もっと上手く鳴かんかい(笑

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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外でウグイスが鳴いている。
毎年、登場したての頃は、ホー・ケキョと下手糞な鳴き声のウグイス。
ホーッという初声につられて、脳内のシナプスがホケッキョを予想してるのだがはぐらかされる。
この予定調和をはぐらかされる感覚にはちょっと苛つく。

もっと上手く艶やかに鳴かんと雌が寄ってこんぞこらぁ、と庭に出て小一時間ほど言い聞かせてやりたくなる、我慢してるけど(笑

今朝のウグイスは、ホーッホケッキョと鳴く頻度が高かった。
先人は、ホーッホケッキョというウグイスの鳴き声を、「法を聞けよ」という聴聞への誘いだしだと言われていたが、聞いた法は声の法である、なんまんだぶであった。

なんまんだぶという言葉は、インド語の、ガンダーラ訛りの中国語訛りの朝鮮語訛りの日本語訛りである。
生と死を超えた世界から、生と死に呻吟し煩憂悩乱する世界へ届く言葉が、なんまんだぶである。
シナの元照律師は、『阿彌陀經義疏』で、

況我彌陀 以名接物。是以耳聞口誦。無邊聖徳攬入識心。永爲佛種 頓除億劫重罪。獲證無上菩提。信知非少善根。是多功徳也。(*)
《いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり》(*)
現代語訳:
まして、阿弥陀仏は名号をもって衆生を摂め取られるのである。そこで、この名号を耳に聞き、口に称えると、限りない尊い功徳が心に入りこみ、長く成仏の因となって、たちまちはかり知れない長い間つくり続けてきた重い罪が除かれ、この上ない仏のさとりを得ることができる。まことにこの名号はわずかな功徳ではなく、多くの功徳をそなえていることが知られるのである。(*)

と、『阿弥陀経』の意によって名号(なんまんだぶ)を称え聞くことの超勝性を説き、無上菩提を獲る仏陀の証(さとり)への仏種であるとされる。これを真宗では業因(我のなす行為=行)というのである。

真宗の学僧大厳師は、

罔極仏恩報謝情 (罔極の仏恩報謝の情)
清晨幽夜但称名 (清晨幽夜ただ称名)
堪歓吾唱雖吾聴 (歓びにたえたり、われ唱えわれ聴くといえども)
此是大悲招喚声 (これはこれ大悲招喚の声)

と、なんまんだぶという自らの称える声に本願招喚の勅命を聞かれたのであった。
この漢詩の意を、原口針水和上は、より解りやすく和語にされ、

我れ称へ
我れ聞くなれど
南無阿弥陀
我をたすくる
弥陀の勅命

と、讃詠されたのである。
信心正因という教説は、「願作仏心 度衆生心」の他力の菩提心の様相を描いて下さっているのである。菩提心が正因であるならば、当然菩提心によって呼びおこされる行業があり、その浄土真宗の菩提心から発起する行業が、なんまんだぶという口称の本願であったのである。御開山が「必定して希有の行なり」、といわれる所以である。

ホーッホケッキョ(法を聞けよ)というウグイスの鳴き声に、ようこそようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶと応答して、仏のみ名を称え讃嘆する行業こそが、浄土真宗における願作仏心 度衆生心の菩提心から沸き起こる行である。
三恒河沙という気の遠くなるような諸仏のもとで聖道の大菩提心を発したが、なんまんだぶを称え、なんまんだぶの阿弥陀如来の菩提心に包まれるという他力の菩提心を領解出来なかったから生死を流転してきたと御開山は仰せである。(*)

我彌陀以名接物である。法然聖人は、『和語灯録』の「往生大要鈔」で、

ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて口に南無阿弥陀仏ととなへば、こえについて决定往生のをもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。(*)

と、「こえについて决定往生のをもひをなすべし」と示しておられる。
なんまんだぶと称え、耳に聞こえる阿弥陀如来の選択本願の声に、阿弥陀如来の菩提心に感動するのが浄土教であり浄土真宗の綱格である。浄土門の菩提心とは私が発すのではなく、兆載永劫に思惟し易行の至極として、口に称えられ耳に聞こえる、なんまんだぶになられた仏陀の教説に随順することであった。
このなんまんだぶと称え耳に聞こえる「こえについて决定往生のをもひをなすべし」の世界の消息を、御開山は、本願招喚の勅命(*)と言われたのである。信巻で『論註』を引かれ「如実修行相応」とされ「信を彰して能入とす」とされた所以である。信心正因の信心とは、なんまんだぶを称えた者を救うという乃至十念の実践の上で論じる事柄であった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、我彌陀以名接物である。

 

往生成仏教

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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♪梅は咲いたか 桜はまだかいな、柳なよなよ風次第♪というフレーズの端唄(はうた)がある。

だいぶ前だだが、ふと思い立ち自家製の梅干を作りたくなって梅の木を植えた。
梅の木を植えれば花が咲き、花によって梅の実を結び、実を獲って梅干を漬けて、おかずにして食べようと貧乏な林遊が想起したのだが、手入れをせずに放ってあるのでひどいことになっている(笑

というわけで、なんまんだぶを称えるという行為を勧める第二十願には、植諸徳本(もろもろの徳本を植ゑて)という表現がある。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。

この徳本とは本来は徳の根本ということで大乗菩薩の修する六波羅蜜行なのだが、御開山は、なんまんだぶと称えることであると定義されておられる。善本も善の総体・根本の意なのだが同じく、なんまんだぶを称えることであるとされておられる。

顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。(*)

というわけで、御開山は『阿弥陀経』の意を表面に顕している第二十願は、「多善根・多功徳・多福徳因縁」の善本・徳本であるなんまんだぶを称えることであるとされる。
植諸徳本の《植》の語によって、自らが徳本を植えるという意が第二十願であると見られたのであろう。

と、ここまで前置きなのだが、なぜ浄土教では、なんまんだぶという徳本を植えるのかということについて、源信僧都は『往生要集』中で天台大師智顗の作といわれる『淨土十疑論』(*)の一説を引用して考察されておられる。

ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。
これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。(*)

なんまんだぶを称える行業は、阿弥陀如来の本願に選択して下さった念仏を称えて仏に成り、今度という今度こそ、自分の事だけで苦しむのではなく、普賢の徳(普賢菩薩のように、慈悲行を実践すること)を行じさせしめようという慈悲の至極の行なのであった。ゆえに、なんまんだぶを称える行業を「大悲を行ずる」と、御開山は仰せなのである。

「同情するなら金をくれ」というドラマの台詞があったが、金では解決できない問題、生と死を超える道を、つまり往生極楽の道を示すのが浄土仏教であり、それこそが、なんまんだぶを称えて仏に成る「大乗の至極」のご法義であった。

三心(至誠心、深心、回向発願心)・四修(恭敬修、無余修、無間修、長時修)『礼讃』などということは、なんまんだぶと称え、ただ一向に念仏する中に「みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。」(*)である。

この、なんまんだぶを称えている相が、すなわち「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来」の一心なのではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったねという由縁である。

宿善?

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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親苦、子楽、孫乞食という俚諺があるのだが、三代目というのは微妙な立場なんだろうな。
そんなこんなで、御開山の言われていない新しい名目を導入すると後世の人が誤解/錯覚して、浄土門の中に宿善なる善の勧めを持ち込む求道主義者が出たりする。いわゆる目的論者である。御開山の示して下さった、本願力廻向のご法義に入る道は無いのであるが、あると妄想している立場であろう。

で、暇なのでUPしてある三代目の覚如上人の伝記である『慕帰絵詞』(*)に少しく注釈を付加してみた。覚師は遇法の因縁を説明する用語として宿善という語を使われておられるのであろう。
以下、『慕帰絵詞』の説明をメモ用にUPしておく。

浄土真宗で「宿善」という言葉の意味でよく参照される『慕帰絵詞』第五巻 第一段の宿善の事についての文章。『慕帰絵詞』(ぼき-えことば)とは本願寺三代目を名乗られた覚如上人の帰寂(入寂)を恋い慕うゆえ作成された伝記である。しかして覚師を讃仰するあまりに筆が滑ることもあったことに留意して読むべきであろう。なお宿善の語義は、前世・過去世につくった善根功徳のことであり、本文中で覚師が『無量寿経』の往覲偈を引いて、曾更見世尊 則能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜(むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。)とあるように過去世における善根を指す言葉である。あくまでも遇い難き生死出ずべき道に遇い得たことを感佩する語であることに注意すべきである。なお、御開山には宿善という語は無いが法に遇いえた慶びを語る宿縁という語はある。衆生の有漏の心より生じる善に往生成仏の因としての意味を認めなかったからであろう。後年、蓮如上人は宿善という言葉を使われるが、この場合も「宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。」(現代語訳:宿善がすばらしいというのはよくない。宿善とは阿弥陀仏のお育てのことであるから、浄土真宗では宿善がありがたいというのがよいのである)(御一代聞書No.233)と、いわれるように宿善とは、法に遇い得た現在から過去を振り返る言葉である。

 御開山の教化に会った関東の古参の門弟との軋轢に呻吟した覚如上人であった。「体失往生と不体失往生」とか「信行両座」の諍論は、御開山の思想から想起すればまゆつばであるが、御開山が強調された本願力回向のを強調されようという意からは首肯できる。
しかして、その副作用として法然聖人が開顕して下さった、 選択本願念仏という、なんまんだぶを称えるという行を軽視する輩を生み出した遠因にもなる人であったとも思量する。
そもそも浄土教とは、龍樹菩薩が『十住毘婆沙論』で示されたごとく、

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。

なんまんだぶを称えて、 阿耨多羅三藐三菩提を得るご法義である。安心とか信心ということは、称えられている、なんまんだぶの上で論ずることである。御開山が開顕して下さった浄土真宗は、なんまんだぶを称えた者を救うというご法義であって、なんまんだぶを称えない者を救うというご法義ではないのである。唯円坊が、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

と、ただ念仏してといわれる所以である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

歓喜信心無疑者

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBで、以下の和讃を見かけた。

歡喜信心無疑者をば、
與諸如來ととく
大信心は佛性なり
佛性すなはち如来なり

この和讃は、いわゆる国宝本の和讃で、文明本では、

(94)
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり (*)

で、ある。意味は同じである。
この和讃は、『華厳経』の最後の偈文、

聞此法歡喜 信心無疑者
速成無上道 與諸如來等

と、『涅槃経』の

大信心者即是佛性 佛性者即是如來

の、文言に依って和讃されておられ『教行証文類』の信楽釈で引文されている。

『華厳経』
「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。(*)

『涅槃経』
大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。(*)

いわゆる天台の五時教判では、『華厳経』は最初に説かれた仏陀の覚りの内容とされ、『涅槃経』は仏陀入滅の最後に説かれた結論であるとされる。
『教行証文類』においてもこの二経は連引されておられるのだが、仏教のアルファとオメガ、つまり釈尊の一代の教説を象徴するという意味で引文されておられるのであろう。ここいらへんは御開山のスケールの大きさを感じさせるところである。ちなみに、『華厳経』の

聞此法歡喜 信心無疑者
速成無上道 與諸如來等

は、当面読みでは、「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」と読むそうであるが、御開山は、上下を入れ替えて「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」と読まれている。
如来の信心を歓喜するとして、信心は如来からの賜りものである意を顕すためこのように訓まれたのであろう。その聞信していることが浄土真宗における信心仏性であった。
また、本願成就文の、

諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。(*)

の意からもこのように訓まれたのであろう。『讃阿弥陀仏偈』の

あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。(*)

も、同じ意味であろう。
ようするに、浄土真宗の信心とは自らが発起するのではなく、如来のご信心に包摂されていることを聞信するのである。そのためには常に自己の中に自力の信心らしきものを見出した時は常にこれを否定していくのが、「この法を聞きて信心を歓喜」するということである。
そして「この法」を告げる言葉が、「聞其名号」のなんまんだぶでなのである。

 

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ