいる方に、よく味わってもらいたい文章である。本当に安心できるものに出遇えたから、安心して不安でいられるのであるが、なかなか判り難いことなのだろうな。

才市さんは、なんまんだぶが出来たから、我が案ずることはないと言われたそうだが、往生の一段について案ずることはないのである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、この林遊になんまんだぶを称えさせる力が林遊を浄土へ生まれさせる力であった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

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