漢文と、その読み下しと現代語を合わせてお経を読んでたりするのだが、異質な言語である漢文を訓点を付けて、日本語で読もうとするってむちゃくちゃ天才のなせる技だと思ふ。
漢語は孤立語だから、一語一語に重層的な意味を持っているのだそうだが、よく、我々の先輩方は、異なった言語によって表現されている、仏教の描く世界を日本語で示して下さったものだと、少しく驚嘆していたりする日々ではある。
往生之業 念仏為本。法然聖人も御開山も、これが結論なのだが、なんまんだぶを称えたことのない、観念の遊戯をし、ありもしない信心とやらを求めることを材料にして、不浄説法をしている坊主の多いことは困ったものだ。いわゆる口説の芸能の徒なのだが、御開山聖人の報恩講(凡夫が仏になるという、阿弥陀如来の平等の大悲を説かれた恩徳の一分でも報謝する真似事をさせてもらおうという、浄土を真とする宗の行事の時期に沸いてくるので、少しく苦言を弄してみた。
浄土真宗とは、往生浄土を真とするご法義であり、第十八願の乃至十念の、なんまんだぶを称えるご宗旨であって、なんまんだぶを称えない者を浄土へ迎え取るというご法義ではないのである。
このご法義は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらす」るご法義なのである。信心とか安心とは、なんまんだぶを称える上で論じる、暇つぶしであろう。多分、御開山から叱られるであろうが、あなた様の見ておられた阿弥陀如来より回向された信心の世界は、窺う術(すべ)もないのであって、あなたの著された書物によって、その片鱗を窺うしかないのである。
御開山の見ておられた仏陀の覚りの世界は、窺うこともできない世界ではあるが、その世界から、林遊に、なんまんだぶと届いている世界から、御開山の感得せられたいた世界を、少しだけ窺うばかりである。
何はともあれ、信も行も、なんなんだぶにおさめて下さってあるご法義は、ありがたいことではある。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、これ最強だな。